沢渡を探す
沢渡の家は、埼玉の川口だった。
築三十年ほどのマンションの七階。表札に、三人分の名前が書いてある。
出てきたのは奥さんだった。四十くらいで、目が腫れていた。
「主人、何かしたんでしょうか」
「してないです」
「でも、警察も来て」
「うちは業者です。仕事で一緒になった者です」
私は名刺を出した。加納防除サービス。害虫防除。
奥さんはそれを見て、少しだけ力が抜けたようだった。
「……ゴキブリの?」
「ゴキブリです」
「主人、そのことをよく話してました」
彼女は玄関の三和土に立ったまま言った。
「加納さんという業者さんが、報告書の欄を作らせてくれた、って」
「作ったのは、旦那さんです」
「主人は、加納さんのおかげだと言ってました」
奥の部屋から、高校生くらいの娘が顔を出した。顔を出しただけで、すぐ引っ込んだ。
「あの子、今年受験なんです」
奥さんはそう言って、少しだけ笑った。
「主人、参考書を買ってきて、自分で解いてました。娘に教えるんだって」
「解けましたか」
「解けませんでした」
「そうですか」
「でも、毎晩やってました。そういう人なんです」
出ていった日の朝のことを、奥さんは覚えていた。
「普通でした。いつもどおり、六時半に出て」
「荷物は」
「鞄だけです。いつもの」
「そのほかに、何か持っていませんでしたか」
彼女は考えた。
「……ああ。茶封筒を持ってました。厚いやつ」
「中身は」
「わかりません。ただ、前の晩、遅くまで台所で何か書いてました」
「書いていたもの、残ってますか」
「捨てたと思いますけど」
奥さんは台所へ行って、ゴミ箱を持って戻ってきた。
ボールペンのインクが出なくなった芯と、レシートと、書き損じが数枚あった。
私はその一枚を広げた。
定規で線を引いた枠が書いてある。手書きの様式だ。
一番上に、表題があった。
——行政文書開示請求書
千葉県の合同庁舎に、沢渡はいた。
四日目の午後だった。
印旛の出先事務所で、閲覧室の机に一人で座っていた。前に段ボール箱が二つ積んである。
彼は私たちを見て、驚かなかった。驚くだけの余力がなかったのだと思う。
髭が伸びていた。シャツが同じものだった。
「加納さん」
「探しましたよ」
「すみません」
「沢渡さん。家に連絡してください。先にです」
彼は携帯を出して、電源を入れた。着信の通知が、何十件も流れた。
そのまま廊下に出て、戻ってきたときには、目が赤かった。
「なぜ、ここに」
私は箱を見ながら聞いた。
「書庫が閉まったので」
沢渡は座り直した。
「ギルドの記録が見られないなら、県の記録を見ればいいと思いました。志渡町の放棄は、県と国の事業です。文書は残っています」
「請求は通りましたか」
「通りました。手続きどおりに出せば、通ります」
彼は少しだけ笑った。
「二十年、様式を回してきたので。様式の出し方だけは、わかります」
三隅が箱の中を覗き込んだ。
「これ、全部ですか」
「三十一年前から、三年分です。まだ半分も読んでません」
「なんで一人で」
「誰かを巻き込むと、その人の勤務記録に残るからです」
私は椅子を引いて、彼の正面に座った。
「沢渡さん。飯は」
「……昨日、コンビニで」
「戸田さん」
「買ってきます」
すずがもう立ち上がっていた。
「唐揚げ、多いほうでいいですか」
「え」
「多いほうにします」
すずは十五分で戻ってきた。
袋から出したのは、唐揚げが二パックと、おにぎりが四つと、あたたかいお茶だった。
「多いほうです」
「二パックは多すぎませんか」
「一つは私のです」
沢渡は箸を持ったまま、しばらく動かなかった。
それから、食べた。
食べながら、何度か目をこすっていた。
私は窓の外を見ていた。合同庁舎の駐車場に、公用車が並んでいる。夕方の光が、全部同じ角度で当たっていた。
閲覧室で、四人で読んだ。
県の文書というのは、ほとんどが金の話だ。
避難指示の範囲。仮設住宅の戸数。移転補償の単価。国庫負担の割合。町の廃止に関する議会の議事録。
私は自分の町のことを、こんな形で初めて読んだ。
どの紙にも、人の名前は出てこない。
出てくるのは、世帯数と、金額と、年度だけだった。
私は「移転補償」の綴りの、ある一枚で手が止まった。
商工業者への補償の一覧だった。業種と、世帯番号と、金額が並んでいる。
防除業、という行が一つあった。
金額は、他の行より一桁少なかった。
理由の欄に、こう書いてある。
——固定資産少、在庫少のため
合っている。
うちの資産は、軽バンと、噴霧器と、帳面だけだ。
三十一年前も、たぶん同じだった。
私はその紙を、元の位置に戻した。
三時間目に、沢渡が手を止めた。
「加納さん」
「はい」
「これ、違う綴りが混ざっています」
彼が抜き出したのは、薄い冊子だった。
県の様式ではない。国の様式だ。紙の質が違う。
表紙に、こう印刷してあった。
——迷宮周辺地域における生物発生状況調査 中間報告
日付は、三十一年前の十一月。
沢渡がページを開いた。
手書きの表がある。日付、地点、建物の種類、そして数字。
様式が、私の帳面と同じだった。
欄の並びが、同じだった。
「……加納さん。これ」
「うちの様式です」
私は冊子を受け取った。
二ページ目に、本文があった。
短い。三百字ほどだ。
——調査の結果、避難区域内の複数の家屋において、迷宮外個体の産卵および孵化が確認された。当該個体は迷宮から新たに侵入したものではなく、区域内で世代を重ねたものと推定される。ついては、迷宮外における繁殖の可能性について、早急な追加調査を要望する。
私は二度読んだ。
三十一年前に、誰かが同じことを書いている。
しかも、私が今年書いたのと、ほとんど同じ文だ。
「これ、追加調査は」
沢渡が次のページをめくった。
白紙だった。
その次も、白紙。
冊子はそこで終わっていた。
「……中間報告のまま、終わっています」
最後のページに、受理印が押してあった。
朱肉が薄い。私は角度を変えて、光に当てた。
——迷宮対策特別委員会
その横に、小さい印がもう一つある。
委員長の決裁印だった。
名前が読めた。
樫村泰三。
すずが後ろから覗き込んで、息を呑んだ。
「今の、迷宮対策特別委員会の名誉顧問です」
「今も、いるんですか」
「います。八期目です」
私は冊子の表紙に戻った。
調査の実施者の欄がある。
団体名が三つ並んでいた。県の環境部。国立の研究所。
そして三つ目に、こう書いてあった。
——加納防除サービス




