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悪役令嬢、現代日本に転生する~処刑された元公爵令嬢は、今度こそ自分の才能を自分のために使います~  作者: にゅん


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人生最初の契約

 六歳になった天城玲奈が父親と二人で初めて競馬場を訪れた日、最初に彼女を驚かせたのは競走馬ではなく、入口へ向かって流れていく人間の多さだった。


 休日ということもあって、駅から競馬場へ続く道には大勢の人々が歩いている。家族連れもいれば友人同士らしい若者もおり、新聞を片手に一人で歩く男性の姿も珍しくなかった。


 前世でも王都で開催される祭典や武術大会には多くの民衆が集まったが、これほど大量の人間が整然と同じ場所へ向かっている光景には、また違った迫力があった。


 玲奈は修一の手を握りながら周囲を観察していたが、隣を歩いていた父親は何度も娘の様子を確認し、いつも以上に周囲へ気を配っていた。


「玲奈、人が多いから父さんの手を絶対に離しちゃ駄目だからな」


「分かっておりますから、お父さんこそ前ばかり見ていて転ばないでくださいね」


「六歳の娘から心配されるほど、父さんは頼りなく見えてるのか?」


「先ほどから競馬新聞ばかり見ながら歩いていらっしゃいますので、少なくとも今は少々心配です」


 玲奈が真顔で答えると、修一は気まずそうに競馬新聞を折り畳み、それを持っていた鞄の中へ素直にしまった。


「……美咲には、歩きながら新聞見てたことは黙っていてくれないか?」


「お母さんに知られて困ることなら、最初からなさらない方がよろしいと思います」


「玲奈がどんどん母さんに似てきて、父さんは少し悲しいぞ」


 そんな会話をしながら入口を通り抜けた瞬間、玲奈は先ほどまで父親へ向けていた呆れた視線を完全に忘れた。


 目の前に広がっていたのは、玲奈が想像していたものより遥かに大きく、そして美しく整備された競馬場だった。


 巨大な観客席の向こうには緑色の芝が広がり、遠くには競走馬が走るためのコースが見える。施設内には飲食店や売店も並び、子供を連れた家族が楽しそうに歩いていた。


 前世で馬の競走を見た経験はある。しかし、それは貴族たちが所有する馬を競わせたり、騎士たちが馬術を競ったりするものであり、これほど巨大な施設を馬の競走だけのために整備する発想はなかった。


「……随分と立派な場所なのですね。もっと簡素な施設を想像しておりました」


「父さんも最初に来たときは驚いたよ。今日は馬を見るだけでも結構楽しめると思うぞ」


「それは楽しみです。できれば、走っているところだけでなく近くでも見てみたいです」


「それなら最初にパドックへ行こう。レース前の馬を近くで見られるからな」


 修一に連れられて移動した玲奈は、パドックを囲む人々の隙間から最初の競走馬を目にした瞬間、無意識に父親の手を少し強く握った。


 美しかった。前世でも高価な馬を何頭も見てきた玲奈だったが、目の前を歩いている競走馬の身体は、自分が知っている馬とは明らかに違っていた。


 余分なものを削ぎ落としたような身体に、走るための筋肉が滑らかについている。脚は驚くほど細く見えるのに、その歩みには全身から伝わってくる力強さがあった。


 玲奈が前世で主に見てきたのは、騎乗や馬車、軍務などに利用される馬だった。速さも重要ではあったが、それ以上に丈夫さや扱いやすさ、長時間活動できる体力が求められていた。


 対して目の前の馬たちは、明らかに速く走ることへ特化している。人間が何世代にもわたって選び続けた結果なのだろうと、玲奈はすぐに理解した。


「お父さん、この馬たちは皆、競走するために育てられているのですよね?」


「ああ、サラブレッドっていう競走用の品種だな。血統もかなり重視されるぞ」


「やはりそうなのですね。身体の作りが、わたしの知っている馬とはかなり違います」


「玲奈の知ってる馬って、動物園とか牧場で見た馬のことか?」


 修一から尋ねられ、玲奈は一瞬だけ言葉に詰まった。前世で公爵家の馬を選んでいたなどと言えるはずもなく、少し考えてから曖昧に笑った。


「本や映像でも見ておりますから、それと比べて少し違うと思っただけです」


「なるほどな。それにしても、本当に馬が好きになったんだなあ」


 修一は嬉しそうだったので、玲奈もそれ以上説明せず、再びパドックを歩く競走馬へ意識を戻した。


 そこで玲奈は、同じ競走馬という括りの中でも、一頭一頭の状態が想像以上に違っていることへ気づいた。


 落ち着いて一定の歩調を保っている馬もいれば、首を頻繁に動かして周囲を気にしている馬もいる。身体に薄く汗を浮かべている馬もいれば、毛艶が良く、全身から力が満ちているように見える馬もいた。


 前世の経験から判断できる部分は確かにある。しかし、それだけで競走の結果まで予測できるなどとは、玲奈自身も考えていなかった。


 競走馬としての能力も知らなければ、走る距離への適性も知らない。騎手の技量や当日の馬場状態がどれほど影響するのかも、まだ知識として学び始めたばかりだった。


 だから玲奈は、自分一人で結論を出そうとはしなかった。


「お父さん、次のレースではどの馬が強いと考えていらっしゃるのですか?」


「父さんは今のところ四番かな。前走も悪くなかったし、この距離でも何回か好走してるんだよ」


 修一は競馬新聞を広げ、玲奈にも見えるように少し低い位置まで下げてくれた。


 玲奈はそこに記載された過去の成績と、目の前を歩いている四番の競走馬を交互に確認した。


 確かに数字だけを見れば悪くない。過去にも同程度の距離で上位へ入っており、今回の出走馬の中でも実績は上位だった。


 しかし、玲奈には少しだけ気になる部分があった。


「四番の馬ですが、今日はあまり良くないかもしれません」


「えっ、昨日から四番を本命にしようと思ってたんだけどな。どこか変なのか?」


「歩き方そのものがおかしいわけではありません。ただ、少し落ち着きがありませんし、身体にも余計な力が入っているように見えます」


 修一も改めて四番を見るが、玲奈が何を見ているのかまでは分からないらしく、難しい表情で首を傾げている。


「父さんには普通に歩いてるようにしか見えないんだけどなあ」


「わたしも競走馬については詳しくありませんので、間違っている可能性は十分にあります」


「そこは急に慎重になるんだな。じゃあ玲奈なら、どの馬が良さそうに見える?」


 尋ねられた玲奈は、すぐには答えなかった。目の前を一周していく馬を改めて観察し、今度は父親から借りた新聞の情報とも照らし合わせる。


 やがて玲奈の視線が、一頭の馬で止まった。


「状態だけで選ぶのでしたら、七番の馬が一番良く見えます」


「七番かあ。でも、この馬はそんなに人気ないぞ。前走も五着だしな」


「前回は、今日より長い距離を走っておりますよね。それ以前の短い距離では成績が良いように見えます」


「……本当に五歳まで普通に幼稚園児やってたんだよな?」


「六歳になったばかりですが、その質問にはどういう意味がありますの?」


「いや、なんでもない。父さんがちょっと自信なくしてるだけだから」


 玲奈は首を傾げたが、修一は新聞へ視線を戻して真剣に考え始めた。


 玲奈の観察では七番の状態が良い。しかし競馬について長く見てきた修一には、過去の成績や騎手、距離などについて玲奈より多くの知識がある。


 しばらく考えた末、修一は四番だけに絞る予定だった買い方を変更し、七番も含めて自分の判断で馬券を購入した。


「玲奈の予想に全部乗っかるのは父親として情けないから、最後は父さんが決めたぞ」


「当然です。購入するのはお父さんなのですから、最終的に決めるのもお父さんでしょう」


「そういうところだけ妙に大人びてるんだよなあ」


 玲奈自身は馬券を購入しない。それどころか、購入する場所へ行く必要もないため、修一が手続きをしている間は決められた場所で待っていた。


 そして二人は観客席へ移動し、玲奈にとって初めてとなる競馬場でのレースを迎えた。


 ゲートへ競走馬が入っていく光景を見ながら、玲奈の胸は自分でも驚くほど高鳴っていた。


 前世では馬術競技を見ても、ここまで緊張した記憶はない。自分の判断が少しだけ結果に関わっていると思うと、見え方まで変わってくるらしい。


 やがて全ての馬が収まり、場内に緊張した空気が流れた直後、競走馬たちが一斉に飛び出した。


「……速いです! 思っていたより遥かに速いです!」


「そりゃ競走馬だからな! 玲奈、七番は真ん中あたりだぞ!」


 修一も興奮しているため、普段より声が大きい。玲奈も周囲の歓声に負けないよう、走っていく馬を目で追った。


 最初は中団にいた七番が、最後の直線へ入ってから少しずつ前との差を詰め始める。


 玲奈が状態の悪さを指摘した四番は前方にいたが、残り距離が短くなるにつれて勢いを失っていった。


「七番が上がってきた! 玲奈、本当に来てるぞ!」


「まだです! 前に二頭おりますから、最後まで分かりません!」


 玲奈自身も完全に夢中になっていた。上品に観戦するなどという発想はすでになく、父親と並んで懸命に七番を目で追っている。


 最後の数十メートルで七番がさらに伸び、一頭を抜き去ったところでゴール板を通過した。


 一着には届かなかった。しかし二着には入っている。


「二着だ! 玲奈、七番二着だぞ!」


「見えております! それより、お父さんの馬券はどうなったのですか?」


「大丈夫だ。七番が二着までなら当たる買い方もしてある!」


 修一は興奮しながら馬券を確認し、本当に的中していることが分かると、子供のように嬉しそうな顔になった。


 玲奈も嬉しかった。しかし、自分の観察だけで勝ったなどとは思っていない。


 七番が勝てなかったことも事実であり、修一が過去の成績や距離を確認したうえで買い方を決めたからこそ、利益になった。


 それでも、自分の判断が役に立ったことだけは間違いなかった。


「玲奈のおかげで当たったし、今日は帰りに何か好きなもの買ってやるよ」


「わたしのおかげだけではありません。最終的に買い方を決めたのはお父さんでしょう?」


「でも七番を候補に入れたのは玲奈だろ。父さん一人なら買ってなかったからな」


 修一はそう言うと、払戻金を確認しながら機嫌よく笑っている。


 玲奈はその横顔を見つめながら、少しだけ考えた。


 好きなものを買ってもらえる。それは嬉しい申し出ではある。


 しかし、それでは今までと同じだった。


 玲奈が何かを欲しいと言い、父親が自分のお金で買ってくれる。


 今日の自分は、父親が持っていなかった情報を提供した。そして、その情報によって父親は利益を得た。


 もちろん一度だけなら偶然かもしれない。次も同じように当たる保証など、どこにも存在しない。


 それでも、もし自分が継続して価値のある情報を提供できるのなら、その価値に対して報酬を受け取ることはできないだろうか。


 前世なら、そのようなことは考えなかった。


 公爵家のために自分の知識を使うことは当然であり、父から相談されて領地の問題を解決しても、個人的な報酬を求めようなどとは思わなかった。


 だが今は違う。


 自分の才能を、自分のために使うと決めたのだ。


 玲奈は修一の服の袖を軽く引き、父親がこちらを向くのを待ってから口を開いた。


「お父さん、欲しいものを買っていただく代わりに、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんいいぞ。今日は父さんも勝ったし、あんまり高いものじゃなければ何でも言ってみろ」


「では、お父様。わたくしと一つ、契約を結びませんこと?」


 玲奈の口調が一瞬だけ前世のものへ戻り、修一は何を言われたのか理解できないような顔で娘を見つめた。


「……玲奈さん、父さんは今、六歳の娘から契約って言われた気がするんだけど」


「はい、その認識で間違っておりません。今後も競馬場へ連れてきていただけるのでしょう?」


「まあ、玲奈が来たいなら連れてくるつもりではいるけど、それと契約に何の関係があるんだ?」


 玲奈は今日の出来事を頭の中で整理しながら、自分が考えた条件を父親へ説明した。


「わたしは馬を見て、状態が良いと思う馬や、逆に気になる馬についてお父さんへお伝えします」


「今日みたいに、パドックで馬を見て教えてくれるってことだよな?」


「はい。ただし、どの馬券を買うのかはお父さんが決めてください。わたしは競馬について知らないことが多いですし、外れることも当然あると思います」


「そこは分かってるけど、玲奈は何をもらうんだ?」


 ようやく本題へ辿り着き、玲奈は少しだけ楽しそうに笑った。


「わたしの情報を参考にして利益が出た場合、その利益の半分を情報料としていただきたいのです」


「……半分って、五十パーセントのことだよな?」


「他にどのような半分がございますの?」


「六歳児から利益の五十パーセント要求される父親の気持ちも考えてくれないか?」


 修一が何とも言えない顔になったため、玲奈は少しだけ首を傾げた。


「高いとお考えでしたら、交渉には応じます。ただし、わたしの情報を利用しなければ利益は全てお父さんのものです」


「いや、条件だけ聞くと妙にちゃんとしてるんだよな。ちなみに外れた場合はどうするんだ?」


「購入するかどうかを決めるのはお父さんですから、損失もお父さんのものではありませんか?」


「利益は半分取るのに、損失は父さんが全部持つのか!?」


「情報提供者が、お父さんの投資損失まで補填する必要がございますの?」


「言ってることは分かるんだけど、六歳の娘に言われると納得したくない!」


 修一は頭を抱えたが、玲奈は至って真面目だった。


 玲奈は馬券を買わない。購入資金も出さず、何を買うのかを決める権利も修一に残す。


 その代わり、自分の観察が利益につながったと修一が判断した場合、その利益の一部を情報の対価として受け取る。


 玲奈としては、かなり分かりやすい条件にしたつもりだった。


「それに、お父さんが損をしたときにわたしまで支払う契約でしたら、そもそも今のわたしには契約を履行できません」


「そういう現実的なことまで考えてるのが怖いんだよなあ……」


「でしたら、契約なさらなくても構いません。その場合でも一緒に馬を見るくらいなら喜んでいたします」


 玲奈があっさり引いたことで、逆に修一が考え込んだ。


 やがて父親は大きく息を吐き、娘へ右手を差し出した。


「分かった。ただし条件が一つある。競馬は父さんと玲奈が一緒に楽しむ趣味だから、金のためだけにはしないこと」


 玲奈は少し驚いてから、父親の言葉について真剣に考えた。


 金銭を得たいという気持ちは確かにある。


 しかし、今日一日を振り返れば、最も楽しかったのは払戻金の話ではなかった。


 初めて競走馬を間近で見たことも、知らない競馬の仕組みを父から教わったことも、二人で同じ馬を応援したことも楽しかった。


 ならば、その条件に異論はなかった。


「承知いたしました。わたしも、お父さんと競馬を見ること自体を楽しみたいと思っております」


「よし。それなら今日から契約成立ってことでいいな」


「はい。今後ともよろしくお願いいたします、お父さん」


 玲奈は差し出された大きな手を、自分の小さな手でしっかり握った。


 正式な契約書もなければ、弁護士も立会人もいない。父と六歳の娘が競馬場で交わした、ただの口約束でしかなかった。


 それでも玲奈にとっては、前世から数えても初めて、自分自身のために結んだ契約だった。


 その後も二人は何レースか観戦したが、玲奈の見立てが全て当たったわけではなかった。


 状態が良いと判断した馬が途中で伸びなかったこともあれば、あまり目立たないと思っていた馬が鮮やかに勝つこともあった。


 そのたびに玲奈は、競馬が馬の状態だけで決まるほど単純なものではないことを理解していった。


 騎手の判断によって位置取りは変わり、前を走る馬が多ければ展開も変化する。馬場の状態や枠順など、自分がまだ理解していない要素も結果へ影響している。


 だから面白かった。


 自分には馬を見る経験がある。しかし、それだけでは足りない。


 修一には競馬の知識と過去のデータがある。それでも、修一にも馬の細かな状態までは判断できない。


 二人の知識を組み合わせれば、一人で考えるより多くのものが見えてくる。


 その日の帰り道、玲奈は電車の座席で今日の結果を書いた小さなノートを開いていた。


「玲奈、帰りまで勉強するのか? 今日はもう遊んでただけでいいだろ」


「勉強ではありません。今日わたしが見たことと、実際の結果がどこで違ったのか確認しているだけです」


「父さんには、それを勉強って呼んでるようにしか見えないんだけどな」


「わたしが楽しくてやっておりますので、少なくとも嫌々やらされる勉強ではありません」


 玲奈はそう答えながら、七番の馬について自分が感じた特徴を書き残した。


 この記録が増えれば、現代の競走馬についてもっと理解できるようになる。


 そうなれば、自分の観察にも少しずつ精度が加わっていくはずだった。


 そして自宅へ戻ると、修一は美咲へ今日の出来事を楽しそうに話し始めた。


「聞いてくれよ美咲。玲奈が見つけた馬が二着に来たんだよ!」


「へえ、本当に玲奈ちゃん馬を見るの得意なのかもしれないね」


「それでさ、玲奈と契約することになった」


「……今、なんて言ったの?」


 美咲の笑顔が止まり、修一も自分が余計なことを口にしたと気づいたらしい。


「いや、その、契約って言っても遊びの延長みたいなもので……」


「修一、六歳の娘と競馬で何の契約を結んだの?」


 美咲の声は穏やかだったが、修一の額には分かりやすく汗が浮かんでいた。


 玲奈は二人の間へ入り、今日決めた条件を最初から説明することにした。


 自分は馬券を購入しないことも、購入資金を出さないことも、最終的な判断は修一が行うことも説明する。


 そして利益が出た場合に限り、その半分を自分の情報に対する報酬として受け取ることも伝えた。


 全て聞き終えた美咲は、しばらく無言で夫と娘を交互に見ていた。


「……玲奈ちゃんが馬券を買うわけじゃないのね?」


「はい。わたし自身が購入するつもりはありませんし、購入できないことも理解しております」


「修一が自分のお金で買って、自分で最後に決めるのね?」


「もちろんです。外れた場合についても、わたしが損失を負担する約束はしておりません」


「そこだけ聞くと、玲奈ちゃんの方がしっかりしてるのが困るのよね……」


 美咲は額へ手を当てたあと、今度は修一へ厳しい視線を向けた。


「あなた、玲奈ちゃんが何を言っても無茶な買い方は絶対しないでよ?」


「分かってるよ。いつもの趣味の範囲から増やしたりしないって」


「玲奈ちゃんを理由に賭ける金額を増やしたら、その時点で競馬場は禁止だからね」


「はい、分かりました!」


「どうしてお父さんが子供のように怒られているのでしょう……」


「玲奈ちゃんも半分共犯だからね?」


「わたしまで含まれるのですか?」


 思わず玲奈が聞き返すと、美咲は呆れながらも最後には笑っていた。


 こうして天城家には、少し変わった親子の約束が一つ増えた。


 それから玲奈は、修一と競馬を見るたびに馬の状態を観察し、自分の見立てと実際の結果を記録するようになった。


 当然ながら外れることも多かった。それでも数ヶ月が過ぎる頃には、どの特徴が競走馬の調子と結びつきやすいのか、少しずつ理解できるようになっていた。


 修一も玲奈の言葉だけで判断するのではなく、自分が調べた成績や距離適性、騎手、当日の条件と組み合わせて考えるようになった。


 親子二人で相談しても負ける日は普通にあったし、玲奈が自信を持って勧めた馬が期待外れに終わる日もあった。


 それでも長い目で見れば、修一一人で予想していた頃より結果は少しずつ良くなっていった。


 そして玲奈の手元には、契約に基づいて受け取った小さな報酬が少しずつ積み上がっていった。


 最初に受け取った金額は、玲奈が前世で扱っていた公爵領の予算と比べれば、笑ってしまうほど小さなものだった。


 それでも、その紙幣を自分の手で受け取った日の感覚だけは、前世で見たどんな金貨より鮮明に覚えている。


 父から与えられた小遣いではない。誕生日にもらったお金でもなく、公爵令嬢として当然のように用意された財産でもない。


 自分が持っている知識と観察力に、初めて誰かが価値を認め、その対価として渡してくれたお金だった。


 玲奈は自室へ戻ると、そのお金を机の上へ置き、しばらく黙って眺めていた。


 処刑台で最後に聞いた言葉が、ふと頭の中へ蘇ってくる。


 あの女は、自分ほど優秀な人間が一度も自分のために力を使わなかったことを、馬鹿なことだと言った。


 今なら、ほんの少しだけ分かる気がする。


 自分の力を自分のために使い、その結果として何かを手に入れることは、想像していたよりずっと楽しかった。


 玲奈は机の上の小さな報酬を丁寧にしまうと、以前から決めていた目標を思い浮かべた。


 自分専用のパソコンを、自分自身の力で稼いだお金で買う。


 まだ必要な金額には届かない。それでも、最初の一歩は確かに踏み出した。


 六歳の天城玲奈が人生で初めて稼いだお金は、やがて彼女を現代日本のさらに巨大な世界へ連れていくことになる。


 その先に、自分が世界中の人間へ言葉を届けるような未来が待っているなど、このときの玲奈には想像することさえできなかった。

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