第六章
昭裕はベッドの上で一人あぐらをかいていた。
時刻は午後十一時。晩ご飯は、朋香がアルバイトをしている食堂ですませた。月に数度ある外食は大抵ここだ。食後、はとこの仕事が終わるのをそのまま待ち、彼女を下宿まで送ってからの帰宅である。
食堂の親父さんには行く度に冷やかされる。弁解はもう諦めた。
はとこの部屋は相変わらず本だらけだった。ベッドの上が奇跡的に綺麗だったのは、筑紫明日飛を泊めたからに違いない。実家からの仕送りは一応受けているはずなので、アルバイト代のほとんどは本の購入に費やされているのだろう。
彼女の部屋の床が抜けないことを祈るばかりだ。
「夢の中を歩くか」
昭裕は跡切の提案を口に出してみた。おそらく今日も眠れば、雨の夢を見るはずだ。
「でもなあ」と昭裕は一人ぼやく。
朝起きたとき、昭裕は夢の内容のほとんどを覚えていた。夢をきちんと見たはずなのに、その内容を忘れてしまったという話はよくあるが、その逆なのだ。
ただ一方で問題もあった。
「脳みそに靄がかかってるみたいなんだよな」
夢の中の昭裕は普段の自分と比べると随分と頼りない。そう自覚していた。
「……体も子供になってるみたいだし」
もしかすると知能も体力も外見に応じたものになっているのかもしれない。夢の中の自分は現時点――つまりは十八歳――における記憶を持っていないようだった。
「まあ夜だし、どのみち寝るしかないんだけどさ」
枕の崩れを直す。
睡眠は日常生活の一部分なのだから、どうせ拒むことはできない。
昭裕は目覚まし時計『鳳凰雷電Ⅱ改』の目覚ましスイッチをオンにし、ベッドに倒れ込んだ。
睡魔は案外早く襲ってきた。
雨が降り続けていた。光は閉め出され、周囲は闇に満ちている。
「……なんだっけ?」
いつからか一人そこに立っていた彼はそう呟く。何かすべきことがあったはずなのに、思い出せなくなっていた。やるべきことを見失った彼は座り込んだ。
「痛い」「重い」「苦しい」「寒い」
雨が様々な感情を伝えてくる。
彼は黙りこくり、その言霊たちを受け止め始めた。そうしないといけないのだという思いが胸の中に生まれていた。
頭上から声が聞こえてくるまでは。
「歩きなさい。歩くの。約束したんでしょう」
それは敵意がなく、正の感情がこもった声だ。
彼はその声に引っ張られ、再び立ち上がった。
――どこに歩けばいいの?
「どこでもいいから進むのよ。進みなさい」
――そっか、どこでもいいのか。
声の言うことに納得した彼は周囲を見遣った。そして一つの発見をする。
――あれはなんだろう?
小さな光があった。
暗闇の中に存在している故、とても目立っている。
――行ってみよう。
そう思わせるに十分な存在だ。目標となった。
彼は光に向かって歩き出す。
――雨が止む?
歩き始めしばらくしてから、彼は二番目の発見をする。
雨足が弱くなっていた。わずかずつではあるが確実に降水が減り始めていた。どうやら目標付近は晴れているようだ。
暗闇の中、いつの間にか昭裕は黒色の物体を握りしめていた。
「これアレだよな」
しげしげと見つめる。名称も役割も知らないが、跡切の落とし物の一部に違いなかった。黒一色であるにもかかわらず、その存在を暗闇においてもしっかりと見ることができた。
「ええっと」
昭裕は自分の行動を振り返った。明確にするために、わざと声に出してみる。
「眠って、夢に到着。雨が降ってて、意識がぼやけてた。座り込んだけど、正体不明な声に誘われて立ち上がった。光を見つけて歩き出して、その正体が実は跡切さんの落とし物で、拾った途端に意識が鮮明になった。ついでに雨も一応止んでますよと。うん、訳の分からん状況だけどちゃんと覚えてる。把握できてる。よし大丈夫だ、俺。……体を除けばだけど――」
あぁ、と嘆き、昭裕は意図的に無視していた事実をついに認める。
声も体も幼かった。
周囲は暗く目視できないので手で体を触りしっかりと確かめる。
腕も足もひょろりとしていて、顎も臑もひどくつるつるになっていた。
「あーあーあー」
声も高い。声変わりしたのは中学になってからなので、この体はそれより前のものだろう。
今までも夢の中では幼い姿態だったわけだが、思考がきちんとしている状態ではちょっといやかなり恥ずかしい気分だった。
完全に小学生時代の伊東昭裕の肉体に戻っている。
ここは夢の中なのだ、と強く実感する。意識がはっきりしたのは、跡切の落とし物のおかげだろうと勝手に推測する。根拠はないが、なにせ常識外の人の持ち物だ。それぐらいはできそうだった。ただ前に拾った黒い物体とは幾分形が違っているから、これはここに落ちていたものだろう。とりあえずズボン――手触りからジャージとわかった。小学生の頃の普段着だ――のポケットに入れておく。
「さてどうしようか」
雨は肌を濡らしてはいないが、雨音自体は四方から聞こえてきていた。頭上だけ雨粒がないという状況のようだ。奇妙なことだ。
「歩け~、歩くのだ~」
正体不明な声が再び響いてくる。さっきより力が抜けた感じだ。
「……緊迫感なくなってるぞ、おい」
苦笑いする。聞き覚えのある声だが、面と向かってないせいか誰のものかはわからない。
「さーてと、では歩きますかね。しっかし東西南北どころか前後左右もわからないな、この暗さじゃ」
状況を声に出して確認する。自分の手でさえも、闇夜のカラス状態で見えなかった。これはちょっと、いやかなり怖い状況である。ただ地面は真っ平らなようで、歩くには支障なさそうだ。先の道のりも同じとは限らないが……。
昭裕は視覚に頼ることを諦め、耳を澄ましてみる。
「ううん? さっきまでと違うな」
雨音の変化に気づく。先程――正確には意識が不明瞭だったとき――までは、某かの感情を含んだ種々雑多な雨たちが混ざり合い降っていた。そうした雨を肌で耳で感じていた。
今は違っている。
雨たちは独立し、めいめい個性を放っていた。雨音がしっかりとした指向性を保持し、その存在を主張している。
硬い音、柔らかい音、強い音、弱い音、鈍い音、高音、低音、……、悲鳴、絶叫、妬み、誇り、嗚咽、歓喜――。
どこからどんな音色が聞こえてくるのか明白だった。特殊な音響機材がなければ成り立たない事象がここでは普通に起こっていた。加えて、その数は非常に多い。
「あー、どうすっかなあ。……よし」
選択肢の多さに迷った末、とりあえず危険の無さそうな感じの雨にしよう、と昭裕は歓喜を選択する。
そちらへ向かおうと足を上げ――、
「うおっ、とっと!?」
すぐにその場で下ろしてしまう。
状況がまた変化したのだ。
歓喜以外の雨音が消えていた。
昭裕はいつの間にか歓喜の雨だけに包囲されていた。まだ歩いてもいないのに、だ。
「無茶苦茶だなあ。まあ怖くはないけどさ」
今、昭裕を包囲している雨はまったく圧迫感を持っていなかった。
「……どうせ向かうつもりだったんだし、手間が省けたと思えばいいか。うん、便利で良いじゃないか」
むりやり自分を納得させ、昭裕は雨に突入した。
歓喜の雨は暖かく柔らかだった。
「濃度が増してる……?」
言葉では上手く説明できない不思議な雨だった。雨足も雨音もずっと一定だと思えるのに、歩けば歩くほどその存在感がどんどん濃密になってゆく。
「でもやっぱり怖くはないな、うん」
一人納得する。それどころか闇だけを意識しないですむ分だけ逆に助かっているかもしれない。昭裕は不安を抱くことなく歩き続ける。
そして、ついに雨のカーテンを通り抜けた。
視界が突如明るくなる。そこには明確な景色が広がっていた。
(……俺だ。俺がいる。小学生の時の)
景色の中心に、幼い昭裕がいた。
幼い彼が窓から顔を出している。
誰かが彼を見ているのだ。そして、十八歳の昭裕はその誰かの視線を借りていた。
「おまえ、下手くそだなあ」
『誰か』を指さし、幼い昭裕が笑う。声もちゃんと聞こえた。五感全てを共有しているようだ。
「うー」
十八歳の昭裕が拝借している視線の主は、女の子だった。
不満げに唸っているが迫力はまったくない。手にしているのは縄跳びのロープだ。
視界が上下に揺れ始める。女の子の腕が大きくうねっているのが分かった。
「あいたぁ」
すぐに揺れは収まり、女の子が足をさする。
「ほんと、どうしようもなく下手くそだなぁ」
幼い昭裕が大仰に肩をすくめ、首を左右に振ってみせる。
「腕、動かしすぎだっての。わき毛見えてるしー」
「そ、そんなの。まだ生えてないもん」
(……殴りたい、その笑顔。何つーこと言いますか、このセクシャルハラスメント・マセガキは。……うん、俺だけどな)
昭裕は過去の自分に呆れ、恥じ入るしかない。
そうした現在の昭裕の想いを無視し、過去の世界は淡々と進んでゆく。
「もっと手首使えよ。こんな感じに」
幼い昭裕が手本を示している。
「うん。多分わかった、かな。やってみるね」
(そうだ)昭裕はしまい込んでいた過去の一片を思い出した。
放課後、誰も来ない図書館で昭裕はひとりぼんやりとしていた。図書委員の当番をしていたのだ。その日、一緒に残るはずだったもう一人の図書委員は欠席していた。つまり、一人の時間があまりに退屈だったため、クラスメートの女の子をおちょくっていたのだ。彼女は図書館の裏手でなぜか縄跳びの練習をしていた。
小学五年生時の出来事だ。季節は初夏の一歩手前ぐらいか。爽やかな緑の香りが空間を支配していた。
「――四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、四十九、五十! おおっ、五十回飛べたじゃん」
「えへへ、かろうじてだけどね。アドバイスありがと」
「別に大したことじゃねえし」
十歳の昭裕はそっぽを向く。たぶん照れたのだ。
「……伊東くんはすごいなあ」
女の子は縄跳びのロープをぎゅっと握りしめ、十歳の昭裕に語りかける。
「えっ、何で、何が?」
目の前にいる昭裕はきょとんとした顔をしていた。
「だって苦手なことなさそうなんだもん。水泳だって得意でしょ。……わたし、四年生の時――」
女の子はそこで言葉を止めた。その視界は十歳の昭裕だけで埋まっている。深呼吸を一つしてから、少女は再び口を開いた。
「プールの授業で溺れて、伊東くんに助けてもらったんだよ。覚えてる?」
「あ、あぁ、うん。まあな。ふっはっはっは。感謝したまえよ」
覚えてなかったくせに、と十八歳の昭裕は苦笑する。何せ本人なのだ。言い淀んだ様子からすぐに理解できた。目前に苦しそうな顔があったから、手を差し伸べた。それだけのことだろう。誰が相手でも助けていたと思う。
「ね、ねえ、夏になったら一緒にプールに行こ? 泳ぎ方教えてほしいの。お願い!」
視界から昭裕が消え、地面ばかりが見える。頭を下げ、女の子は頼み込んでいた。
たぶん必死なのだ。
下校を促す音楽が唐突に鳴る。そこで夢は終わった。
午前七時。
目覚まし時計が唐突に猛烈に騒ぎ出した。眠っていた昭裕の体がビクンと震える。
近所迷惑なブツを抹殺しようと昭裕はもぞもぞと動き、目を開けないまま音源に向かって腕を伸ばす。
――ジャララララ、パシン! 行動達成前に音が止む。
「?」目をこじ開け、昭裕は状況確認を開始する。
「……はへっ」一瞬惚けた。次に何度も瞬きする。しかし、状況に変化はない。寝ぼけてはいない。ひねった頬は痛かった。もう夢の中ではない。
――なのに、
至近距離にはとこの顔があった。訳がわからない。
現在地はもちろん自室のベッドの中だ。
「……えっ、えっ、えっ」
なぜだ。どういうことだ。慌てて自分の下半身に手を伸ばす。
ズボンあり! パンツあり! よし、OK! きちんと着装している。
昭裕は胸をなで下ろす。安堵した途端、今度は怒りがこみ上げてきた。
「おい、トモ姉」
タオルケットを引っぱがす。
「うっ」
……昭裕は硬直した。
怒りが狼狽に一瞬でクラスチェンジする。
朋香はTシャツと薄手のホットパンツしか着装していなかった。日焼けしていない白い太ももが微かな色気を発散している。
昭裕は不覚にもその姿態に魅了されてしまう。少しやばいかもしれない。
手が前に伸びてゆく。
「んむぅ。もうちょっと寝るのー。起きたらパンとコーヒーとスクランブルエッグぅ。もしくはゴージャスお粥でも可だよぉ」
「……あほらし」
その色気ゼロの戯言は昭裕を一瞬で正気に戻す。
彼はため息をつきながら、はとこにタオルケットを再度かぶせた。
午前八時半。
「ふあぁ、おはようアキくん」
タオルケットを体に巻き付けたまま、朋香はぺたんと床に座り込んだ。
「いい匂いね」と微笑む。
「ほれ、目覚まし」
すでに着替えを終えている昭裕がカップを手渡す。
「うん、ありがとね」
朋香はすぐにカップに口をつけ、
「……にがあぁぁぁぁあいいぃぃぃぃ。アキくん、これなによおぉぉぉぉ」
涙目になった。
「えっ、コーヒーですよ? まさか! あなた、コーヒーをご存じでない!?」
昭裕は大仰に驚いてみせる。
「し、知ってるに決まってるでしょー。こ、コーヒーの、歌だって、歌えるんだから」
朋香はもがきながらも律儀に突っ込んできた。
「に、苦い、苦い。ともかく苦いのよぉ。ミルクぅ、ミルク入れてぇ」
「あいにくと切らしておりまして」
昭裕は白々しく嘘をつく。
(マスター。コーヒー、ありがとうございます! 今こそ積年の恨みを晴らしてみせます。ついでに在庫処分です)
両者は対立した。視線が空中でぶつかる。
「うぅ、意地悪するつもりね。こうなったらアキくんの『男の娘』姿、ネットに流してやるんだから」
「……それは後生ですからやめてください」
一瞬で勝負は付いた。敗者、昭裕。連敗街道まっしぐらだ。
「これでおいしくいただけるわ」
超スーパー・ブラックコーヒーがカフェラテらしきものに変貌したことで、朋香は上機嫌になった。
はとこが食事(注文通り、パンとスクランブルエッグだ)を終えたところで、昭裕は話を切り出す。
「あのさ」
言い出しにくいことだが、言わねばならない。
「うん」
朋香も神妙な面持ちになった。
「あの――」
やはり言葉が途切れてしまう。
これではいかん、と昭裕は大きく息を吸った。
(よし!)
言うべきことを短くまとめてから、一気に吐き出す。
「男女七歳にして席を同じうせず!!」
「アキくんは大正の人ですか?」
朋香は感情だけが先走りすぎている言葉をしばらく吟味した。
「えっと、意訳するね。断りもなしに男のベッドに女が潜りこむんじゃねえ! アレやってできちゃったら責任とらねえといけねえじゃねえか、で合ってる?」
「後半の訳はいらねえです!」
「えぇ、やるだけやって逃げるつもりなの!? それは卑怯よ、卑怯だわ。鬼畜の所業よ」
「ちがあう!」昭裕は吠える。「そういうシチュ自体がないってえの!!」
「アキくん、息が荒いわ。やだ興奮してるの。わたしったらもしかして貞操の危機!?」
朋香がタオルケットをしっかりと体に巻き付ける。
「……朝から十二分に疲れましたから、もう勘弁してください」
昭裕はがっくりと跪く。
「よろしい」満足げに朋香は頷いた。
「本当はね、トギさんに電話で頼まれたの」
「頼まれた? 添い寝を?」
首を傾げまくる。訳が分からない。
「添い寝は単なる結果ですよーだ。夢どうだった? ちゃんと歩けた? わたし、夜中の三時くらいまでアキくんの耳元で囁いてたんだよ。歩け、歩けってね」
「うわあ」
昭裕は頭を抱えた。跡切の狙いは理解できたが、想像するにこの手段はかなり恥ずかしいのではなかろうか。
あの脱力感満載の声の主は朋香だったのだ。
「アキくんの寝顔、可愛かったぁー。つい写真に撮っちゃったわ。スマホの待ち受けにしようかしら」
「すぐさま消去に一票です!!」
全身全霊をかけて挙手するが、朋香はあっさりと腕でバツ印を作って見せた。
「却下です。それよりどうだった。効果あった? ねえねえ」
「……あった」
敗北感が胸に去来する。すごく悔しい。
「……でもよく考えたら録音した音声をループ再生しとけばよかったんじゃ」
昭裕の意見を朋香は鼻で笑ってみせた。
「ちっちっち、だわ。甘々よ、甘々。スクラロース以上の甘さだわ。アキくんが起きない程度に声かけするのにわたしがどれほどの苦慮をしたと思ってるのかしら。ずぅぅぅっとゼロ距離射撃的な近距離でアキくんの眼球運動を観察してたんだから」
「うわあ、うわあ、うわあ」
昭裕は精子から人生をやり直したい気分になった。人生の侵され具合が酷すぎる。
悶えていると、インターフォンが鳴った。
「どちらさまですか?」
宅配の来る予定はなかったはずだ。
「お邪魔~」
客は跡切だった。
「あぁ、ごめん! や、やりこみ中だった?」
部屋に上がり、朋香がタオルケットにくるまっている姿を見るや跡切は動揺を見せる。
「違う! 断じて違います」
「残念ながら真っ裸ではないのですよ」
二人の大学生はそれぞれの表現で疑惑を否定する。
「あら、そうなの。少年は若いのに淡泊だわね。で、どうだった?」
「人をどういう目で見てるんですか。……歩きましたよ、夢の中。自分の意思で」
「お、やったか。でかした、朋香くん」
「はいですー」
にこやかな返事に跡切は満足気な顔をし、フローリングにそのまま座り込んだ。
「アタシの目論見が当たったね。目覚ましとかの外部刺激で目を覚ますことができるんだから、それより弱い刺激でなら夢の中の少年に指示を出せると思ったんだよ。あ、アタシも朝ご飯お願いね」
昭裕は無言のまま立ち上がり注文に応じた。女性に対する反抗が無意味なのはすでに朋香で判明している。
「はい、具だくさんトーストです」
チーズが大量に投入されたスクランブルエッグとベーコン、それにレタスとトマトとキュウリが二枚の食パンに挟まれている。飲み物はバナナジュースだ。
「豪勢だねえ。……びた一文払えないわよ」
「いいから、食べてください」
素っ気なく言う。豪勢にしたのは跡切の服装が昨日とまるっきり一緒であることに気付いたからだ。徹夜で動いていたのかもしれない。
「ふぅ、満腹だわ」
ものの数分で食べ終わった跡切がごちそうさまと昭裕に向かって手を合わせる。
「これで三日間は食べなくても大丈夫っと」
「いくらなんでも……無理ですよ?」
いちおう否定したが、ちょっと自信が持てない。
「ところで夢歩きはどんなだった?」
後ろ手に床に手を付けた跡切が尋ねてくる。
「そうですね。あっ、ちょっと待ってください。渡したいものがありました」
昭裕は寝間着代わりのハーフパンツを取りに行く。
「ポケットにですね――あれれ、ない?」
「少年?」
昭裕はハーフパンツを逆さまにし、上下に振る。
「アレですよ、アレ。夢の中で見つけてジャージのポケットに入れといたんです。――夢? ……すみません、そうでした。夢でした」
「えーと、よくわかんないけど慰めは要りますか? アキくん」
「いらない」昭裕は少しふて腐れる。
「あー、少年。自己完結されても困るよ。起承転結でも何でもいいからさ、そこらへんを意識して具体的な説明をしてもらえるかな?」
「はい」情けない顔のまま、昭裕は頷く。
夢の中、朋香の声に従い歩き、跡切の落とし物を見つけたこと。それを持ったとたん意識が鮮明になったこと。小学生の頃の出来事をクラスメートの視線で見たこと。――等々を告白する。縄跳び少女とのやり取りについては、照れくささから少しぼかしてしまったけれど。
話を聞き終えた跡切は「なるほどねえ」と言い、「よしっ」と勢いよく立ち上がる。
「少年、今から小旅行をするよ。支度をしたまえ」
「旅行ですか? えっ、何泊ですか?」
突然の申し出に昭裕はあたふたとする。
「日帰りだよ。お泊まり旅行は朋香くんとしてくれたまえ」
「やった!」
「し、ま、せ、ん」
「えー、どうしてよぉ」
「では、……そうだね。九十分後に駅前で再会しようか。旅費を忘れずにね」
跡切はさっさとドアの向こうに消えてゆく。
「忙しない人……だなあ」
「でも、ちゃんと仕事してくれてるんだからいいじゃないの」
まあね、と昭裕は閉じたばかりのドアを見た。商売とは言え、他人のためにこうも忙しなく動いてくれているのだから、良い人ではあるのだろう。




