第20話 王国の詰まりは、どこにあるのだろう
窓から差し込む午後の光が傾き始めた頃。報告が終わりかけた時だった。オルシェナが、ふと思い出したように言った。
「そうだわ、セヴ。数日後、王都へ発ちます」
怜司は、蝋板を片づける手を止めた。
「王都、ですか?」
「ええ。王都会議があるの」
オルシェナは、指を折りながら議題を並べた。
「西部諸領の鉱山税、街道修繕費、魔銀の割当、教会施療費の負担。面倒な議題が多いわ」
言葉を並べられただけで、もう面倒だった。怜司の胃が、条件反射のようにずしりと重くなる。王都。ヴェルガ王国の中心。王城、魔術院、大教会、貴族、商会組合。シェルヴァから知識として教わってはいたが、実際に行くとなると話が違う。しかも、会議。前世の怜司にとって、会議とは、資料が増え、責任が曖昧になり、結論が先送りされる儀式だった。出席者が多いほど、空気が濁り、何も決まらない。
「……お気をつけて」
怜司は、少しの間を置いて、波立たないよう慎重に言葉を選んだ。
オルシェナは、その無難さを見透かしたように、形の良い唇に弧を描いた。
「あなたも行くのよ」
怜司は、固まった。
今、片づけかけた蝋板を持ったまま、呼吸すらも完全に止まる。指先に、硬い木の感触だけがやけに鮮明に伝わってきた。
「……僕も、ですか?」
「ええ。同行しなさい」
その断言に、喉がひんやりと張り付いた。
「なぜ、僕が……?」
「あなたの目で王都を見るため。それから、必要なら、会議で使うため」
「使う」
反射的にオウム返しをした直後、怜司の胸の奥で、カチリと嫌な音が鳴った。前世で「ちょっと使わせて」「君の力を貸して」と上司に言われた後に待っていたのは、例外なく、誰も引き受けたがらない泥沼の仕事だった。
気がつけば、従者としての丁寧な仮面が剥がれ落ちていた。
「……また、使い潰す気ですか」
低く、掠れた声が口を突いて出た。言ってしまってから、血の気が引く。相手は領主だ。だが、オルシェナは咎めることもなく、怜司の強張った顔を見つめ返し、軽く付け足した。
「安心なさい。いきなり壇上に立たせるような真似はしないわ。たぶん」
「その最後の一言で、安心が消え去ったんですが」
「経験は大切よ」
「王都会議は、教育課程としては難易度が高すぎませんか」
必死に食い下がる怜司に、オルシェナは頬杖をついたまま、静かに切り返した。射抜くような瞳から、からかいの色が消える。
「だからこそ、隣で見ていなさい」
その声色は、有無を言わせぬ領主のものだった。
「領都の詰まりを見たなら、次は王国の詰まりを見る番よ。鉱山、領都、そして王都。あなたが見てきた現場は、本当は全部、一本の道で繋がっているの。その道を、一度ちゃんと見ておきなさい」
怜司は、反論の言葉を失った。
領都を見始めたばかりで、次は王都。鉱山、領都、市場、王都。現場の規模が、急斜面を転がるように大きくなっていく。前世でも、ただの営業事務だったはずが、いつの間にか複数部署の調整役になり、最後には誰が担当か分からない仕事まで押しつけられた。窓のない会議室の閉塞感。終わらない残業。嫌な記憶が、足元からじわじわと這い上がってくる。
逃げ出したい。だが、今度は、少し違う。
オルシェナは、怜司を潰すために連れて行くのではない。少なくとも、今のところは。彼女は、見せようとしている。領地の外を。王国の中枢を。魔銀と税と街道と教会が絡み合う、より巨大なうねりを。
それは、酷く怖い。
怖いのに——その濁流の正体を、見たいと、心のどこかで思ってしまった。
自分が鉱山で見たものが、領都で見たものが、王国全体とどう繋がっているのか。魔銀は、最終的にどこへ行くのか。奴隷制度は、誰が支えているのか。塩や黒麦や木材の流れは、どこで歪んでいるのか。
見れば、きっとまた、改善点を探してしまう。
それが自分の悪癖なのか、武器なのか、怜司にはまだ分からない。分からないまま、視線は手元の蝋板から外れ、心はもう、恐怖と共に王都の方を向きかけていた。
「トマは……どうするんですか」
思考を振り切るように尋ねると、オルシェナは静かに首を振った。
「トマは、今回は置いていきます。カズラの基礎訓練を始めたばかりでしょう。それに、王都は刺激が強すぎるわ。あの子には、まだ早い」
怜司は、肩の力を抜いて深く息を吐いた。トマを王都の政治の渦へ巻き込むには、まだ早すぎる。本人は不満を言うかもしれないが、剣術訓練と焼き林檎で何とかなるかもしれない。いや、それはそれで甘やかしすぎではないか。あとでシェルヴァに相談しよう。あの几帳面な教育係なら、林檎の適正供給量を算出して冷徹に提示してくれるに違いない。
「分かりました」
怜司は、ゆっくりと頭を下げた。
「同行します」
「良い返事ね」
「拒否権は、あったのでしょうか」
「今回はあるわよ」
「……あったんですか?」
怜司が思わず顔を上げると、オルシェナは涼しい顔で言った。
「ええ。でも、断らないと思っていたわ」
「……完全に読まれていますね」
「あなたは、見えるものを放っておけない子だもの」
その言葉は、笑い混じりだったのに、胸の古傷を抉られたように痛かった。
見えるものを放っておけない。そう言われると聞こえはいいが、前世の怜司は、まさにそれで仕事を抱え込み、壊れた。見えてしまうから、引き受けてしまう。引き受けるから、増える。増えるから、潰れる。あの暗い繰り返しの果てに、ひんやりとした駅のホームがあった。
だが、今は違うと信じたい。少なくとも、今の自分には、止める者がいる。シェルヴァがいる。オーレグがいる。ザイロがいる。トマもいる。オルシェナも、たぶん、壊れる前に止める気はあるはずだ。
たぶん。
怜司は、気休めのように小さく息を吐いた。確信ではなく、すがりつくような願いに近い「たぶん」だった。
「では、王都へ行く前に、市場周辺の試行を、できるだけ形にします」
「やはり仕事を増やすのね」
「出発前に、少しでも未処理を減らしたいので」
「前の職場の癖かしら」
「……笑えないくらい、深刻な癖です」
オルシェナは、軽く息を吐いて、部屋の隅へ呼びかけた。
「シェルヴァ」
「はい」
いつからそこに立っていたのか、教育係が記録板から顔を上げる。
「セヴが出発前に徹夜しないよう、予定を管理して」
「承知いたしました」
即答だった。あまりに迷いがない。
「徹夜前提ではありません」
怜司が抗議すると、シェルヴァは眼鏡の縁を押し上げ、表情ひとつ変えずに言った。レンズの奥の瞳が、冷徹に光る。
「過去の行動から、予測しております」
「僕にはそんなに信用がないですか……」
「実績です」
冷ややかな言葉で、容赦なく殴られた。怜司は反論を試みて口を開き、そして無力に閉じた。返す言葉がなかった。実績、と言われてしまえば、確かにその通りなのだ。彼はこの一か月で、何度も「あと少しで」と言いながら夜風を浴びてきた。記録は嘘をつかない。自らが積み上げた記録が、自分自身の首をきつく絞めている。
その夕方、怜司は空が茜色に染まり始めた庭で、走り終えたトマに王都行きを伝えた。
トマは、汗だくだった。頬を赤くし、荒い息を吐きながら、ずっしりと重そうな木剣を抱えている。土埃の匂いがした。以前なら少し走っただけで倒れそうだったのに、今は息を切らしながらも、目に確かな力がある。膝には土に塗れた新しい擦り傷ができていたが、それを気にする様子もない。少し離れた場所では、カズラが腕を組み、彼の姿勢を黙って見ていた。
「兄ちゃん、王都行くの?」
トマが、汗を腕で乱暴に拭いながら聞いた。
「はい。数日後に」
「僕は?」
「今回は留守番です。剣の訓練がありますから」
トマは、分かりやすく頬を膨らませた。少年らしさが抜けつつあると言っても、こういうところはまだ年相応だった。木剣を握る時のひたむきな顔と、置いていかれて拗ねる顔。その二つが、同じ少年の中に同居している。
「僕も行きたい」
「王都は遠いですし、会議はたぶん退屈ですよ」
「兄ちゃんだけだと、ご飯忘れる」
怜司は、思わず言葉に詰まった。
「……そこまで、信用がないですか」
「あるけど、ない」
「高度な評価ですね……」
信頼と不信が同居した、難しい評価だった。だが、否定できないのが痛い。怜司は確かに、夢中になると食事を後回しにする。鉱山でも、領都でも、その癖は変わっていない。小さな弟にまですっかり見抜かれている。
トマは、木剣をぎゅっと抱え直した。
そして、声のトーンが、ふっと落ちた。
「ちゃんと、帰ってくる?」
その問いに、怜司の胸が、ぎゅうと締め付けられた。周囲の夕暮れの風の音が、急に遠ざかった気がした。
ここで、いつものように軽口で返すこともできた。だが、トマの目が、それを許さなかった。膨らませていた頬は、もう元に戻っている。残っているのは、むき出しの不安だけだった。鉱山を出る時にも、トマは同じ顔をしていた。置いていかれることへの不安。いなくなった人が、もう二度と戻らないかもしれないという恐怖。
それは、一か月の恵まれた屋敷生活で、簡単に消えるような底の浅いものではない。トマはこれまで、戻ってこなかった大人たちを、暗い坑道の中で何人も見てきたのだ。
怜司は、膝を折った。土の冷たさを感じながら、トマと目の高さを合わせる。
軽口は、引っ込めた。
「……帰ってきます」
震えそうになる声を腹の底に押し込め、まっすぐそう言って、トマの小さな、けれど確かな熱を持った肩に手を置いた。
「約束します」
「本当?」
トマの縋るような視線を正面から受け止め、怜司は、一度だけ、深く頷いた。
「はい。必ず」
口に出した瞬間、それが決して破れない呪いのように自分自身に刻み込まれるのを感じた。怜司は、そこからようやく、無理やりにいつもの調子を顔に貼り付けた。
「お母様にも、シェルヴァ先生にも、ザイロさんにも、予定を管理されていますからね。勝手に消える方が、難しいです。仮に消えようとしても、半日で見つかって連れ戻されます」
トマは、その答えに、ようやく少しだけ笑った。不安で固まっていた表情筋が、柔らかくほどけていく。
「それなら、安心かも」
「僕の自由はどこへいったんでしょうね」
「兄ちゃんは自由にすると働きすぎるから、管理されてた方がいいって、シェルヴァ先生が言ってた」
「教育係が、僕の弟に、余計な知識を吹き込んでいる……」
トマは、今度は声を上げて笑った。さっきまでの不安が嘘のような、夕暮れの庭に響く明るい笑い声だった。怜司は、その屈託のない笑顔を見られただけで、土に膝をついた甲斐があったと思った。
そこへ、背後からカズラが近づいてきた。木剣の先で、軽く地面を叩く。乾いた音が鳴った。
「王都へ行くなら」
彼女は、いつも通り短い言葉を投げた。
「帰るまでに、こいつを庭二十周走れるようにしておく」
トマの顔から、すっと笑みが消えた。
「二十……?」
「今は十二で崩れる」
「崩れてないです。ちょっと、地面と仲良くなっただけです!」
苦しまぎれの言い訳だった。だが、カズラは表情ひとつ動かさず、即座に返した。
「なら、地面と別れろ」
短い。短いのに、反論の余地がない。トマは、口を開きかけて、何も言えずに閉じた。本気で悔しそうな顔をして、下唇を強く噛んでいる。
怜司は、笑いをこらえた。
剣術の才能があるのかどうかは、まだ分からない。だが、トマが何かに向かって、本気で悔しがっている。その姿を見るのは、怜司にとって、何よりの救いだった。鉱山では、悔しがる余裕すら、明日を夢見る気力すらなかったのだから。悔しさは、明日がある者の感情だ。トマには今、明日がある。
夜、怜司は静まり返った自室で、王都行きの準備項目を蝋板に刻んでいた。
持参する記録。市場試行の引き継ぎ。ヴェリナへの札箱継続依頼。水場の白石数。南門の時間帯分けの確認。共同かまどの余熱札。シェルヴァへの報告書。トマへの手紙。王都で見るべきもの。魔銀流通。塩価格。街道税。奴隷登録所。教会施療院。魔術院。
書けば書くほど、増える。
一つ書くと、それに関連する項目が二つ思い浮かぶ。芋づる式に未処理が掘り起こされていく。これは、前世から続く悪癖だった。削る音だけが、部屋に虚しく響く。焦りのようなものが、指先を急かしていた。
そこへ、コン、と控えめに扉が叩かれた。
シェルヴァだった。返事を待たずに、しかし決して無作法ではない絶妙な間で、扉が開く。廊下の灯りが、彼女のシルエットを浮かび上がらせた。
「セヴ様。就寝時刻です」
「あと少しで……!」
「その言葉は、禁止語に追加いたしました」
「禁止語が、また増えていく……」
「必要ですので」
焦燥感を隠せない怜司に対し、シェルヴァは音もなく歩み寄り、机の上の蝋板へ目を落とした。びっしりと刻まれた項目を見て、眼鏡の奥で、わずかに目を細める。
「王都で見るべきものが、多すぎます」
「優先順位をつけますから、だから待って」
「今つけると、眠れなくなりますよ」
「…………正しい」
言い返そうとして、言葉が詰まった。自分でも分かっている。今この項目を睨んで順位づけを始めたら、頭が冴えきってしまい、夜が明けるまで終わらない。
「明日、私と整理します。今は休んでください」
怜司は、抵抗しかけて——やめた。
首に、冷たい隷印はもうない。命令されているわけでもない。シェルヴァは「休んでください」と言ったが、それは強制ではなく、あくまで提案だった。従うも従わないも、怜司の自由だ。だが、休めと言われて素直に休むこともまた、自由に慣れるための練習なのだろう。鎖がない状態で、自分から手を止める。暴走しそうな思考にブレーキをかけるのは、思っているよりずっと難しい。
「……分かりました」
怜司は、ゆっくりと蝋板を閉じた。パタン、という音が夜の部屋に落ちる。
その様子を見て、シェルヴァが、ほんの少しだけ満足そうに頷いた。
「良い判断です」
「褒められると、どうにも落ち着きませんね」
「慣れてください」
「課題が、また増えました」
「人生は、課題の連続です」
「……前の職場みたいなことを、言わないでくださいよ」
怜司がうんざりしたように顔をしかめると、シェルヴァは、部屋の魔力灯を少しだけ落とした。光が絞られ、手元が深い陰になる。それから、彼女はいつもの平坦な声で、しかし、いつもとは少しだけ違うことを言った。
「違います」
彼女は、扉に手をかけたまま、振り返らずに続けた。
「ここでは、課題に休息が含まれます」
その言葉に、怜司の思考が完全に停止した。
静寂が下りる。彼女の言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
確かに、それは違う。
前の世界では、休息は、余った時間に無理やり押し込むものだった。睡眠も、食事も、仕事の合間に削り取るように確保するものだった。だが、ここでは違う。少なくとも、今の怜司にとっては、休むことが、最初から予定の真ん中に組み込まれている。管理されているとも言えるが——守られているとも、言える。
どちらにせよ、明日はまた、市井の改善を進める。数日後には、王都へ向かう。
怜司は、寝台に横になり、天井を見上げた。背中に感じる柔らかな布の感触。窓の外を渡る夜風が、かすかに木々を揺らす音。遠くで鳴る、領都の鐘。鉱山の鐘とは違う、低く、静かな響き。労働の区切りを強制する音ではなく、ただ街の時間を穏やかに知らせる音だった。
鉱山から、領都へ。
領都から、王都へ。
自分の視界は、望むと望まざるとにかかわらず、急速に広がっている。
そして、見えるものが増えれば、放っておけないものも、増える。
怜司は、ゆっくりと目を閉じた。
明日の自分に仕事を押しつけるのは、前世からの悪癖だ。だが、今日の自分を少し休ませることも、今は覚えなければならない。その二つの間で、どうにか折り合いをつけること。それが、自由に慣れるということなのだろう。
王都会議。
その言葉だけで、また少し胃が重くなる。けれど、心の奥には、わずかな好奇心も、確かにあった。不快な重さと、微かな好奇心が、同じ場所に同居している。
王国の詰まりは、どこにあるのだろう。
そう考えた瞬間、怜司は、暗闇の中で自分で自分に呆れた。
やはり、社畜の悪癖は、根深い。休めと言われて横になった直後に、もう次の現場のことを考えている。
それでも、今度は、壊れる前に報告する。
たぶん。いや、できれば。少なくとも、努力はする。
曖昧な決意を抱えたまま、怜司は、少しずつ深い眠りに落ちていった。窓の外では、領都の鐘が、もう一度だけ、静かに夜の闇へ溶けていった。




