第31話:コーンウォールの午後。繋いだ手と平和
淳志と香織の世界旅行も、いよいよ終盤に差し掛かっていた。
二人が最後に訪れたのは、イギリス南西部の端に位置するコーンウォール地方。切り立った崖と美しい海、そして古いケルトの息吹が残る静かな田舎町である。
海風が心地よい昼下がり。二人は石造りのこぢんまりとしたカフェに足を踏み入れた。
しかし、店内の空気はどこかピリピリと張り詰めており、店主らしき夫婦も、手伝いをしている十代前半の可愛らしい娘も、淳志たちの顔を見るなりあからさまに警戒した視線を向けてきた。
その理由は、すぐに分かった。
店の奥のテーブルを陣取っている、十人近い外国人観光客のグループ。彼らは真昼間から酷く酒に酔っており、大声でC国の言葉をまくし立てて、下品なジョークを飛ばしながらどんちゃん騒ぎをしていたのだ。
東アジア系の顔立ちである淳志と香織も、彼らと同じC国からのマナーの悪い観光客の仲間だと思われたのだろう。
「おい、そこの可愛いウェイトレス! もっと酒を持ってこいよ!」
「いやだ、離して……っ!」
オーダーを運ぼうとした手伝いの少女が、酔っ払いの一人に腕を掴まれ、怯えて涙ぐんでいる。
見かねた店主が血相を変えて奥から飛び出してきたが、言葉の壁をいいことに、観光客たちは店主をせせら笑い、突き飛ばした。
さらにタチの悪いことに、彼らの何人かが、静かに紅茶を飲んでいた香織の美貌に目をつけ、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて近づいてきたのだ。
「オイ、そこの。こんな店を出て、俺たちと良いことしようぜ」
淳志たちが自分たちの言葉を理解できないと思い込んでいるのか、男たちは母国語で口汚い言葉を吐きながら香織の肩に手を伸ばした。
だが、淳志のチート能力『言語理解』の前では、その下劣な言葉はすべて筒抜けだった。
「……触るな。そして、その汚い口を閉じろ」
淳志は流暢なC国の言葉で冷たく言い放ち、男の腕を弾き飛ばした。
完全に言葉が通じたことに一瞬驚いた男たちだったが、すぐに顔を真っ赤にして激昂し、淳志に向かって殴りかかってきた。
ドゴォッ! バキィッ!
淳志は一切の容赦なく、向かってきた二、三人の男の顔面に拳を叩き込み、床に沈めた。
それでもまだ数の暴力を頼りに威嚇してくる残りの男たちを見て、淳志はため息をつき、傍らにあった木製の分厚い「切り株の椅子」に向かって拳を振り上げた。
打撃が当たるコンマ数秒前。淳志はチート能力『収納』の異空間から、密かに保管していた「巨大な鉄塊」を拳の先に一瞬だけ出現させた。
メキバキィィィィィッ!!!
凄まじい轟音と共に、大の大人が乗ってもビクともしないはずの分厚い切り株の椅子が、淳志のただの「素手」の振り下ろしによって木端微塵に粉砕された。
「…………ヒッ」
信じられない破壊力を目の当たりにした観光客たちは、全員が顔面を蒼白にして凍りついた。
「よし。お前ら、迷惑料として一人百ポンドな。払ったらとっととバスに乗って出て行け」
淳志が再びC国の言葉で静かに凄むと、男たちは震える手で財布から紙幣をむしり取り、這うようにして店から逃げ出していった。
静寂が戻ったカフェ。
「あー、俺たちは日本人だからね。C国ではないよ」
涙を拭った少女が、目をキラキラと輝かせて淳志を見上げた。
「お兄ちゃん……今の、ニンジャなの!?」
「ははっ、まあ、そんなところかな」
淳志が英語で苦笑しながら少女の頭を撫でると、店主夫婦もハッとして駆け寄り、深々と頭を下げた。
「あの連中のお仲間かと思って警戒してしまって、本当に申し訳なかったです」
「気になさらないでください、休暇旅行中なんですよ」
淳志がそう答えると、店主一家の顔がパッと明るく輝き、改めて心からの感謝の言葉を口にした。
昼の営業が終わった後。
淳志と香織は「ぜひお礼に」と店を貸し切りにされ、素晴らしいスコーンと紅茶の『アフタヌーンティー』をご馳走になっていた。
少女の名前はエイラ。母親はアリアといった。
「あの……日本人の方なら、これが何か分かるんじゃないかと思って」
すっかり淳志に懐いたエイラが、奥の部屋から一本の古い刀と、古びた掛け軸のような紙を持ってきた。
それは紛れもない『日本刀』であり、当時の軍刀の拵えがしっかりと施された業物だった。そして、一緒に出てきた紙に書かれていたのは、見事な達筆で書かれた漢詩である。
「これは……唐の詩人、李白の『送友人(友人を送る)』ですね」
香織はこの漢詩を知っていた。
淳志は『言語理解』の能力で漢文を正確に読み解き、香織やエイラたちに向けて静かに現代語に訳して聞かせた。
『青き山並みは城郭の北に横たわり
白き川の流れは街の東をめぐりゆく
この地でひとたび別れを告げたなら
風に舞う枯れ草のように、君ははるか万里の彼方へと旅立ってしまう
空を漂う白雲は、旅ゆく君の心
赤く沈む夕陽は、見送る私の名残惜しさ
手を振って、ここから去りゆく君を見送れば
別れを悲しむように、君を乗せた馬までが寂しくいなないている』
美しい詩の響きに、カフェの中に静かな感動が広がった。
母親のアリアの曽祖父は、かつてイギリスの軍人だったという。
日英同盟の時代、彼には武官としてイギリスに駐在していた日本人の親友がいた。
しかし、時代が変わり、日本が三国同盟を結んだことで、彼らは国を分かって戦うことになり、永遠の別れを余儀なくされた。
この軍刀と送別の詩は、その時に日本人の友人が曽祖父に託した、かけがえのない『友情の証』だったのだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
エイラが、少しだけ悲しそうな顔をして淳志の袖を引いた。
「その日本人の人と、ママのひいおじいちゃんが別れなくちゃいけなかったのは……ドイツがいたから、悪いの? 戦争って、悪いことじゃないの?」
まっすぐな瞳で見つめてくるエイラに、淳志はふと、以前ベルリンで看取ったあの老婦人のことを思い出した。
「……そうだね、戦争は絶対に良くないことだ。悲しいことばかり起きる。でもね……」
淳志はエイラと同じ目線になるようにしゃがみ込み、優しく語りかけた。
「昔、ベルリンで出会ったご婦人の旦那さんは、ドイツの兵士として戦ったんだ。でもそれは、国のためとか悪いことをするためじゃなくて……ただ『自分の奥さんを守りたい』っていう一心だったんじゃないかなって、俺は思うんだ。みんな、それぞれ守りたい誰かのために必死だった。だから、誰か一人が悪いわけじゃないんだよ」
淳志の静かで温かい言葉に、エイラはしばらくじっと考え込んでいたが、やがて一つ大人びた表情を見せて微笑んだ。
「……今日みたいに、嫌な人たちもいる。でも、こうして遠くの国からお兄ちゃんたちが来てくれて、助けてくれて、ママのひいおじいちゃんの本当の気持ちを教えてくれた……」
エイラは、テーブルの上の軍刀と詩を愛おしそうに見つめた。
「今の私たちが、こうして出会えているのって……すごく奇跡みたいに、恵まれていることなんだね」
「ああ。本当にその通りだ」
淳志は立ち上がり、隣で優しい微笑みを浮かべている香織の顔を見た。
窓の外には、コーンウォールの美しい海が黄金色に輝きながら広がっている。
(こんなに綺麗な景色を、香織さんと一緒に平和に見られるなんて……俺は本当に、幸せ者だな)
淳志はそっと、テーブルの下で香織の細い手を握った。
香織もまた、少しだけ頬を染めながら、淳志の手を優しく握り返す。
遠い過去の友情が繋いだ奇跡の午後。
温かい紅茶の香りと、繋いだ手の温もりに包まれながら、二人の世界旅行は、最高の平和の中で静かに幕を下ろすのだった。




