第九章
「うーん――?」
夜の眠りの不足分を補うためベッドで午睡していた朋香は人の気配に目を覚ました。
「ア、アキくん!?」
はとこが自分の両肩のわきに手をつき、こちらを覗き込んでいた。顔がとても近くにある。ちょっと動揺する。唐突であったし、なによりリードするのは得意だが、リードされるのは苦手なのだ。
「トモ姉、寝るよ」
「は、はい」驚きを喜びに変換しながら、朋香は目をつむった。
(土曜日の昼下がり、わたしたち二人はついに――)
「九十分間隔ぐらいで起こして……」
言葉の後、すぐにスースーという寝息が隣から聞こえ出す。
(えぇっ!?)
ぱちくりと朋香は目を瞬く。最愛のはとこはすでに夢の中だった。
正直、ガッカリだ。
「もう、この肩すかし男め。……お仕置きしちゃうんだから」
朋香は彼の額にそっと唇を寄せた。嬉し恥ずかしい気分になった。
「いるんだよね。出てきてくれないか」
夢の中、昭裕は少女の名を呼ぶ。応答はない。二度、三度と呼びかけるが、変化はない。いつも通りの状況だ。種々雑多な雨がひたすら降っている。
出てきたくないのか。昭裕は嘆息するが、その心情も理解できた。被害を与えた相手に姿を見せることは嫌だろう。自分なら躊躇する。
……感情があればの話だが。
「ともかくやれることをやろう」自分に言い聞かせる。
雨音を選択する作業に入る。どんな音を選べば、目的が達成できるかは不明のままだ。勘でやるしかない。
(これなんてどうだろ。色々と情報が詰まってるんじゃないか)
選択したのは、姦しくピリピリとした感じの雨音だった。
またもや雨に包囲されてから、昭裕は出発する。
そこは痒みのエリアだった。
「か、かゆい」
昭裕は悶えていた。姦しくピリピリとした雨が彼の背中をむずむずとさせる。
世界中の人間から白い目を向けられているような感じだ。
(でも、前進あるのみ!!)
目的遂行のためにはこんな些細な障害に負けてはいられない、と昭裕は痒みをこらえ、歩を進める。
――負けておくべきだったと彼が思うのは、ほんの少しだけ先のことだった。
(……ヤバい。無茶苦茶ヤバい。非常にまずい)
視線の先には、五年一組の女子達がいた。男子はいない。場所は小学校の保健室だ。
どうやら身体検査の最中らしい。甲高い声が飛び回っている。
「藤宮さんのブラ、なんか大人っぽいねー。さすがです」
「へっへー。あたしもつけてるぜー」
「えー。マキもなのー。ちょっとショックぅ」
「わたしも今度ママと買いに行くんだ」
「うちのお父さん。あたしがブラ買ったのお母さんから聞いて、びっくりしてたみたい」
「あー、それ。わかるわかる。可笑しいよねー」
そんな会話に視線の主は下を向いた。そっと自分の体操服の襟元を引っ張る。
見事にペッタンコだった。どうやら気にしているらしい。
視線がすべての女子の胸を巡回してゆく。
それは数年もすれば雲散霧消してしまう思春期特有の悩みの一つだ。大人になってしまえば、おそらく笑って流せる過去の悩みとなる。だが、当時の視線の主にとっては深刻な問題であるのだろう。そして、視線を借りている昭裕にとっても今の状況は深刻だった。
(すみません、ごめんなさい、ごめんなさい、忘れます、忘れますから)
昭裕は謝罪に謝罪を重ねた。……徒労だが。
なにせ目前の情景は視線の主が瞼を閉じでもしてくれない限り、消えることはない。故に昭裕の意向に関係なく上映され、強制的に見せつけてくる。その手の趣味はない昭裕だが、さすがに変な気分になりそうだった。
絶賛、汚名挽回中。
『こいよー、オレ様のワールドへ』
ロリペード・大友が岸の向こうで元気に手を振っていた。
目覚めたとき、昭裕の鼻にはティッシュ・ペーパーが詰められていた。
「ねえ、アキくん。――どんな夢を見たのかな? お姉さんに言ってみな」
「つ、次行ってみよう」
凍てつくような視線と声でもって尋問してくる朋香に昭裕は辛うじて黙秘権を行使し、次の眠りに入った。
「厳選しないといかんな。後が怖い」
結局は勘に頼らざるを得ないのだが、昭裕はとにもかくにもそう決意する。
総計で四番目に選んだのは単発的にボタン、ボタンという重い音を立てる雨だった。
「おっかないな」
雨に突入し、情けなくも昭裕はすぐに後悔していた。むろん進むのを諦めはしないが、暗闇の中、重みのあるものが落下する音を聞くというのはぞっとしない。とても雫が立てる音とは思えない。
「あうっ!?」
雨粒が昭裕の腕をかすめる。不安は的中していた。奇妙な痛みを昭裕は味わう。
強引に例えるなら、炎と氷とが練り込まれた硬めの粘土、それを投げつけられたような痛みだ。
昭裕は我慢しきれず、頭を腕で庇い、走り出した。通り抜けるまでに腕に一発、背中に二発、太ももに三発受けたが、その程度で済んで良かったと昭裕は不本意ながら胸をなで下ろす。
しかし雨を抜けた先に待ち受けていたのは、再び事故の記憶だった。
誰かの視線を借り、昭裕は初めて事故の全景を知る。
無惨だった。バスの中で血を流す者、窓を破り車外に放り出された者、変形したバスの車体に身体を挟まれた者。
皆が様々にダメージを受けていた。
視線の主は、車外に放り出された者のようだ。
(よかった。あんまり怪我してない)
服に血痕はさほど見えない。
昭裕は少し救われたような気分になる。
ゲボッ。ゴボッ。
安堵は即座に一蹴された。情報処理室で見た記事を思い出す。藤宮理美を除き、無傷や軽傷の者はその場にいなかった。
視線の主が突然血を吐く。四つん這いになり、何度も何度も吐く。血は暗褐色をしていた。内臓をやられているのだ。
(おい、しっかりしろ! してくれよ!)
昭裕は呼びかける。無駄であることは分かっていても、呼びかけを止められない。
(チクショウ。俺は無力だ)
最期の言葉は『寒い』。それだけだった。
昭裕はその後も夢を見続けた。事故の夢、それ以外の夢。どちらにも遭遇する。
四字熟語のテストで悩み(『いっせきにちょう』の『せき』は、席じゃない。石だって。一つの席に雀が二羽ちょこんと座ってるとか可愛すぎだろ。そんな落書きしてないで考え直してくれ)、家庭科で味噌汁を作り(豆腐は後だって、ニンジンを先に入れましょう)、次の日の掃除当番を賭けた男子対女子のサッカーが行われたりしていた(男子、必殺技叫んでる暇ないぞ。……女子はもうちょっと手加減しないか)。
また親子げんかの夢などは第三者からしても居心地が悪かった。
これらすべてが五年一組のクラスメートたちが過去に体験したことなのだ。未来どころか現在でもない、全てが過去の風景。
やるせなかった。
「アキくん、寝るのちょっと中断したら」
他人が聞けば間違いなく変に思うであろうセリフを言ったのは朋香だ。カップ麺を胃袋に流し込む昭裕をじっと見つめている。不安に満ちた表情だ。
「あともうちょっとだけやらせて。……ごめんな、トモ姉も疲れてるのに」
「わたしは大丈夫。積読対策で徹夜も慣れてるからね」
自分の我が儘を受け入れてくれるはとこに昭裕は頭を下げるしかない。
時刻は午後二時。夢を見続けてから、丸一日経っている。
「次ので、とりあえずストップにするから」
「絶対にだよ」
昭裕は再び床についた。
シュッ! シュッ、シュッ!
次に選んだ雨はそんな音を放っていた。
(格闘マンガの擬音みたいだ。もしかしてパンチとかキックが来る?)
先程の痛みの件もある。昭裕は用心のため、ゆっくりと雨のエリアに侵入した。
二歩、三歩と進むが何も起らない。雨は痒くも痛くもなかった。
ホッ、と体の力を抜く。
「あっ、ぐぅ」
いきなりだった。昭裕は後方にはじき飛ばされていた。
闇の中、突然攻撃されたのだ。今回の雨は、やはり昭裕のイメージ通りのものだった。腹に証拠の痛みがある。蹴りを食らったと昭裕は判断した。相手の姿は見えずとも、そう思える感触だった。
不意打ちかよ、と怒りを込めて闇を睨み、それから起き上がる。
「嘘だろ」はっと気づく。水滴が腕、顔、背中、どこにも当たらない。
昭裕は一つの雨に包囲される状況にまた身を置いていた。雨の外に追い出されている。
「包囲するくせに入れるつもりはないのかよ。根性悪いな。でも、何度でもチャレンジさせてもらうからな!」
雨に向かって言い放つ。一からやり直しだが、くじけてなどいられない。昭裕は心持ち腰を落として重心を下げ、腹の前にしっかりと両腕を置いた。
「行くぞ」
不意打ちに対する怒りが消える前に足を再び前に出す。
結果は似たようなものだった。昭裕は地面に転がされていた。
「今度はパンチかい。アッパーとストレートのコンビネーション……。ちっくしょ。体浮いたぞ、今」
再び追い出されていた。この雨に自分は拒絶されている。昭裕は強くそう感じた。
――だったら余計に諦められねえっての。
闘争心に火がつく。目的につながっているんじゃないかと、昭裕はしつこく立ち上がる。
顎を右腕で、腹を左腕でカバーして雨に三度突入する。
すぐに左腕に衝撃を感じた。蹴りだ。気合いと共に全身に力を込めていたが、転倒は免れなかった。背中を地面(なのだろう、多分)に打ち付けてしまう。
「やばっ」
早口に呟く。顔に雫の落下を感じたのだ。つまりは雨のエリアから出ていない。倒れているところに攻撃が来ると予想し体を硬直させる。どこからだ?
(……ありゃん)
攻撃はしばらく待ってもやってこなかった。
警戒しながら立ち上がる。
「うおっ」
――すると、待ってましたとばかりに右腕次いで頬に衝撃が走った。
「くっそぅ」
昭裕は倒れ込んだまま毒づいた。今度は完全に追い出されていた。けれど、諦めるつもりは毛頭無い。雨に包囲される中、昭裕は考え込む。
「キック、アッパー、ストレート。キック、アッパー、ストレート。……まさかだよな」
攻撃の単調さに昭裕は引っ掛かりを覚えていた。そして、恥ずかしくなるほどに単純で明白な回避方法を見いだす。
「馬鹿らしいけど、やってみるか」
昭裕はいたずらっ子の笑みを浮かべた。
シュッ! シュッ、シュッ! シュッ! シュッ、シュッ!
擬音が響く中、昭裕は攻撃を避けることを全くせずに進んでいた。
(本当に上手くいくなんてな)
必殺技どころか投げ技もない、キック、アッパー、ストレートだけの単調な攻撃。
昭裕はそこから古い格闘ゲームを思い出していた。小学校低学年の頃、ある友達の家でよく遊んだのだ。懐古的で逆に興味を引かれたのかもしれない。
(ダウン攻撃ができなかったんだよなあ、あのゲーム)
――故に地面に伏せている者には攻撃できない。
昭裕は今、匍匐前進をしていた。
向こうの攻撃がこちらに届くことはもうない。
雨の性質は彼の知るゲームの内容と完全に一致していた。クリアは目前だ。
(ここ、五の一だ。うん、間違いない)
暴力の雨をやっとのことで通り抜けた昭裕を待っていたのは、桜見台小学校五年一組の教室だった。八年経っても忘れてはいない。
視界が左右に動く。誰の姿も確認できなかった。日の差し具合と外の喚声から察するに昼休みだろう。雨さえ降っていなければ男子も女子も五年一組の生徒はたいてい外で遊んでいた。
(一人きりで何をしてんだ?)
視線の主――服装からして男子生徒だ――は教室後方のドアから顔だけを出して廊下を見たり、カーテンに隠れるようにしてグラウンドを観察したりしている。
彼の目的が昭裕にはわからない。
やがて彼はうろつくのを止め、大きく息を吸いながら、右手を軽く胸に当てる。
鼓動はとても早かった。その後、フゥーと息をはき出す。
(……でもまたドキドキしてるじゃないか。ほんとにどうしたんだよ?)
――昭裕の疑問に呼応するように、彼が行動を開始する。
廊下から数えて二列目の、後ろから三番目にある机。
彼はその机の中身にそっと手を伸ばした。
取り出したのは、丸型の布製筆箱だ。チャックを引っ張る手はかすかに震えていた。
彼は筆箱からクローム色をした一本のシャープペンシルを抜き出す。それなりに値が張りそうな代物だ。手に持ち、それをじっと見る。その親指の付け根にはバツ印をした特徴的な傷跡があった。
(父さんからもらって、学校に内緒で持ってきて……、そうして無くしてしまったシャープペンシル)
桜見台小学校では鉛筆の使用が推奨されていた。だから昭裕は誰にも相談できなかった。親にも教師にも無くなったと言えなかった。
彼は自分の持ち物ではないそれをポケットに忍ばせる。
(やめてくれ、コバちゃん!!)
昭裕は級友の名を叫んだ。当然、その声は届かない。視線の主は、幼稚園の頃からの友達だった。顔が見えずとも分かる。サッカーも野球もゲームも色んな遊びを一緒にやった。ケンカなど一度もしなかったはずだ。
(なのに、なんで? なんでだよっ!?)
悔しいというよりも悲しかった。
――そして、唐突に景色が変わる。
視線の主は変わらず『コバちゃん』だ。
彼は地面を掘り返していた。
(ここ……ビオトープの中だ)
簡単に言えば、自然生態を観察するために人為的に作られた空間である。桜見台小学校のビオトープは、かなりの規模を有していた。
彼は深さ二十センチ以上あろう穴を作り上げると、ポケットからシャープペンシルを引っ張り出した。穴にそれを埋葬し始める。
(やめてくれ、やめてくれよ。そんなことしないでくれ)
昭裕は『自分の知らない事実を知る』物の行方を知った。




