3.夫の死
「入りますよ」
フィオナは小さく息を吐くと、ヨハンの手を握った。ヨハンは僅かに視線を逸らして、小さく頷いた。
白い光に満たされた室内。ベッドの上に横たわるアーサーは、静かに眠っていた。身体に付いた煤は拭い取られ、包帯は外されていた。酷い火傷はなく、想像していたよりも外傷は少なかった。
フィオナはゆっくりと椅子に腰を下ろすと、深く息を吐き出した。
「……はやく起きなさい」
フィオナはそっとアーサーの手を包み込んだ。その手は、いつものように温かかった。
「処方された薬をお持ちしました」
アーサーの寝顔を眺めていたら、侍女が部屋に入ってきた。黒いドレスに白いエプロンをした侍女は、ルビアン王国では珍しい黒髪をしていた。フィオナが見たことのない侍女だった。
「メアリーに銀食器を持ってこさせて」
フィオナはヨハンに小声で指示すると、侍女から薬の入った包を取り上げた。
「何をされるのですか?」
目を大きく見開く侍女に、「念のためよ」とフィオナは首をすくめた。
「奥様、お持ちしました」
扉に目をやると、メアリーが立っていた。
銀食器に水をはり、包の粉末を入れた。すると、銀食器は黒く変色した。
「毒……ヒ素でしょうね」
予想したとおりだった。火事に見せかけた殺害に失敗した強盗は、アーサーを毒殺しようとした。毒殺に失敗した刺客は、より直接的な殺害方法に切り替えるだろう。
刺客のほうがフィオナよりもベッドに近い。走っても間に合わない。
さて、どうするか……フィオナがため息をつくと、刺客の顔がみるみる赤くなった。
刺客はフィオナを睨みつけると、ドレスから小型ナイフを取り出し、ベッドに走った。アーサーに向けて、刺客は右手を振り上げた。
フィオナは髪飾りに隠した暗殺用の寸鉄(長針)を抜いて、手首のスナップをきかせて投げた。寸鉄は真っすぐ飛んで、刺客の右手に刺さった。
「ぐっ」
刺客の声が漏れ、ナイフが床に落ちた。寸鉄が刺さった手から、血が滴り落ちていた。
刺客を捕らえて、誰に雇われたかを吐かせればいい。これで終わりだ。
フィオナは強張っていた指先の力をゆるめた。
視線をヨハンに向けると、刺客を静かに見ていた。
「奥様っ!」
予期しない大声に、心臓が跳ねた。メアリーが指差す先に視線を移した。
刺客が左手にナイフを持ち、アーサーのベッドの横に立っていた。振り上げた左腕には星形の入れ墨。
フィオナは舌打ちした。
ナイフは一本しかないと思い込んでいた。雇い主を聞き出すために、殺さなかったのが間違いだった。
フィオナは寸鉄に手をかけると、刺客の首筋を狙って投げた。と同時に、刺客はナイフをアーサーに向けて振り下ろした。
寸鉄が首筋に刺さり、刺客は口から血を流した。そして、笑みを浮かべて床に倒れた。アーサーの胸にはナイフが刺さっていた。
「アーサー!」
フィオナはベッドに駆け寄った。アーサーの白い上着がどす黒い赤に変わっていく。ナイフを抜いて止血を試みるが、止まらない。
アーサーに言いたいことは、いくつもあった。伝えそびれたこと、言えなかったこと、言わなくてもよいこと。フィオナの口から出たのは一つだけだった。
「死なないで」
フィオナはもう一度、アーサーの手に力を込めた。
**
ベッドの上のアーサーは静かに眠っていた。薄いカーテンが光をやわらかく遮り、アーサーの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
フィオナはベッドの前に立っていた。
「アーサー」
朝が苦手なアーサーを起こすように、フィオナは何度も呼びかけた。返事はなかった。
呼びかけても何も返ってこないことは、頭では理解していた。それでも、アーサーの目が開くのを期待していた。
長い時間を共に過ごしてきたはずなのに、最後に交わした言葉が思い出せなかった。きっと、日常の他愛のないことだ。それが最後になるとは思っていなかった。
十五歳でアーサーに会ってから十年が経つ。
当時のフィオナは、ルビアン王国政府からカルネラ子爵家に依頼された要人暗殺を専門に請け負っていた。フィオナは確実に対象者を暗殺し、証拠を残さなかった。目撃情報が存在しない暗殺者として、「レイス(亡霊)」と呼ぶ者もいた。
任務を遂行していくうちに、人としての感情が乏しくなり、人と接することが億劫になった。何となく日々を過ごしていたら、アーサーに出会った。
フィオナが池に落としたハンカチを拾うために、アーサーは飛び込んだ。泳げないアーサーを助けるために、フィオナは池に飛び込む羽目になった。
池から引きあげたアーサーは「ハンカチを拾うのを忘れた」と、また池に飛び込んだ。フィオナは久しぶりに笑った。
誘拐された女の子を助けようとして、アーサーは誘拐犯のアジトに潜入した。そして、誘拐犯に捕まった。誘拐犯に捕まったアーサーと女の子を助けるため、フィオナはアジトに押し入って救助した。
救助されたアーサーは「人質が増えちゃったね」と頭をかいた。アーサーを眺めながら、フィオナは失笑した。
女の子を助けようと、アーサーは暴走した馬車に飛び乗った。飛び降りられないアーサーと女の子を助けるため、フィオナが馬車を止めた。
馬車から降りてきたアーサーは「乗馬を教えてよ」と首をすくめた。そんなアーサーを見て、自然と口元がゆるんだ。
アーサーといると、失くしていた感情が蘇った。
アーサーと結婚したのは六年前。フィオナにカルネラ子爵家を継がせたかった父を説得し、アーサーはレイモンド子爵家に迎えてくれた。
アーサーと過ごした記憶がとめどなく溢れだす。アーサーを眺める視界が、にじんで揺らいだ。
「いい人だけど、ドジだったね」
フィオナの頬がゆるんだ。
「気を落とさないでください」
視線を上げると、ヨハンの目に涙の粒が溜まっていた。
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