西方諸国タルキア、夜が明けるまで《オルハ》
《オルハ》
ふと思うと、お兄ちゃんと私は、随分と背が近くなった。
もちろん、お兄ちゃんのほうが背が高いのだけれど。子どもの頃、アリアレジスの王城を出たばかりの頃、私はお兄ちゃんを見上げていた。あれから七年、十五歳になった私は、お兄ちゃんと近い目線になっている。
エルコトルでソラたちと出会って聞かれるまで、私はあまりお兄ちゃんの年齢を気にしていなかった。
お兄ちゃんは、ずっと優しい。柔らかい声で、文字の読み書きも、知らない詩も、世界の歴史も教えてくれた。
同時にお兄ちゃんは、ずっと分からない。あんなに優しいのに、私をさらう人を平気で殺してしまう。そのときの瞳は、鋭くて冷たくて孤独だ。
私たちは七年間、ずっと旅をしてきた。私が金の糸の記憶を見るからだ。けれど、それがなぜ、旅をする理由なのか分からない。ただずっと、希望教から逃げている。
黒い魔導士たちに捕らえられたことも、何度もある。そのたびにお兄ちゃんが助けてくれた。これではいけないと、私は召喚獣ナハティガルと契約した。私が人を傷つける方法を身につけたそのとき、お兄ちゃんは見たことのない顔をした。それは、とても悲しそうな顔だった。
けれど、やっぱりお兄ちゃんは優しい。旅の途中、私の体に変化が起きても、その対応はとても紳士的で温かかった。お兄ちゃんには昔にも、こんな優しさを向けた人がいたのかな、と想像をする。それはどんな人なのか、いつか知ることが出来るのだろうか。
お兄ちゃんは、厚く大きな壁に覆われている。もしくは、深く広い崖に囲まれている。私はお兄ちゃん以上に孤高な人を、見たことがない。
「いつの頃からか、私、消えてしまいたかった。」
アリアレジスで、影にさらわれたとき。その屋敷の掃討に向かったお兄ちゃんの帰りを待つ私の、この呟きは本音だ。
「私が消えれば、お兄ちゃんは明るい道を生きて行けるんじゃないか、一人の優しい人間でいられるんじゃないか。こんなこと、おじ様にもお兄ちゃんにも、とてもじゃないけれど言えない。」
なぜ、ソラたちにこんなことを言えたのかは分からない。けれど、ずっと頭の奥にはあった考えなのかもしれない。
私はお兄ちゃん、ソロという人間の笑顔を見たことがない。
私とお兄ちゃんはソラたちと別れてからアリアレジスを離れ、西方諸国へ来ていた。七年間、たどったことのない道を行こうとお兄ちゃんが言うので、西方諸国でも北側の国を行くことにした。
そして、私たちはタルキアという国のある街を訪れる。
西方諸国は、ニ、三年前に旅をしたことがあるが、このタルキアは特に姫神教への信仰が篤い国々だという。姫神教会公認の巡礼者であり、治癒魔導士である私には、とても親切にしてくれる国々なのだ。腰に提げた百合の紋章が、その公認の証だ。これを見た宿や食堂の主人は、ありがたそうにオマケをしてくれる。
もちろん、タダで恩恵を受けるわけではない。私たちは行く先々の街で姫神教会に顔を出し、治癒魔道を使って慈善活動を行う。
たまたま持った才能で人の役に立てるのは嬉しいが、私は近頃、この百合の紋章が、なんだか重い。
お兄ちゃんが教会で傭兵の仕事について聞いている間、私は広場のベンチに座って待つことにした。
広場では、私と同じ年頃の女の子がオシャレをして、楽しそうに話している。互いの編み込んだ髪型や、可愛い服や装飾品を見せ合っていて楽しそうだ。少し、おしゃべりしてみたい。
けれど私は、街の人と交流することを、おじ様からもお兄ちゃんからも禁じられている。以前、害の無さそうな子どもを使って、希望教が私をさらったことがあったからだ。私は、街の人々を眺めるだけだ。
しかし、ふと三人の女の子の一人と目が合う。どうしよう、と思ったときには、その子が声をかけてきた。
「ねえ、旅の人?あ、百合の紋章。姫神教会の巡礼者なのね。」
「う、うん。」
私は少しドキドキして答えた。三人の女の子が、私に近づいてきた。
「私、ナンシー。それから、マーヤとエリス。あなたは?」
「私、オルハ。」
「珍しい名前ね。どこから来たの?」
「んと…、言えない決まりなの。」
本当はアリアレジスだが、これもおじ様たちから禁じられていることなので、決まりという言葉で濁した。三人は少し不思議そうな顔をしたが、きっと優しい子たちなのだろう。そのあとも親しげに話をしてくれる。
「オルハもこれ食べる?」
「いいの?美味しそう。」
私は差し出されたクッキーを、一枚食べる。
「うん、美味しいっ。紅茶の味?」
「そうそう。タルキアとこの辺りの国は、紅茶が有名なの。」
マーヤがさらにクッキーを勧めてくれたので、私はもう一枚食べて言う。
「西方諸国はいろいろな文化があって楽しいよね。三人の服も、すごく可愛い。」
「西方諸国の北側は、糸を染めたり織物をしたりするのが女の仕事だからね。休日は、私たちも好きに服を作ってるの。」
「え、自分で作ったの?すごい。」
そしてしばらく、私は彼女たちに質問攻めをしてしまった。ブラウスに刺繍した花は何かとか、緑色のスカートは何を使って染めたのかとか。
私もこんなスカートを履いてみたい。旅をしていると、どうしても動きやすい服装を選ばなくてはいけない。
次に、私はタルキアの女の子が身につけている特徴的な装飾品に注目した。
「これはね、ガラスを溶かして作ったビーズを組み合わせて作ったブレスレット。一つ一つ、色の違うガラスを溶かしているから、違いがあって面白いでしょ。」
「うん、どれもキラキラしてて綺麗。石には無い色合いが素敵だね。」
「良かったら、このブレスレット、オルハにあげるわ。」
「え、でも…。」
エリスが自分の手首につけたブレスレットを外し、私に差し出してきた。ピンク色のガラスが女の子らしくて、心惹かれる。
「姫神教会の巡礼者の子と友達だなんて、自慢出来ちゃうもんね。」
そう言って、三人は、ね、と笑い合った。
友達。その言葉が私には新鮮で、微笑みを返したくなった。
「オルハ。」
名前を呼ばれて見上げると、お兄ちゃんが立っていた。
「お兄ちゃん。」
ふと三人を見ると、お兄ちゃんの凄みに少し驚いている様子だ。
「待たせてすまない。君たちは…。」
そう言ってお兄ちゃんが三人を見ると、三人は微笑んで、何かを言おうとした。
「妹の話し相手をしてくれて、ありがとう。オルハ、行くよ。」
「あ、お兄ちゃん。」
早足で歩くお兄ちゃんに遅れまいと、私は立ち上がる。
「ごめんね、じゃあね。」
私は振り返ってそう言うが、三人はキョトンとした顔で手を振るだけだった。エリスは、あの可愛いブレスレットを、宙にぶら下げたままだった。
宿の部屋に入ると、お兄ちゃんと二人きり、気まずい時間が訪れた。
「オルハ。」
「何も話してないよ。」
「…別に、責めるつもりはない。」
お兄ちゃんはそう言うが、その鋭い視線や腕を組む癖は、子どもの頃から少し怖いのだ。
「何かもらってはいないね。」
「もらってない。」
本当はクッキーを食べたが、私は嘘をつく。お兄ちゃんは短くため息をついて言う。
「何か必要なものがあれば言うんだ。不自由はさせない。」
「…何もないよ。」
これも嘘だ。本当は、旅をせず、一つの街で年相応に自由に暮らしたい。あの子たちみたいに、友達と楽しく過ごしたい。けれど、これはお兄ちゃんに求めることではない。
「僕は今夜、姫神教会の仕事で街の警護に出る。オルハは宿で留守をするんだ。いいね。」
私は黙って頷く。私が姫神教会で請け負う怪我人の治療は、あくまでも慈善活動で報酬は無い。姫神教会の名誉のためだ。だから、私たちの路銀はお兄ちゃんが傭兵をして稼ぐ。
これについても、本当はお兄ちゃんに、危険な仕事をして欲しくない。何度も酷い怪我を負って、けれど弱音を吐かずに耐えるお兄ちゃんを見てきたからだ。でも、私には止める力も、代わりを務めるだけの力も無い。
夕飯は街の食堂でとった。西方諸国の料理は羊肉が中心で、私はこれが好きだ。最初はクセがあったが、慣れるととても美味しい。
タルキアでは旅人が珍しいのか、食堂でも何人かの地元の人に声をかけられた。けれど、お兄ちゃんが無愛想にかわすので、結局は二人ぼっちでの食事になってしまう。
私は正直、人との交流に飢えている。エルコトルでソラたちと話せたのは、とても楽しかった。それにしても、やはり不思議なので、私は聞いてみる。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「なんだい?」
「エルコトルやアリアレジスでソラたちと話したのは、何か理由があるの?」
そう問うと、お兄ちゃんがスープを飲む手を止めた。
「エルコトルでは、自分から、確かカイに名乗ったよね。そんなの初めてだった。それにアリアレジスでは、宿も一緒の場所に誘ったよね。お兄ちゃんにとって、彼らは何かあるの?」
お兄ちゃんはまた、わざわざスプーンを置いて腕を組む。そして、何かを考えたあと、言う。
「…今は、言えない。」
「いつ言えるの?」
「分からない。」
いざお兄ちゃんに問いかける立場になると、なぜか止まらなくなってしまった。私は余計なことまで聞いてしまう。
「お兄ちゃん、私たちの旅はいつ終わるの?」
「分からない。」
「なんで、私に金の糸の力があるの?」
「すまない、分からない。」
「お兄ちゃんは、どうして希望教の人たちを殺すの?」
「オルハを守るためだ。」
「どうして私を守るの?金の糸の力があるから?」
「…違うっ。」
それは、もの静かなお兄ちゃんにしては、強い口調だった。近くの席の人が、私たちを見る。その視線が戻ったのを見て、お兄ちゃんが言う。
「オルハが、大切だからだ。」
「大切…。」
そのあとは、お互いに何も言えなくなってしまった。私たちは食堂を出て、お兄ちゃんは何か気遣ってか、途中の店で、私が好きなフルーツの入った焼き菓子を買って宿へ帰った。
宿に着き、お兄ちゃんは剣を下ろさず、すぐに仕事へ行く準備をする。私は気まずいままでは嫌なので、無理に頬を上げて笑う。
「お菓子、ありがとう。お兄ちゃん、気をつけてね。いってらっしゃい。」
そして、お兄ちゃんは仕事へ行った。
もう夜十時だと言うのに、私は眠れずに日記を開く。日記といっても、毎日書いているわけではない。今まで巡ってきた国や街でのことを書いているのだ。
さらわれたときのことや、悲しいことは書かない。というよりも、書き方が分からない。もっと言えば、私は自分の思いが書けないのだと思う。嬉しいことも、書き方が分からない。
だから、私は日記には、美しかったものや、美味しかったものを書き残している。最近は、先週訪れた国で見た花畑について書いた。
【今日見たもの。コルチカムの花畑。ピンクに近い紫色で、中心は白い。密集して咲いているので、華やかだ。でも、球根には毒があるらしい。】
なんて薄っぺらで、詰まらない日記だろう。
日記は旅の始まりに、お兄ちゃんが与えてくれたものだ。文字の練習代わりにだと思うけれど、不器用なお兄ちゃんなりに、私に旅の楽しみを与えようとしてくれたのだとも思う。
でも、肝心の私が空っぽだ。どんなに素晴らしい景色が在っても、それを見る私がこんなでは、日記だって空っぽだ。七年間、旅をしながらこんなにもページが余っているのは、そのせいだ。
なんだか虚しくて、私は最後のページを開く。最後のページには、欲しいと思ったものを箇条書きで書き連ねている。
【新しい靴、リボンのついたブラウス、白いマフラー、長い丈のスカート、王城に置いてきた人形、ぬいぐるみ、詩集】
最初のほうは、拙い字で子どもっぽいものばかりが書いてあった。そう言えば、王城にお気に入りのぬいぐるみを置いてきてしまったな。旅に出たばかりの頃は、その感触が恋しかった。
欲しいもののページには、途中から少し成長した字でこう書かれていた。
【おじ様に会いたい、家、家族】
それを見ると、虚しさと同時に恥ずかしくなってしまった。こんなことを書くなんて、なんだか自分に酔っているようだ。
私は十五年間、あまり多くを考えずに生きてきた。
幼い頃は王城で、おじ様に大切に育てられた。お手伝いさんが希望教に殺されてしまって、すぐに旅に出ることになったとき、衝撃は強かったが、お兄ちゃんがいてくれたから安心出来た。
お兄ちゃんは、王城に住んでいる頃から、たまにやって来ては私にお土産をくれる、優しいお兄ちゃんだった。そんなお兄ちゃんが守ってくれるなら、大丈夫だと思ったのだ。
旅に出てからしばらく、私はワガママだった。おじ様に会いたい、王城に帰りたいと、よく泣き喚いた。お兄ちゃんは怒らずに、私が泣き止むまで待ってくれていた。
そんな時だ。ほんの少しの隙をついて、希望教が私をさらったのだ。私は怖くて仕方なかった。そして、希望教は言う。
「悪い子」
「生きているだけで罪深い娘」
「煉獄に堕ちる娘」
なぜ、そんなことを言われなくてはいけないのか、これは今も分からない。
お兄ちゃんはすぐに助けてくれた。しかし、私はお兄ちゃんが人を殺してしまうのを見てしまった。
お兄ちゃんは、煉獄へ行く人なんだ。
本音としては、お兄ちゃんが希望教よりも恐ろしく見えた。お兄ちゃんは私の名前を呼んで、手を伸ばしてきた。けれど、私は身を後ろに引いてしまった。そのときの、お兄ちゃんの顔が忘れられない。
希望教にさらわれて以来、お兄ちゃんは常に緊張感を纏うようになった。そして、私に禁止事項をいくつか設けた。けれど私は、たまに反抗した。そのとき、お兄ちゃんは困った顔をする。
違う。怖いけれど、分からないけれど、私はお兄ちゃんにこんな顔をさせたいわけじゃない。気付いたら、私はぶつけどころのない感情を抱えたまま、お兄ちゃんと旅をしていた。
けれど、私が笑ったとき、お兄ちゃんの空気が少し和らぐ気がする。だから、笑いたいときは笑おうと、私は思うのだ。
私がこんなに感傷的になったのは、アリアレジスでお兄ちゃんの過去を知ってからだ。
十五年間、あまり考えもなしに生きてきた私は、お兄ちゃんの過去に戸惑った。優しくて怖くて、分からないところばかりのお兄ちゃんは、たくさん傷ついて今日まで生きて来たのだ。
まだ謎の多いお兄ちゃんだけれど、あんな辛さを味わいながらも優しくて強い。
それを思い知ってから、私は劣等感まみれなのだ。ただ守られて逃げるだけ、目的地も無く、自分の意志も無い私は、一体なんなのだろう。
そこで、ふと思い立ち、ページをさかのぼる。この日記には、金の糸の記憶で見たことも書いている。
極貧の家に生まれ、美貌で嫉妬を買いながらも、最後は心の美しさを見初められて王妃となった娘。
形代に生まれながら、水色の足を隠し抜き、大国の領土を任せられた騎士。
弾圧される民族に生まれながら、己の考えを柔軟に変え、大成した魔道士。
私は、金の糸の記憶で見た人々のことを、素直に素晴らしいと思えた。どの人も絶望の淵から這い上がり、輝かしい幸福に包まれていたからだ。それは運ではなく、努力と粘り強さによるものだろう。
ここで私はまたも、劣等感に苛まれる。空っぽで守られるだけの、金の糸の記憶を見るだけの私。やはり私は、自分が分からない。
自身の力で強く生きる人と自分を比べては、悪循環に陥っている。今、私は私が面倒だ。




