番外. 王様の心情・後
「先生、今日も素敵なお召し物ですね」
「幸田…またお前か」
幸田幸。
どこからどう見ても幸せになるために生まれてきたような名前の少女は、しかしこの世の不幸をまとめて受けたような経験をして生きてきた。
人間界に身を潜め、糧と自分の欲を得るため過ごしていた俺が出会った可哀想な子供。
吸血鬼で、殺しにも大した抵抗がなく、倫理観なんてもんが崩壊していた俺ですら、そいつには同情してしまった。
せっかく多くの感情を持った人間なくせして、それを表に一切出せない哀れな子供だ。
俺とは正反対そうに見えて、それでも同じものを求めていた。
「先生、好きです。大好きですよ?」
…正直、そう言われた時は自分でも驚くほど嬉しかった。
ただの気まぐれと同情と好奇心だけでかけた言葉を真に受け、そこから一気に明るくなった幸田。
ずっと吸血鬼の前では隠してきた感情を見せれば、そいつはその分返してくれた。
相当の変わり者で依存性で暴走気味。
それでも飽くことなく「好き」と、俺に伝え続けてくれた。
いつが境界線かは分からない。
ただ、気付けば幸田の近くに安らぎを感じる。
傍で微睡んでいたくなるような安心感。
こいつなら受け入れてくれるという信頼。
まさに俺が求めていたものが、そこにはあった。
…だが、だからこそ同時に駄目だと思う気持ちも強くなる。
変わり者ではあるが誰よりも人間らしくて、そしてやっと人間らしい絆を結ぼうとしている幸田。
どういう縁か、幸田の父親は俺たち吸血鬼と人間とのパイプ役をする公的機関の一員だった。
表立っては公務員だが、実際は秘密組織のような存在。
吸血鬼が人間達の世界へ出入りする入口で設置される機関だ。日本と欧州と南米にひとつずつある。俺達の名前もそれぞれの国に由来されていたりもする。
そんなことはどうでも良くて、とにかく俺はそんな接点から幸田の父親が幸田に歩み寄ろうとあちこち駆け回っていることも、母親が突然出来た大きな娘に戸惑ってるだけで近付くキッカケをずっと探していることも知っていた。
そして年の離れた妹が幸田と絆を繋ぎ始めたお陰で、やっと一歩踏み出そうとしていることも。
放っておけば幸田は人間として幸せになれる。
愛を得て、穏やかに過ごせるはずだ。
俺がそれを壊して、幸田を従属させて、主従関係を強制的に結ぶような真似は出来なかった。
「先生。大好き、好き」
幸田はそんな俺の葛藤を馬鹿にするように誘惑を続ける。
吸血鬼としての本能はもうずっと幸田を求め続けていた。
けれど必死に、人間世界に潜む“先生”として自制する。
幸田が家族を得て幸せになるのを見届けて適当に獲物でも狩ろうと、そう思っていた。
幸田を従属させ言いなりにさせてしまえば、意味がない。
自分の意思で俺を好きだと言ってくれる幸田のまま別れるのが一番良い。
そう律して抑えてきたのだ。
まさか当人にその抑えをズタズタに破壊されるとは思いもせず。
よりによって幸田が俺のもとに勝負をかけてきたのは、俺が月に一度来る吸血衝動の最中で。
とにかく血が欲しくて、欲しい奴の血なら尚更な時期だった。
「大好きです、先生」
言われ慣れた言葉でも、俺の正体をハッキリ見たあと笑顔で言われると、自分の中の気持ちがグラグラと揺らぐ。
抵抗を試みて、欲と必死に闘いながら爪をその首に当てて脅しもかけてみる。
あと少しで血が滴り落ちてきそうな程度に爪を食い込ませると、自然と血を求めて喉がなった。
獣丸出しの自分。
人間からすれば酷く恐ろしい光景だろう。
それでも幸田の顔は穏やかなまま変わらなくて。
上昇し続けた欲が破裂したのはすぐのことだった。
「分かった。お前を殺す」
そう言って、気付けば食らいついていた。
喉が驚くほど潤う。一度味わえば手放せるはずのない味。
その瞬間に俺の中にあった人間らしさなんてものは綺麗に消え去った。
鬼王の素質を持った者は、もしかすると皆そうなのかもしれない。人間の本質を理解するため感情を多く持つ。しかし獲物を定めた瞬間に、吸血鬼としての本能に染まる。…そういうものかもしれないと漠然と思った。
そうとしか思えないほど、その血を吸った瞬間にそれまで悩んだ様々なことがどうでもよくなったのだ。
かわりに芽生えたのは、征服欲。
幸田を得るためなら何を潰しても構わない。
俺だけのものとして、閉じ込め支配しておかなければいけない。
そんな欲だ。
幸田の父親すらも邪魔なら要らないと思う。
幸田が父親を心配することすら気にくわない。
俺のことだけ考え、俺に愛を囁き、俺のためだけに生かすべきだと、そういう結論にしか行き着かなかった。
「んー!ん、あ…」
早々に自分の領域に連れ帰り、自分の望むまま血を啜る。
全身くまなく血を吸い、意識を流し込み、自分以外考えられないよう洗脳する。
喘ぐような声しか出せない幸田に満足した。
きっとこいつは今俺のことしか考えられないはずだから。
「楓、さまぁ」
甘えた声で呼ばれると、もう堪らなくなる。
ドロドロに、溺れもがくほど甘やかしたくなる。それと同時に思い切り泣かせたくもなる。
幸田にとっては有り得ない現実ばかりだろう。
他者を様呼びさせられ、俺の意思の通りに体が動き、ベッドにひたすら縛り続けられるこの日常は。
それでもこいつは、笑みを絶やさない。
ほんのわずかに残った人間としての感情も、全て俺に預けてくれる。
「ご免な、幸田」
俺の中にもたまにほんの少しだけ、昔の人間らしい感情が蘇るときがある。
そんなとき出てきてしまうのは謝罪だった。
こんな風に意識すら縛り付け、自分だけのものにするつもりなどなかった。そんな思いに俺も縛られる。
しかし、それでも手放すことは出来ないのだ。もはやいなければ発狂するレベルまで落ちている。
「楓様、好きですよ?大好きだから大丈夫」
「…ああ、俺もだよ」
「えへへ、幸せ」
その度、こいつが拾い上げてくれる。
幸せだと笑ってくれる。
きっと自分の自分勝手な行動に後悔しながら救われる日々はずっと続くのだろう。
それでも。
「ほら、目閉じろ」
「ん」
「愛してる。ずっと一緒だぞ」
それでも、その温もりに触れる瞬間、唇を合わせる瞬間、俺はたまらなく幸せになる。
求めてきたものを得て、その傍で微睡んでいられる。
たくさんのものを奪って得た幸せだと分かっても、喜びは隠せない。
だからこそ、せめて俺も愛を伝え続けようと思う。
そうすればこいつは笑ってくれるから。
決意と共に、俺は愛しい存在を抱え込んで瞼を閉じた。