この会社が欲しいですわ
東雲精機の財務資料を確認した翌朝、玲奈は自室の机に向かい、前日の数字をもう一度最初から見直していた。昨夜は確かに「この会社を経営してみたい」と思ったが、その感情だけを理由に五十人の生活へ関わる決断をするほど、自分の判断を信用してはいなかった。
欲しいと思うことと、買ってよいことは違う。
その区別だけは、最後まで崩してはいけないと考えていた。
ノートには東雲精機の強みと問題点が並んでいる。小型モーターの技術、少量生産への対応力、細かな仕様変更へ応えられる現場。その一方で、価格転嫁の遅れ、大口顧客への依存、設備更新、技能継承、案件ごとの採算管理という問題も抱えている。
数字だけを見れば、完璧な会社ではない。
むしろ手を入れなければならない部分は多かった。
それでも玲奈が興味を失わなかったのは、問題の中心が「売れるものを作れないこと」ではなかったからだ。東雲精機には価値のある技術が残っており、その価値を正しい価格と市場へ繋げる仕組みが弱いように見えている。
ならば、その仕組みを変えればどうなるのか。
価格を見直す。
案件ごとの採算を可視化する。
必要な設備を優先して更新する。
熟練者の技術を記録し、若手へ移す。
大口顧客一社への依存を下げ、新しい用途と顧客を探す。
玲奈は一つずつ頭の中で組み立てながら、それでも最後の一線を越えなかった。自分には経営や交渉について前世からの経験があるが、現代の製造業については知らないことの方が遥かに多い。
だからこそ、自分以外の評価が必要だった。
午前十時を少し過ぎた頃、直人から連絡が入った。
『東雲精機の件、追加でもらった技術資料見たぞ』
玲奈はすぐに通話へ切り替えた。
「いかがでした?」
『結論急かすな。先に言っとくけど、俺はモーター専門の技術者じゃないからな。資料と公開情報、それから工場で見た範囲での評価だ』
「承知しております。その条件で構いません」
直人は前置きをしたうえで、東雲精機について調べた内容を説明し始めた。
特別な新原理を発明している会社ではない。
世界で東雲精機だけが作れる製品があるわけでもない。
大手メーカーが本気で同じ分野へ人員と資金を投入すれば、技術的に絶対追いつけないような会社でもなかった。
玲奈はその説明を聞きながら、むしろ少し安心していた。
「良かったです」
『何がだよ。普通そこは残念がるところじゃないのか?』
「世界で唯一の奇跡の技術などと言われる方が、わたしは警戒いたします。そんな都合の良い会社が、突然目の前へ現れるとは思っておりませんもの」
『……その辺は妙に冷静なんだよな、お前』
「では、東雲精機の技術には価値がないのですか?」
『いや。そこが面白いところなんだよ』
直人の声が少し変わった。
東雲精機の強みは、単独の特許や一つの突出した製品ではないという。
顧客から求められた条件に合わせ、既存の技術を組み合わせながら小型モーターを調整する能力。大量生産するほど需要がない案件でも対応し、発熱や大きさ、回転特性などの条件を詰めていく現場の経験が蓄積されている。
『大手からしたら、数が少なすぎて面倒な案件ってあるだろ。東雲はそういう仕事を拾える。しかも、ただ作れますってだけじゃなくて、客と話しながら調整できる人間がいる』
「つまり、技術だけではなく経験そのものが強みなのですね」
『そう。ただし問題もある。人に依存してる部分が大きい。あの工場でも見ただろ? ベテランが抜けたら、そのまま消えるノウハウがかなりあると思う』
玲奈も同じ部分を問題として記録していた。
「ならば、技術を記録する必要がございますね」
『言うほど簡単じゃないぞ。職人が感覚でやってるものって、本人も説明できない場合あるからな』
「でしたら、実際の作業と結果を記録して、少しずつ言葉や数値へ変えるしかないでしょう。時間がかかることを、できない理由にはしたくありません」
『まあ、それができれば会社の価値は上がると思う』
玲奈はその言葉を聞き、ノートへ書き込んだ。
直人の評価は、玲奈が期待していたような「素晴らしい会社だから絶対に買うべきだ」というものではなかった。それどころか、技術的な弱点も、他社に代替される可能性も、属人的な技能の危険性もはっきり指摘されている。
だからこそ信用できた。
「久世さんなら、この会社へお金を出します?」
『俺に聞くなよ』
「参考までにです」
『技術だけ見て会社買うならやめとけって言う。でも、お前が見せてきた数字と合わせて考えるなら……調べる価値はあると思う』
「十分です。ありがとうございます」
『だから勝手に買うなよ?』
「そのようなことはいたしません」
『今のお前に言われても安心できねえんだよなあ』
通話を終えたあと、玲奈は直人の評価をノートへまとめた。
世界唯一ではない。
代替不可能でもない。
しかし簡単に再現できるものでもない。
技術そのものだけではなく、顧客の要求へ応えるために積み重ねた経験と、それを実行できる人材に価値がある。
ならば、その人材を残すことが買収の前提になる。
玲奈はそこで、東雲隆一が最後に言っていた言葉を思い出した。
残したいものは、働いている人間。
玲奈自身も、今では同じように考えていた。
東雲精機から社員を取り除いて設備と特許だけを買ったところで、玲奈が興味を持った会社とは別物になってしまう。
昼食後、玲奈は美咲へ相談した。
「お母さん。橘さんから見た東雲精機についても、改めて聞いてみたいのですが」
「沙耶香ちゃんを完全に自分の担当者みたいに扱い始めてない?」
「まだいただいておりませんよ?」
「その言い方をやめなさい」
美咲に注意されながらも連絡を取ってもらい、その日の夕方には沙耶香と電話で話せることになった。
玲奈が尋ねたのは単純なことだった。
「橘さんから見て、東雲精機は危険な会社でしょうか?」
『随分ざっくり聞くね』
「細かな問題については昨日伺いました。今回は全体としての印象を知りたいのです」
沙耶香は少し考えてから答えた。
『今見せてもらってる資料の範囲なら、明日すぐ倒れる会社には見えない。ただ、このまま何もしなくても十年大丈夫です、とも私は言えないかな』
「理由は、やはり利益率と設備ですか?」
『それもある。大口取引先への依存もあるし、社長やベテラン社員に依存している部分も気になる。それに若い人を採用して育てるには、今の利益水準だと余裕が少ないと思う』
玲奈も同じように考えていた。
「では、改善できれば?」
『そこは銀行員みたいに簡単に「できます」とは言えないよ。値上げして顧客が残る保証はないし、新しい顧客が取れる保証もない。設備へお金を入れたから売上が増えるとも限らない』
「ええ」
『ただ、借金だけが積み上がって、商品も売れなくて、技術もなくなってる会社とは違う。少なくとも今の段階なら、何を直すべきか考える余地はあると思う』
玲奈は、その表現が気に入った。
何を直すべきか考える余地がある。
完成された会社ではない。
しかし壊れ切った会社でもない。
「橘さん。もう一つよろしいですか?」
『なに?』
「東雲精機を買ったあと、必要な設備投資や運転資金まで含めて考えた場合、わたしの現在の資産だけで全てを賄うべきでしょうか?」
『それはおすすめしない』
返事は早かった。
『というより、まず「いくらで買えるか」を出さないと何とも言えない。でも自分のお金をほとんど全部使って会社を買って、翌月から資金繰りに困るなんて最悪だからね』
「やはり、買収後の余力を残すべきなのですね」
『そう。玲奈ちゃんには配信や投資から入ってくるお金もあるみたいだけど、それと会社の資金は分けて考えた方がいい。実際に進めるなら、会社を持つための法人を作るのか、誰が株主になるのか、融資を使うのか、その辺りも専門家を入れて設計した方がいいよ』
玲奈はすぐにメモした。
ここから先は、企業分析だけではない。
どう所有するのか。
どう資金を用意するのか。
未成年である自分が、どのような形なら適切に会社へ関われるのか。
新しい問題が次々に増えていく。
それでも玲奈は、不思議と面倒だとは思わなかった。
「ありがとうございます。では、その段階へ進むかどうかを決めます」
『……その言い方、もうだいぶ決まってない?』
「まだ最終確認が残っております」
『何の?』
「わたし自身の意思です」
沙耶香は少し黙ったあと、笑った。
『それ、一番大事かもね』
電話を終えると、玲奈は一人で自室へ戻った。
机の上には東雲精機について調べ始めてから増え続けた資料とノートがある。
最初は一つの相談だった。
会社を継ぐべきか悩む高校生から届いた、父親の会社についての相談。
しかし、セレスティアとして預かったその相談と、天城玲奈として今ここで考えている企業買収は切り離している。
玲奈は相談者から非公開の情報を受け取って動いているわけではない。
天城玲奈として確認できる公開情報から企業を探し、自分の資金と時間を使って東雲精機を調べ、正式に会社の許可を得て工場と資料を見た。
ここから先の決断も、相談者のためにするものではなかった。
困っているから助けるのではない。
父親の会社を残してほしいと頼まれたからでもない。
東雲精機が欲しいのか。
その一点だけを、自分へ問い直す。
玲奈はノートを最初のページからめくっていった。
小型モーターの技術。
少量生産への対応力。
顧客ごとの細かな調整。
長く積み重ねられた現場の経験。
その下には、問題も大量に並んでいる。
価格転嫁の遅れ。
大口顧客への依存。
案件別採算の不透明さ。
設備の老朽化。
技能継承。
営業力。
海外販路。
そして、将来的な後継者の不在。
良い部分だけを見れば欲しくなる。
悪い部分だけを見れば怖くなる。
だから両方を見る。
そのうえで、玲奈は自分が何をしたいのか考えた。
価格を変えてみたい。
技術へ正しい値段を付けたい。
新しい顧客へ届けたい。
設備を更新し、若い社員が働き続けられる会社へ変えてみたい。
直人が面白いと言った技術を、今とは違う市場へ持っていけばどうなるのか確かめたい。
何より、自分の判断で会社の価値を高められるのか試してみたかった。
そのどれも、誰かから命じられたものではない。
前世の公爵家から与えられた義務でも、王太子の婚約者として果たすべき役割でもなかった。
失敗すれば、自分の責任になる。
だから怖い。
同時に、それこそ玲奈が欲しかった自由でもあった。
自分で選び、自分で責任を負い、その結果を自分の人生として受け取る。
「……決まりましたわね」
玲奈は静かにノートを閉じた。
その日の夕食後、玲奈は修一と美咲へ、もう一度時間を取ってほしいと頼んだ。
二人とも何の話なのか察していたらしく、リビングのテーブルへ座った玲奈を真剣な表情で見ている。
「東雲精機のこと?」
「はい」
玲奈はこれまで調べた内容を、改めて両親へ説明した。
会社の良い部分だけではなく、問題も隠さなかった。
利益率が下がっていること。
価格転嫁が遅れていること。
大口顧客への依存が大きいこと。
設備更新へ相当な資金が必要になる可能性があること。
熟練社員が退職すれば、技術の一部が失われる危険があること。
そして、買収そのものにも当然大きな資金が必要になること。
修一は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「つまり、結構問題ある会社なんだな」
「はい。ございます」
「それでも買いたいのか?」
玲奈は父の質問に、すぐ頷いた。
「はい」
美咲が静かに尋ねる。
「相談を送ってきた子のためじゃなくて?」
「違います」
玲奈はそこだけは迷わなかった。
「相談者の方が何も送ってこなかったとしても、今の東雲精機を知ったわたしなら興味を持つと思います。もちろん、最初のきっかけになったことは否定いたしません。しかし、会社を引き継ぐ理由にはいたしません」
「困ってる会社だから助けたいわけでもない?」
「それも違います。助けるだけなら、会社を買う必要などございませんもの」
玲奈は少し考えてから、自分の気持ちを最も正確に表せる言葉を探した。
「わたしは、東雲精機には今より価値があると思っています。技術そのものだけではなく、それを扱える人と、積み重ねてきた経験も含めてです」
二人は黙って聞いている。
「ですが、その価値を十分にお金へ変えられていない。正しい価格を取れていない仕事があり、新しい顧客へ技術を届ける力も弱い。設備や人材へ投資する余裕まで失いつつあります」
玲奈はそこで一度言葉を切ったが、短い感情だけを独立させることはせず、そのまま自分の考えを最後まで続けた。
「それを変えたらどうなるのか、見てみたいのです。わたしの考えが正しいのか確かめたいですし、東雲精機の技術を今とは違う場所へ持っていけば、もっと大きな価値を生み出せると思っています」
「失敗するかもしれないぞ」
修一の声は優しかったが、冗談ではなかった。
「はい」
「玲奈のお金も、かなりなくなるかもしれない」
「はい」
「会社で働いてる人にも迷惑かけるかもしれない」
「それが一番怖いです」
玲奈は正直に答えた。
自分のお金を失うことより、そちらの方が怖かった。
「だからこそ、勢いでは買いません。価格も調べます。法律も確認します。資金も、買った後まで余裕が残る形を考えます。わたしに分からないことは、分かる方へお願いするつもりです」
美咲が玲奈をじっと見ていた。
「そこまでやって、条件が悪かったら?」
「買いません」
「東雲社長から断られたら?」
「諦めます」
「他の人がもっと良い条件を出したら?」
「条件だけで競うべきなのかも含めて考えます。会社は商品と違って、棚から取って先に会計した人のものになるわけではございませんから」
美咲は少しだけ笑った。
「ちゃんと考えてるのね」
「そのつもりです」
玲奈は両親の顔を順番に見た。
十四歳。
自分でも分かっている。
普通なら、会社を一つ買うことなど考えない年齢だ。
しかし、普通であることを理由に、自分が本当にやりたいことを諦めるつもりもなかった。
「お父さん、お母さん」
玲奈は背筋を伸ばした。
「わたし、東雲精機が欲しいですわ」
今度は迷いがなかった。
工場が欲しいのではない。
会社名だけでもない。
技術だけを抜き取るつもりもない。
そこで働く人間と、積み重ねられてきた経験と、まだ十分に使われていない可能性まで含めて、東雲精機という会社を自分の手で経営してみたい。
美咲はすぐには答えなかった。
修一も同じだった。
娘の希望を何でも叶えてやればいいという話ではない。
今回ばかりは、買うものの大きさが違う。
やがて修一が、ゆっくり口を開いた。
「じゃあ、次はどうするんだ?」
玲奈は少しだけ笑った。
「東雲社長に、会社を譲る意思が本当にあるのか確認します。そのうえで、正式に会社の価値を調べさせていただきます」
「それで値段を決めるの?」
「わたしたちだけでは決めません。専門家を入れます。それから、わたしが買える形を作れるのかも調べます」
美咲もそこで頷いた。
「だったら、ここから先はもっとちゃんとした人を入れましょう。沙耶香ちゃんだけに頼る話じゃなくなるわ」
「はい。お願いいたします」
玲奈は素直に頭を下げた。
欲しいという意思は決まった。
しかし、意思が決まったからこそ、ここから先は慎重に進めなければならない。
翌日。
美咲を通じて、東雲精機へ連絡を入れた。
工場を見せてもらい、財務資料も確認したうえで、天城玲奈として正式に事業承継の可能性を検討したい。
そのため、東雲精機側にも会社を第三者へ譲る意思があるのか、一度改めて話し合いたい。
送信する前に、玲奈は文章を何度も読み直した。
これは相談室ではない。
セレスティアでもない。
天城玲奈が、自分のために始める交渉だった。
返事が届いたのは、その日の夜だった。
東雲隆一からの文章は長くなかったが、意味は明確だった。
条件次第では、第三者への事業承継を正式に検討したい。
玲奈は画面を見つめながら、静かに息を吐いた。
ここまでは、会社を知るための時間だった。
そしてここから先は、東雲精機を本当に自分の会社にできるのかを確かめるための時間になる。
欲しいからといって、安く奪うつもりはない。
高く払いすぎて、買った直後から会社を苦しめるつもりもない。
東雲隆一にとっても、社員にとっても、そして玲奈自身にとっても納得できる条件を探さなければならない。
玲奈は東雲精機のノートを開き、新しいページの一番上へ、これから始める作業の目的を書いた。
東雲精機株式会社――企業価値の算定と、事業承継条件の検討。
その下には、まだ何も書かれていない。
会社を欲しいと思うことは、簡単だった。
その会社に正しい値段を付け、五十人を守りながら自分のものにすることが、玲奈にとって初めての本当の買収になる。




