縁(3)
正直に申し上げて、当社は著しく厳しい状況にあります。
これは皆さんもご存知でしょう。
コンプライアンスについて今は研修がされておりますが、研修をしたからと言ってすぐに改善できかといえば、そうではありません。人間という生き物は、二十歳を過ぎるとなかなか変われないのです。
変わりたいと思っても、周囲が変えようと思って教育しても、そう簡単に人間の本質というものは変わりません。
つまりどう取り繕っても、人間の中身、頭の中まではなかなか変えられない。これは私くらいの年齢になると特に顕著でして、五十年近く生きていると、どうしても常識だとかそういったものに支配されがちです。
常識的に考えて頂くと皆さんもお分かりでしょうが、列車の在線位置をリアルタイムで表示するなどというアプリは、当社において発想こそあったとしても、実施することは恐らくなかったと思います。
鉄道の常識ではそんな考えは存在しないからです。しかしこのアプリは、そんな常識に待ったをかけて、凝り固まった鉄道というシステムを変えようとしている。上手くいくかどうかは別にして、電気部の担当の人からこの話を聴いたときに、私は思ったのです。
もしこのシステムが本当に完成すれば、駅員の負担云々ではなく、鉄道そのものの常識を覆すことができるのではないかと。
電気部の方はアプリを業務用にしたいと仰っていました。私も同感で、確かにお客様向けに配信するのが第一としても、我々駅員にとっても列車がどこに何分遅れで走行しているのか、そういう情報は宝物のようであります。
スマートフォンをお持ちでないお客様や、アプリをダウンロードされていないお客様向けに、表示端末のような物を設置しても良いでしょうとも、話しておりました。
私はこのシステムに、この会社の未来を託したいと思っているのです。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、もっと身近でもっと使い易く、もっと便利な会社にできるのではないかと。
今のJR北海道がダメだとは思いませんし、この会社も変わりつつあることは、平成二十年前後に入社された皆さんも実感されていると思います。
ですが、根本から変えるのはコンプライアンス研修だとか、安全に対する取り組みだとか、そういう社内研修も勿論大切なのは重々承知しておりますが、お客様の視点からすれば、はっきり申し上げて我々の取り組みは「やって当たり前」なのです。
今、多くのメディアで当社は厳しい記事を書かれていることは、皆さんご存知ですよね? それは当たり前のことができていなかったからであり、できるようになって初めて「JRは変わった」と思って頂けるのです。
従って、現行のコンプライアンス研修などを続けるのは当然として、何かお客様から可視的に、「JRは変わったね」と思って頂けるような何かが必要だと感じていたのです。
お客様と鉄道をもっと近くするような何かが必要だとして、このアプリが完成して、本当に実用化されれば、鉄道を初めてご利用になるお客様にとっても、自分が今乗りたい列車がどこを走っていて、何分の遅れで、という情報を画面で見れば分かるようになります。
このアプリで全て解決するとは私も思っておりませんし、今は札沼線の列車一本を追い掛けるのがせいぜいらしいので、果たしていつ完成するのかも定かではありませんから、正直懐疑的な面もあるのですが、新しい風を吹かせるという意味では一定の意味を成す。私はそう思っています。
少なくとも当社とお客様の距離を少し縮める、そういう存在にはなってくれるのではないかと思い、若い皆さんにも存在を知ってもらって、どう感じたかをテスト用紙に小さくアンケート欄を設けたのですが、皆さんしっかり記入してくれましたね。ありがとうございます。
これを電気部に提出して、現場の人間からの意見として取り入れてもらおうと思います。
縁あってこういうアプリを作りたいと言ってくれたメーカーがあり、縁あってそのメーカーと当社の電気部が繋がっていた。
そう。このアプリは縁なのです。縁によって作られたアプリを我々駅員という立場から見て、どう思うかという率直なご意見を頂戴したい。今日集まって頂いた最大の理由は、それにあります。
この後、懇親会を予定しております。遠方からいらっしゃっている方は残念ながら参加できないとのことでしたが、我々鉄道員は縁がなければ仕事ができないことを、よく心得ておいて下さい。
今日の講習会で知り合った縁というものを大切にして、今後の業務にも役立てて下さい。それでは、今日はありがとうございました。
玉本課長の言葉に会場は万雷の拍手だった。
(そうだ。縁だ。俺があの青木って男と知り合ったことだって、縁があってのことだ。そして縁があって由美子と知り合って結婚した。縁があって山岡と仲良くなり、縁があって宮田さんという山岡と親しい人と話し、縁があって宮田さんは玉本課長に質問をぶつけた)
この世の中は縁だ。岡本は実感した。
もしも同級生の柴原と再会するという縁がなければ、自分は青木のことを知り得なかったし、遠く在来線のアプリになど興味を示さなかったかもしれない。
だが今は違う。アプリを実際に作っている男を知り、このアプリに興味を持っている自分がいる。そして本社の営業部も関心を示している。
一同はその後解散となり、岡本らは全員札幌駅に向かった。
札幌駅で山岡と別れた。どうやら山岡たちは駅近くで懇親会を行うらしい。自分も参加したかったが、十八時八分発のスーパー北斗二十二号に乗り遅れてしまえば青森に帰れなくなる。
(晩飯はロッテリアかなんかにするか……。本当は実家に泊まりたいけど)
帰りの特急まではまだ少し時間があったので、ぼんやりと岡本が思っていると、西改札口から一人の女性が入ってくるのが見えた。人でごった返している札幌駅の改札内でも、ひときわ輝いて見えるあの亜麻色の髪。
柴原だ。黒のジーンズに薄手のグレーのコートを着た柴原が歩いている。
岡本は思った。柴原が歩いている。何の因果だろう。なぜ俺が帰る度に彼女を見掛けるのだろう。岡本は不思議に思い、導かれるように彼女を追い掛け声を掛けた。
「柴原」
呼び止められた柴原は振り返り、一瞬ギョッとした表情を浮かべた。本当にこいつは顔に出やすいなと、岡本は思った。
「岡本くん……どうしたの? こんなとこでなにしてるの……?」
柴原の透き通った声が耳に入り込んできた。
雑踏を掻き分け、彼女の音色が自分の耳に吸い込まれてくるのを感じた。
「ああ……出張でな。これから青森に帰るんだけどさ」
話し掛けたは良いが、別に話題など準備していなかった。たまたま偶然見掛けたものだから、声を掛けたに過ぎないのであった。
「え? これから帰れるの?」
柴原は大きな目をさらに大きくして、不思議そうにしている。可愛いなと岡本は思った。
「ああ。これから函館行きの特急に乗れば、新幹線に乗り換えれるんだ。お前はこれから帰りか?」
「うん。ちょっとお買い物してて……あ、そろそろ時間だから行かなきゃ」
(そうか。発寒中央駅に帰るのか)
小樽行きの普通列車は、そろそろ出発時間である。
「そうか。じゃあ、元気でな……」
「うん。またね、岡本くん」
(またね……か。このまたねを、今日で三回も聞いたことになるな……)
「なあ、柴原」
自分でもどうして言葉を続けたのか不思議だった。
ただ、何だか本当にこれで、二度と彼女には会えない。もう本当に会えなくなる。
連絡先を交換する気もないし、彼女と話す機会はこれが最後な気がしたのだ。
「なに?」
「……お前、元気か?」
何を聞いているんだろうと思った。柴原が元気だろうが不調だろうが、そんなものは自分には全く関係のないことだし、夏祭りの時に会った時はあんなに元気だったじゃないか。
なのに……なぜか気になった。今日はあまり元気そうな雰囲気を感じない。どこかで無理をしている。何か無理をしている。こいつは絶対に具合が良くないはずだと、鈍い岡本でも彼女の表情や仕草から読み取れた。
「……なに? 急に」
若干訝しんだ様子で柴原は聞いてきた。
「元気なら良いんだ。元気か?」
(なぜだろう。どうしてこんなに柴原のことが気に掛かるんだろう)
彼は早く夕飯と適当な手土産を買わなければならないのに、列車に乗ろうと急ぐ柴原を呼び止めてこんなことを聞いている。
自分でも意味が分からなかった。彼女の親族でもあるまいし、なぜ「元気か?」と繰り返し聞いているのか。
「……うん。元気だよ」
ニコッと笑って柴原は言った。美しい笑顔だと思った。
この世にこんな美人はいるんだろうかと思うくらい、美しく感じた。
(まるでおとぎ話に出てくるお姫様のようだな……まあ由美子の方が綺麗だけど)
「そうか。なら良かった。じゃあな」
「うん。じゃあね」
柴原がホームへ上がって行った。岡本はそれを追い掛けようとはしなかった。「元気だ」と彼女は言っていた。ならそれで良いじゃないか。
そう思うことにした。彼女はもしかしたら何かを隠しているのかもしれない。だが今見せてくれた笑顔を見る限り、元気なのだろう、きっと。岡本はそう自分に言い聞かせた。
キヨスクで弁当とお茶と家族への手土産を買い、急いで五番線のホームに向かった。
『まもなく五番線から特別急行スーパー北斗二十二号、函館行きが発車いたします。お乗り間違えのないようにお気を付けください』
駅員のアナウンスが秋風の吹くホーム上に響き渡る。岡本は指定席へと乗り込む。
帰りの車中で過ぎ行く札幌の街を見て、岡本は思った。
柴原、どうか元気であってくれと。
なぜ彼女のことがこんなに気になるのか、岡本にも分からなかった。
恐らくもう今年中に札幌を訪れることはないし、柴原と会うことだって、きっともう二度とないだろう。なぜかは分からないが岡本の中には確信があった。
柴原と再会することはもうない。あの美しい亜麻色の髪と透き通った声が、思い浮かばされた。
「じゃあね」
柴原はそう言っていた。最後の一言は、「またね」じゃなかった。つまり彼女も岡本と同じく分かったのだろう。これが最後の別れになるであろうことを。
そしてお互いにその運命に逆らおうとは思わなかった。岡本には家族がいるし、柴原には青木がいる。きっと今も仲良く続いていると岡本は信じたかった。
縁があれば、きっとまた会えるよ。
何となく柴原の声が聞こえた気がした。
そうだな。縁があればきっと会えるな。
岡本は柴原の声に同調した。
特急列車はディーゼルエンジンの音を鳴らしながら走り続ける。すっかり夜の帳が下りた北海道を駆け抜ける。
(いつかこの列車も、あのアプリで在線位置と遅れ情報が表示されるかもしれない)
そう思うと何となく嬉しくなった。縁があって知り合った男が作ったアプリが、自分が顔も名前も知らない人たちに使われて、JR北海道をさらに便利にしてくれるかもしれない。
(さあ帰ろう。今、俺の帰る土地は札幌ではない。青森だ)
列車は間もなく、南千歳に到着しようとしていた。岡本の帰路はまだまだ長い。弁当も食ったし、どれ一眠りするか。
揺れが心地良かった。柴原の声が聞こえた気がした。
じゃあね。
ああ。じゃあな柴原。元気でやれよ。
岡本は夢を見た。
ピアノしか取り柄のなかった柴原が世界一の美人になり、ウェディングドレスを着ている。タキシードを着た青木と一緒に歩いている。
いつかそうなってくれと願った。そうなることを信じている。
元気なんだろ、柴原?




