天城ホールディングス
高校生活が始まって二か月ほど経った頃、天城ホールディングス株式会社が正式に動き始めた。
東雲精機の株式をはじめ、今後取得する企業や事業への投資を管理するための会社であり、必要以上に大きな組織にはしなかった。設立そのものを目的にするのではなく、玲奈が増やしてきた事業を整理し、次の選択肢を増やすための器として作ったからだ。
東雲精機の社名も経営体制も変わらない。ネクサリンクへの出資についても、玲奈が経営権を握る形にはしない。それぞれの会社がそれぞれの仕事を続けながら、玲奈側の資本管理だけを整理する形にした。
必要な手続きは専門家へ任せ、玲奈自身は判断が必要な部分だけに参加した。
「思っていたより、あっさり終わりましたわね」
完成した書類を確認しながら玲奈が呟くと、美咲は隣でファイルを閉じた。
「専門家に任せられるところを任せたんだから、それでいいの。全部玲奈がやっていたら、学校へ行く時間までなくなるでしょう?」
「それは困りますわね。陽菜さんに怒られますもの」
玲奈は素直に頷き、自分の確認が必要な書類だけを鞄へ入れた。
以前なら、自分で理解できる仕事は可能な限り自分で処理しようとしていた。しかし会社が増え、人が増え、扱う金額まで大きくなれば、そのやり方には限界がある。
必要な人間へ仕事を任せ、それでも最後に自分が決めるべきことは手放さない。
天城ホールディングスは、そのための最初の形だった。
そして新しい器ができた頃、東雲精機から一つの計画が持ち込まれた。
家庭用コードレス掃除機。
東雲精機が産業機器やロボット向けに磨いてきた小型高性能モーターを、一般消費者向けの商品へ転用する計画だった。
バッテリーについては、北辰電池との共同開発で得た経験と取引関係がある。制御については相馬電子技研へ相談でき、筐体設計や量産組立は外部企業と組むことで補える。
以前なら、一社で持っていない技術がある時点で止まっていたかもしれない。
今は違った。
自分たちが持っていないものは、持っている会社と組めばいい。
企画を聞いた玲奈は、市場規模、想定価格、開発費、初回生産数、失敗した場合の損失を確認した。
家庭用家電は東雲精機にとって未知の市場であり、大手メーカーとの競争もある。だからこそ最初から大規模な設備投資をせず、既存の生産能力と外部企業を使いながら、小さく市場へ出す方針を選んだ。
「作れるから作る、では困りますわ。売れなかった場合に、東雲精機の本業まで傷つけない範囲で始めてくださいませ」
玲奈の言葉を受け、開発計画はさらに現実的な規模へ調整された。
そこから数か月。
玲奈は開発現場へ張りつかなかった。
東雲精機にも責任者がいる。
共同開発先にも専門家がいる。
試作のたびに玲奈が触って判断するのであれば、会社が大きくなった意味がない。
玲奈のもとへ届くのは、開発費や量産準備、販売計画について判断が必要な報告が中心になった。
その間も玲奈は高校へ通い、陽菜と過ごし、セレスティアとして配信を続けていた。
そして秋が近づいた頃、東雲精機から製品化完了の報告が届いた。
商品名は《Aster One》。
小型高回転モーターと専用バッテリーパックを強みにした、家庭用コードレス掃除機だった。
玲奈が確認したのは、最終的な原価、販売価格、初回生産数、販売経路、保証体制、広告予算だった。
製品そのものは見ていない。
完成品を使ってみようとも思わなかった。
そこまで玲奈自身が確認しなければ商品を発売できない会社にするつもりはなかったからだ。
「予定通り発売準備へ進めてくださいませ。販売後の返品率と評価、それから問い合わせ内容は必ず集計してください」
それだけ伝えると、玲奈は次の仕事へ移った。
一方、販売を担当するチームでは知名度の低さが問題になっていた。
東雲精機の名前は産業機器の世界では知られていても、一般家庭で家電ブランドとして認識されているわけではない。
そこで広告、家電系メディアへの試用品提供、動画投稿者への案件依頼を組み合わせることになった。
候補者を選ぶ会議の中で、一人の担当者がVTuberを挙げた。
家電専門ではない。
それでも登録者は二百万人を超え、企業案件でも商品をただ褒めるのではなく、実際に使った感想を自分の言葉で話すことで知られている。
「悪いところまで言われませんか?」
別の担当者が懸念を示すと、提案した社員は少し考えてから頷いた。
「言われる可能性はあります。ただ、こちらから良いことだけを言わせたら、セレスティアを起用する意味がありません。実際に使って評価してもらった方が、視聴者にも信用してもらえると思います」
議論の末、セレスティアを含む複数の配信者へ案件依頼を送ることが決まった。
その会議に玲奈はいなかった。
宣伝担当者が誰を起用するかまで、玲奈が決める必要はない。
数日後。
玲奈は自室でセレスティア宛ての仕事用メールを確認していた。
企業案件の依頼を順番に見ている途中、一通のメールで指が止まる。
「……あら?」
新発売のコードレス掃除機を、配信で実際に使用して紹介してほしいという依頼だった。
報酬や配信条件に目を通し、玲奈の表情が少しずつ変わっていく。
使用した上で、率直な感想を伝えて構わない。
良い点だけを紹介する必要もない。
かなり自由度の高い条件だった。
そして最後に、玲奈は依頼元を確認した。
「……わたくしのところですわね」
少し前に製品化完了の報告だけ受けた《Aster One》だった。
玲奈はすぐに直人へ連絡し、案件資料を共有した。
資料を開いた直人は、しばらく黙ったあと笑い出した。
「自分の会社から案件が来るVTuber、初めて見た」
「わたくしも初めて経験いたしましたわ」
「これ、担当者は気づいてないんだよな?」
「気づいておりましたら、わざわざこのような依頼は送ってこないでしょうね」
玲奈は改めて条件を読み返した。
率直な感想を求める。
それなら、玲奈が経営側の人間であることを理由に評価を甘くする方が、依頼の趣旨に反する。
「受けるの?」
直人が尋ねる声には、すでに面白がっている気配が混じっていた。
玲奈は迷わず案件の受諾画面を開く。
「もちろんですわ。せっかくわたくしを選んでくださったのですから、きちんとお仕事をいたしましょう」
数日後、案件用の商品が届いた。
大きな段ボール箱を直人と一緒に確認し、玲奈は伝票だけを見て部屋の隅へ置いた。
「開けないの?」
「配信で初めて使うのでしょう?」
「事前確認くらい普通するけど」
「動作確認は直人さんにお願いいたします。わたくしは触りませんわ」
「なんでそこまで徹底するんだよ」
「初めて使った感想をお求めなのでしょう? でしたら、本当に初めて使った方が面白いではございませんの」
直人は少し考えたあと、箱を別室へ運んだ。
玲奈は完成した《Aster One》へ、まだ一度も触れていない。
重さも知らない。
使い心地も知らない。
知っているのは、経営側へ報告された数字だけだった。
そして案件配信当日。
セレスティアの前に、未開封に見える状態へ戻された《Aster One》の箱が置かれた。
『ごきげんよう、皆様。本日は企業様から、少々珍しいものをいただいておりますの』
コメント欄が動き始める。
玲奈は箱へ手をかけた。
『コードレス掃除機だそうですわ。わたくし、こういうものを配信で紹介するのは初めてですので、少々楽しみにしておりました』
テープを切り、箱を開く。
完成した製品を目にするのも、持ち上げるのも、これが初めてだった。
玲奈は本体へ手を伸ばした。




