第21話 火鉢のそばで
王都へ向かう朝、トマは玄関広間の柱に半分隠れながら、怜司の荷物をじっと見ていた。
荷物といっても、大した量ではない。ザルムント邸の使用人たちが整えた着替え一式、シェルヴァがまとめた王都会議用の基礎資料、怜司が自分で刻んだ蝋板、マイラからもらった白い石、そしてトマが無理やり押し込んだ小さな布包み。中には、屋敷の厨房で焼いてもらった固めの豆菓子が入っている。王都で怜司が食事を忘れた時のため、らしい。
忘れない、と言い切れないところが、怜司の弱さだった。
ザルムント邸の車寄せには、朝の冷たい空気が薄く漂っていた。屋敷の窓にはまだ淡い灯りが残り、庭の薬草には露がついている。馬車は二台。先頭はオルシェナが乗る領主用の馬車で、後ろには文官と荷物のための馬車がつく。護衛兵は八名。旅装のオルシェナは深藍の外套を肩に掛け、銀灰色の髪を高い位置で編み上げていた。王都へ向かうためか、普段より少しだけ装いが硬い。だが、その姿勢はいつもと変わらず、周囲の慌ただしさを静かに整える芯のように立っている。
怜司はその横顔を見て、相変わらずこの人は馬車移動で腰を破壊されないのだろうか、と関係のないことを考えた。
前回の領都行きで、怜司は馬車というものが人体に優しくない乗り物だと学んでいる。王都までは領都からさらに遠い。街道は整備されているとはいえ、現代日本の道路ではない。四輪の木箱で揺られ続ける未来が、既に腰へ予告痛を送ってきていた。
「兄ちゃん」
トマが、柱の陰から出てきた。
このひと月で、彼は少し変わった。湯浴みと食事と睡眠で顔色が良くなり、屋敷の教育で身なりを整える癖もついた。今もきちんとした青灰色の上着を着て、髪もピリアに整えられている。だが、その両手は、木剣を抱く時のように固く握られていた。爪が手のひらに食い込むほど。怜司が王都へ行くことを、まだ不安に思っているのだろう。
「はい」
「絶対、帰ってきてね」
「帰ってきます」
「お母様の言うことを聞いてね」
「聞きます」
「ご飯食べてね」
「食べます」
「寝てね」
「努力します」
その一言に、トマの目が、すっと細くなった。じっと怜司を見上げる。
「……そこは、はい、って言うところ」
妙な圧があった。カズラの短い命令を、毎日浴びている成果かもしれない。
「はい。寝ます」
「シェルヴァ先生にも言うからね」
「監査体制が厳しい」
怜司が思わず呟くと、トマは、ようやく少しだけ笑った。だが、その笑いは、すぐにまた不安の方へ戻っていく。頬がわずかに強張り、握った手はほどけない。
怜司は膝を折り、トマと目線を合わせた。庭では、カズラが腕を組んでこちらを見ている。きっと怜司が出発した後、トマは走らされるのだろう。王都へ行けない寂しさより、庭二十周の方が先に来るかもしれない。それはそれで健全である。
「トマ。僕がいない間、走りすぎて倒れないようにしてください」
「カズラ先生が、倒れる前に止めるって言ってた」
「それなら安心です」
「でも、倒れそうになると、もう一周って言う」
「……安心では、ありませんでした」
庭の方から、カズラが、無表情のまま小さく頷いた。聞こえているらしい。訂正する気もないらしい。
そこへ、オルシェナが近づいてきた。彼女はトマの前で少し身を屈め、外套の裾が石畳へ触れないよう片手で軽く押さえる。その仕草だけで、周囲の空気がひとつ、静かに整った。
「トマ。留守の間、カズラの言うことをよく聞くのよ。シェルヴァの課題も逃げないこと。焼き林檎は、文字練習を終えてから」
「はい、お母様」
トマは、素直に頷いた。怜司なら三拍ほど遅れる呼称が、トマの口からは、水が流れるように自然に出る。その響きを聞くたび、オルシェナの表情は、ほんの少しだけ柔らかくなる。領主としての顔ではなく、母としての顔だ。本人はそれを隠しているつもりかもしれないが、怜司にはもう、分かるようになっていた。
トマは、一瞬迷った後、オルシェナに抱きついた。
周囲の使用人たちは、誰も驚かなかった。ザイロは穏やかに目を伏せ、ネリスカは軽く頷き、ピリアに至っては明らかに感動して目を潤ませていたが、メイド長のネリスカの視線に気づいて、慌てて表情を引き締めた。シェルヴァだけは、出発時刻との兼ね合いを計算しているように、廊下の時計へ一瞥をくれている。教育係は、どこまでも教育係である。
オルシェナは、トマの背中に手を置いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、お母様」
そのやり取りを見ていた怜司は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。トマが、誰かを見送れる。誰かに、行ってらっしゃいと言える。鉱山ではあり得なかったことだ。そこには、戻ってくると信じられる関係がある。信じても裏切られないと、少しずつ学び始めた顔があった。
オルシェナは顔を上げ、今度は怜司を見た。
「セヴ」
「はい」
「あなたも、何か言うことは?」
怜司は、固まった。
来た。
避けていたわけではない。いや、避けていた。正確には、心の中で何度も練習し、結局その場になると口が重くなる。オルシェナを母と呼ぶこと。トマのように自然にはできない。三十五年分の精神年齢と、前世の母への曖昧な記憶と、今の肉体の年齢と、養子という法的事実が複雑に絡まり、声帯のあたりで渋滞を起こす。
怜司は、息を吸った。
「いって、まいります。お母様」
最後の三文字だけ、少し小さくなった。喉の奥から、無理やり押し出したような声だった。
だが、オルシェナは、それを聞き逃さなかった。満足そうに微笑む。
「ええ。行きましょう」
トマが後ろで、両手を握りしめている。応援されている。何の応援なのか分からない。母上呼びの訓練成果を見守る顔にも見える。怜司は妙な敗北感を抱えたまま、王都行きの馬車へ乗り込んだ。背後で、トマとカズラの「では、二十周だ」「今から!?」というやり取りが、遠くなっていった。
領都リュゼンテールから王都ライゼンヴェルクまでは、七日の道のりだった。
最初の二日は、ザルムント領内の街道を南東へ進んだ。山地の風は冷たく、道の両側には黒麦畑と根菜畑が広がっている。時折、木材を積んだ荷馬車や、鉱石箱を運ぶ商会の車列とすれ違った。ザルムント領内では、怜司が試行した南門の時間帯分けや荷札の話が既にいくつかの宿場へ伝わっており、宿場の主人から「領都で白石の順番札というものが始まったそうで」と話しかけられることもあった。
情報が広がるのは、早い。
ただし、正しく広がるとは、限らない。
ある宿場では、怜司の改善案が「白い石を持つ者は水を多く汲める」という意味に変わっており、別の宿場では「ザルムント伯家が水汲み税を始める前触れだ」と、まったく逆の意味に勘違いされていた。怜司が旅の食卓で頭を抱えていると、オルシェナは温めた葡萄酒の杯を傾けながら、静かに言った。
「制度は、人の口に乗った瞬間に、姿を変えるわ」
「恐ろしいですね」
「だから、印と説明は短い方がいい。長い説明は、途中で誰かが食べてしまうもの」
「情報も、食べられるのですか」
「都合のよい部分だけね」
オルシェナは、そう言って杯を置いた。答えに、彼女自身の苦い経験がにじんでいるようだった。怜司は蝋板にその言葉を刻んだ。
制度は口に乗ると姿を変える。
前世でも、同じだった。上層部が出した方針は、部署を一つ下りるごとに微妙に変わり、現場へ届く頃には「結局、誰が何をするんですか」という姿になっている。伝言ゲームの終着点は、いつも原型を留めていない。異世界でも情報伝達の劣化は存在する。むしろ紙も印刷も通信も限られる分、より深刻かもしれない。
三日目には、街道が広くなった。
ザルムント領を抜け、王領へ近づくにつれ、道の幅が変わった。石敷きの区間が増え、橋も大きくなる。荷馬車の数も増えた。北から毛皮、鉄、木材。西から黒鉄石と魔銀。南から塩、干し魚、油。東から布、陶器、紙。王都へ向かう流れが、街道上で目に見える形になっていく。
怜司は、馬車の窓からそれを見続けた。
見ているだけのつもりだった。だが、四日目には、シェルヴァから渡された王都会議の資料の余白に、荷馬車の種類と方向、橋での待ち時間、宿場の料金差を書き込み始めていた。指が、勝手に動いていた。オルシェナは最初それを黙って見ていたが、夕食後の宿で、とうとう口を開いた。
「セヴ」
「はい」
「あなた、休んでいる?」
「馬車の中では、座っています」
「それは移動よ」
「では、景色を見ています」
「それは観察よ」
言い逃れの道が、一つずつ塞がれていく。怜司は最後の抵抗を試みたが、言葉が続かなかった。
「……難しいですね」
「あなたにとって休息とは何なのか、王都から戻ったら、改めて考えましょう」
「課題が、増えました」
「王都から戻ってからよ。今は増やさないであげる」
「ご配慮、ありがとうございます」
「棒読みね」
オルシェナは、くすりと笑った。怜司は素直に頭を下げた。この人には、言葉の温度まで見抜かれている。
旅の間、オルシェナとの距離は、少しずつ変わっていった。
屋敷では、領主としての彼女を見ることが多かった。執務室で書類を読み、文官に指示を出し、使用人たちへ静かに視線を向ける。母としての柔らかさはトマに向けられることが多く、怜司はどちらかといえば、課題を与えられる側だった。
だが、旅の馬車の中では、二人で話す時間が、自然と増えた。
最初は王都会議の議題についてだった。鉱山税。街道修繕費。魔銀の割当。教会施療費。怜司は一つ一つ聞き、分からない言葉を確認し、シェルヴァが補足する。だが、夜の宿で火鉢のそばに座る頃になると、会話は少しだけ、個人的なものに移っていった。
「セヴ。あなたの前の世界では、家族はいたの?」
五日目の夜、オルシェナは、そう尋ねた。
宿場の上階の小さな客間だった。外では風が窓を鳴らし、下階からは御者たちの笑い声が遠く聞こえる。シェルヴァは別室で資料を確認しており、護衛は廊下にいる。二人だけ、というわけではないが、声を落とせば、親子の会話に近い距離だった。火鉢の炭が、時折ぱちりと爆ぜる。
怜司は、少し考えた。
前世の家族。
両親とは疎遠だった。仲が悪かったわけではない。ただ、仕事に追われるうちに連絡が減り、帰省も減り、誕生日の短い連絡だけになった。親孝行らしいことは、何もしていない。母からの「ちゃんと食べてる?」というメッセージに、「大丈夫」とだけ返した記憶がある。大丈夫では、なかったのに。
「いました。ただ、あまり会えていませんでした」
「遠かったの?」
「距離もありましたが……僕が、忙しいと言い訳していました」
オルシェナは、静かに聞いていた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ言葉の続きを待つ。その沈黙が、怜司には少しありがたかった。急かされないと、言葉は、自分の速度で出てくる。
「母から、ちゃんと食べているかと聞かれたことがあります。大丈夫だと返しました。でも、実際はコンビニの惣菜と缶コーヒーで済ませていました」
「こんびに?」
「便利な店です。前の世界には、夜でも食べ物を買える店がありました」
「夜でも?」
「はい」
「それなのに、あなたは食事を大事にしなかったのね」
その指摘に、怜司は、苦笑した。
「便利すぎると、逆に雑になることもあります」
「不思議な世界ね」
「はい。不思議で、便利で、そして人が過労で死ぬ世界でした」
その一言で、オルシェナの目が、少しだけ細くなった。火鉢の光が、彼女の琥珀色の瞳に揺れている。
「……あなたを死なせたのは、誰?」
その問いは、思ったより、深く刺さった。
誰、と言われると、答えに困る。特定の一人ではない。上司、会社、社会、断れなかった自分、仕事を抱え込む文化、曖昧な責任、終わらない資料。すべてが少しずつ、怜司を線路の端へ押した。誰かが突き落としたわけではない。だからこそ、怒りの置き場所が、どこにもなかった。
怜司は、火鉢の火を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「……たぶん、仕組みです」
言葉を選ぶ。
「誰か一人が悪いと言えたら、楽だったかもしれません。でも、実際は、小さな無理が積み重なって、誰も止めず、僕も止まらず、気づいたら、落ちていました」
オルシェナは、火鉢の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……だから、あなたは、詰まりや無駄を見るのね」
「たぶん。小さな無理を放置すると、人は死ぬので」
「あなた自身も?」
「……はい」
怜司は、自分でそう答えて、少し驚いた。
以前なら、ここまで素直には言えなかっただろう。自分の死を、仕事や制度の話としてなら語れた。だが、自分自身が死んだのだと、改めて言葉にして認めることは、ずっと避けていた。目を逸らしていた。それを、この火鉢のそばで、するりと口にしていた。
オルシェナは、静かに手を伸ばした。
そして、怜司の頭に、触れた。
撫でる、というより、髪の乱れを直すような、控えめな仕草だった。それでも、怜司は固まった。母親に頭を撫でられるには、精神年齢が高すぎる。だが、今の体は少年で、目の前の女性は法的に母で、そして彼女の手は——思ったより、ずっと温かかった。炭火の熱とは違う、生き物の温度だった。
「今は、止める者がいるわ」
オルシェナは、言った。
「シェルヴァも、ザイロも、トマも、私も。あなたがまた落ちそうなら、襟首を掴んででも止めます」
「……物理的ですね」
「必要なら」
「お母様は、本当に容赦がありません」
言ってから、怜司は、気づいた。
今——自然に、呼べた。
お母様。
喉で渋滞を起こすこともなく、練習した文句を組み立てることもなく、まるで、ずっとそう呼んできたかのように、その言葉が、するりと出ていた。火鉢の温かさのせいか、髪に触れる手のせいか、あるいは、自分の死を認めた直後だったからか。
オルシェナも、気づいたようだった。
彼女は、ほんの少しだけ目を見開き——それから、何もなかったように、微笑んだ。追及もせず、からかいもせず、ただ、静かに受け止めるように。
「ええ。母ですから」
その一言は、短かった。
短かったのに、怜司の胸の奥で、長く尾を引いた。
母ですから。当然のことのように、彼女はそう言った。理由も、条件も、見返りもつけずに。ただ、そういうものだという顔で。前世で、そんなふうに何かを引き受けてくれた人が、いただろうか。怜司は、火鉢の火を見つめたまま、しばらく言葉を探し、結局、何も言えなかった。言葉より先に、胸の奥が、じんと熱くなっていた。
その夜、怜司は、不思議とよく眠れた。




