第16話「兄の孤独」
夜更けの王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
第一王子ルシアンは、執務室の灯りを落とさずにいた。
机の上には、軍費再配分案と、婚約破棄統計の写し。
数字が並ぶ紙を、長い指が静かに押さえる。
「……急ぎすぎか」
誰に聞かせるでもない独白。
扉が叩かれる。
「入れ」
現れたのは、カトリーヌ・ド・セルヴィエ。
第一王子の現婚約者。
銀灰色のドレスをまとい、背筋を伸ばしている。
「まだお休みになっていないのですね」
「君もだ」
淡々とした応酬。
カトリーヌは机の向かいに立つ。
「公開統計の件、街は揺れています」
「想定内だ」
「ですが、不安も広がっています」
ルシアンは視線を上げる。
「不安は統治の敵だ」
「ええ」
彼女は頷く。
「ですが、不安を無視するのも危険です」
静かな助言。
「あなたは、何を恐れているのですか」
直球。
ルシアンはわずかに目を細める。
「恐れてはいない」
「では、何に急いているのですか」
沈黙。
窓の外、遠くの灯りが揺れる。
「北方同盟が動いている」
「確証は」
「ある」
短い返答。
「侵攻が現実となれば、猶予はない」
「だから内を整える」
「そうだ」
迷いのない声。
「婚約破棄も、その一環」
カトリーヌは目を伏せる。
「ヴァレンティス嬢の件も?」
空気がわずかに張る。
「個別感情で語るな」
「感情ではありません」
顔を上げる。
「あなたが迷っているように見えたからです」
ルシアンの手が、紙を強く握る。
「迷っていない」
「では、なぜ彼女の名を出された時、沈黙したのですか」
鋭い。
沈黙が落ちる。
「……必要だった」
「何が」
「公爵家を切ることで、他の家門に示した」
秩序を守る意思。
「あなたは強い」
カトリーヌは静かに言う。
「ですが、強さは孤独を生みます」
「王は孤独だ」
「ええ」
肯定。
「それでも、孤独を選び続ければ、周囲は離れます」
ルシアンは椅子から立ち上がる。
「君は、私を止めたいのか」
「いいえ」
即答。
「支えたいのです」
視線が交わる。
「あなたが正しいと信じているから」
迷いのない言葉。
「だが」
一拍置く。
「正しさにも、角度があります」
ルシアンは静かに息を吐く。
「弟は感情を持ち込む」
「それは弱さですか」
「統治においては」
「ですが、民にとっては?」
沈黙。
カトリーヌは机の統計を見つめる。
「数字は、確かに増えています」
「必要な増加だ」
「ですが、説明が足りません」
穏やかな指摘。
「説明は力を弱める」
「沈黙は疑念を強める」
静かな応酬。
やがてルシアンは、窓の外を見る。
「弟は王になる気だ」
「あなたも」
「私は最初からその位置だ」
「だからこそ」
カトリーヌは言う。
「彼の言葉を、無視できない」
ルシアンの瞳に、わずかな疲労が宿る。
「私は、間違っているか」
小さな問い。
カトリーヌは首を振る。
「いいえ」
「では何が足りない」
「……余白です」
ルシアンが振り返る。
「余白?」
「民が息をつける余白」
静かな声。
「婚約破棄は刃です」
「必要な刃だ」
「ですが、常に抜いていては血が止まりません」
沈黙。
長い沈黙。
やがてルシアンは椅子に戻る。
「弟は何を望んでいる」
「透明性、と」
「理想だ」
「ええ」
カトリーヌは微笑む。
「ですが理想は、時に必要です」
ルシアンは統計を見つめる。
三年前からの急増。
自らの決断。
「……揺らぐ気はない」
低い声。
「それでいいと思います」
「だが」
「ええ」
彼女は頷く。
「孤独を選ぶなら、覚悟を」
ルシアンはゆっくりと目を閉じる。
王は選ぶ存在。
捨てる存在。
駒であると同時に、盤を動かす者。
「カトリーヌ」
「はい」
「君は、駒になる覚悟があるか」
彼女は迷わない。
「国家のためなら」
その答えは、宰相と同じ。
だが声は柔らかい。
ルシアンは静かに頷く。
「ならば進む」
窓の外、夜は深い。
孤独は消えない。
だが彼は止まらない。
その頃、別邸では。
エレノアが資料を整理していた。
彼女はまだ知らない。
第一王子もまた、孤独と戦っていることを。
正義と正義が、静かにぶつかり始めていた。




