1.火事
「奥様、大変です!」
ノックもせずにメアリーが扉を開けた。侍女にあるまじき無礼な態度だが、よほど重要な要件なのだろう。メアリーがここまで取り乱すのは珍しい。
情報収集のための茶会を主催していたフィオナ・レイモンドは、参加していた貴族婦人に「ごゆっくり、おくつろぎください」と愛想笑いを浮かべた。
目でメアリーに合図して、フィオナは応接室の扉を開けた。
「奥様……旦那様が……」
フィオナは言葉に詰まったメアリーの手を握りしめた。メアリーの口から出てくるのが悪い知らせであることは予想できた。ロックウッド侯爵家に訪問していたアーサーに、何かがあったのだ。
「アーサーがどうしたの?」
フィオナの問いに答えず、メアリーは落ち着きなく視線を逸らすばかり。
フィオナはドレスの裾を持ち上げることを忘れ、アーサーの寝室に走った。ドレスが廊下に擦れる音が響いた。貴族夫人として恥ずべき無作法も、気にならなかった。すれ違う家人たちは壁際に身を寄せ、フィオナの通る道を開けた。
「アーサーは?」
扉の前に立つ侍女が「先ほど運び込まれました」と会釈した。フィオナは震える手で扉を押し開けた。
カーテンを閉め切った室内の空気は暗く、薬と焦げた布の匂いが混じっていた。息をするだけで胸が痛む。ベッドの上に横たわるアーサー。横には処置を終えた医者と看護師が立っていた。
アーサーの顔は煤で黒ずみ、胸元から肩にかけて包帯が巻かれていた。胸が微かに上下しており、呼吸は浅い。命の灯が消えかけていた。
フィオナは一歩、また一歩とアーサーに近づいた。ゆっくり、慎重に。
「アーサー」
「子供を助けるために、アーサー様は猛火に包まれた民家に飛び込んだそうです」
フィオナの呼びかけに応えたのは、アーサーではなく医者だった。
ロックウッド侯爵家に向かう途中、民家の火災に遭遇した。火の回りが早く、民家はすぐにでも崩れそうだった。誰もが民家に残された子供を助けるのをためらった。アーサーは家人の制止を無視して、炎の中へ飛び込んだ。
アーサーは大量の煙を吸い込んでおり、建物から子供を救出した途端に意識を失った。屋敷に運ばれたアーサーは落下物で負傷しているものの、火傷は酷くない。
――なぜ飛び込んだのか?
見栄でも、義務でも、誇りでもない。アーサーはそういう人だった。
そう考えると、フィオナの胸にストンと落ちた。
フィオナはベッドの側に膝をつき、そっとアーサーの手を握った。いつものように温かい手。だが、握力を失っていた。
「バカじゃないの」
悪態をついたはずなのに、涙が一粒、アーサーの指に落ちた。
「あなたらしいわね」
返事はない。だが、アーサーの指先が、ほんのわずかに動いた気がした。
「……死んだら承知しないわよ」
フィオナは小さく呟くと、メアリーを呼び寄せた。
「出かけます。ついてきなさい」
メアリーが頷くと、フィオナは力を込めて寝室のドアを開けた。
**
消火が終わった建物は、黒く焼け焦げた何かが散乱していた。部分的に焼け残った民家の骨組みが被害の大きさを物語っていた。消防士が3人、現場検証をしていた。
煤で汚れるのを気にせずに、フィオナは焼け跡に足を踏み入れた。火は消えていて熱はない。ただ、燃え残った部材が発する匂いが喉の奥に張り付いた。
「奥様、危険です。これ以上は……」
メアリーが制止するのを無視して、フィオナは奥に進んだ。
「子供がいたのは、ここかしら?」
フィオナが尋ねると、「ええ、この下です」と消防士は焼け焦げた床板の残骸を指差した。床板の周りにはレンガ片が散乱していた。どうやら、アーサーと子供は板の裏に隠れて落下物を防いだようだ。
白い手袋に黒くなるのも構わず、フィオナは床板を持ち上げた。床板の下には燃え残った縄が転がっていた。
「これは?」
「強盗が押し入って、火を放ったそうです。子供は両手両足を縄で縛られていました」
「子供を焼き殺そうとしたの?」
「酷い話です。あの子です」
消防士は引きつった笑みを浮かべて、座り込む子供を指差した。
全身が煤で黒ずんだ少年が瓦礫にもたれていた。この少年を助けるために、アーサーは民家に飛び込んだ。
少年は震えていた。フィオナは少年の前に屈み込むと、コートを身体に被せた。
少年は肩をビクッと震わせ、落ち着きなくフィオナを見た。
「怖かったでしょう?」
フィオナが笑みを浮かべると、少年の目に涙の粒がこぼれそうに溜まった。
強盗に手足を縛られ、焼き殺されそうになった少年。恐怖心から、すぐには話せないだろう。
「両親は?」
フィオナの問いかけに、少年は首を横に振った。
「行くところはあるの? なければ、私と来なさい」
フィオナが手を差し出すと、少年は小さく頷いた。




