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プロローグ

喉を焼くのは、熱風と巻き上がる細かな砂礫だ。肺の奥まで侵食してくる乾燥した空気。一歩踏み出すたび、使い古された安全靴が砂に沈み、鈍い音を立てる。

男の名は佐藤正志(さとうまさし)三十代半ば、鏡を見るまでもなく、その面構えには日銭を稼ぐために削り取られた人生の疲労が刻まれている。着古した工事用の作業着は、もはや防護服というよりは、変わり果てた世界の墓標のように見えた。

数日前、彼はまだ「日常」という名の地獄にいた。


「おい、佐藤! 立ち止まってんじゃねえ、そのセメントをさっさと二階へ上げろ!」


現場監督の怒号は、錆びたナイフのように鼓膜を抉った。三十半ばの体は、朝から晩までの重労働ですでに悲鳴を上げている。背負ったセメントの袋は、まるで己の人生の重みそのものだった。組まれた足場を、一歩、また一歩と慎重に踏みしめる。鉄パイプの冷たさが、軍手越しに手のひらへ伝わっていた。

その時だった。

頭上で何かが閃き、乾いた衝撃がヘルメットを叩いた。落下してきた工具。運良く頭蓋は守られたが、衝撃までは殺せなかった。視界がぐらりと揺らぎ、足場がその役割を放棄する。重力に身を任せ、真っ逆さまに落ちていく刹那、佐藤の意識は深い闇へと沈んでいった。

――そして、次に目を開けた時、世界は終わっていた。

広がるのは、文明の残骸すら飲み込みかねない果てしない荒野。佐藤はゆっくりと立ち上がり、砂を吐き捨てた。

「……やれやれ、日払いの給料も貰い損ねたか」

誰に聞かせるでもない独り言が、熱風にかき消されていく。この場所がどこなのか、なぜ自分がここにいるのか。答えを探すには、この砂の海を歩き続けるしかない。正志は、再び重い足取りで前へと踏み出した。

それから約48時間。死神の吐息のような砂嵐を岩陰でやり過ごし、飢えた化け物の咆哮に背筋を凍らせる夜を越えた。生き延びたのは執念か、あるいは単なる不運か。

正志は目を細め、陽炎の向こう側を睨みつけた。視界を埋め尽くすのは、神に見捨てられたような黄塵の連なりだけだ。目的地などない。ただ、止まれば死が追いついてくる。

腰のベルトに結わえ付けた安っぽいビニール袋に手をやる。中には、現場の休憩時間に食うはずだった湿気た菓子。そして作業着のポケットには、半分ほどの中身を残した小型のペットボトル。それが、今の彼の全財産であり、生命線だった。

キャップを捻り、なまぬるい水を一滴、舌の上に乗せる。干からびた喉がひび割れた大地のようにそれを吸い込んだ。喉を湿らせる程度の、吝嗇な潤い。

「……贅沢は言わねえ。せめて次は、ビールが出る夢でも見せてくれ」

正志はボトルを仕舞い込むと、重い安全靴で砂を蹴り、終わりのない地平へと再び足を進める。

砂の海を進み何日経ったか。

喉の渇きは感覚を麻痺させ、脱水で視界の縁が歪む。

死の砂漠、その厳しい夜は冷気とモンスターの脅威に満ちていた。

火を使えば位置がバレる。

正志は砕け散ったコンクリートの残骸に体を埋め、震えながら浅い眠りについた。

満月が、砂漠を非情に照らしていた。それが仇となった。

ギィーー!!

殺気が眠りを破る。犬ほどもあるデカいネズミが、正志の首筋を狙って飛びかかってきた。

「クソッ、眠りを邪魔するたぁいい度胸だ!」

脱水で遅れた神経を極限まで集中させ、噛み付きを紙一重でかわす。

殺るか、殺られるか。正志は傍らにあったコンクリートの塊を掴むと、咆哮とともにネズミの頭蓋へ振り下ろした。

ゴス!

鈍い音が砂漠に響く、ネズミの動きが一瞬止まる。

「こいつで終わりだ、化け物!」

ゴス! ゴス!

正志は容赦なくコンクリートを叩き付ける。狂気の沙汰にも似た連打。最初こそ抵抗していたネズミも、二撃、三撃と重い衝撃を受けるうちに、ただの肉塊へと成り果てた。

荒い呼吸だけが、熱を帯びた風に溶けていく。正志が血に汚れたコンクリートを放り投げ、ようやく肺に溜まった毒を吐き出した、その時だ。

『チャチャチャチャーチャチャチャッチャッチャーー!!』

鼓膜を突き破らんばかりのファンファーレが、校内に高らかに鳴り響いた。

と同時に、虚空に青白い火花が走り、現実の膜を食い破るように一枚のウィンドウが浮上する。

『20exp、0Jpを獲得』

無機質な文字が網膜に焼き付く。

※ジョブが未設定のため、ジョブポイントは発生せず。

表示は一瞬で消え去り、静寂が戻る。

面食らった正志の足元、倒れ伏したネズミの死体の横に、数枚の硬貨が落ちていた。

まるで安っぽいゲームのワンシーンだ。

だが、確かな重量感がある。

正志は脳裏をよぎった二つの記憶——かつて熱中した国民的RPGと、最近耽溺していた異世界系小説——を繋ぎ合わせ、乾いた唇を動かした。

「……ステータス」

その呟きに応じ、再び虚空にウィンドウが展開された。

正志は、薄笑いを浮かべる影すら見当たらない薄暗い空間で、自身の新たな現実を確認した。


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