会社はいくらですの?
十四歳の玲奈が《事業承継》という言葉を知ったのは、セレスティアの登録者数が百万人を突破して間もない頃だった。きっかけは、地方の中小企業が後継者不足によって廃業しているという記事である。
経営が苦しくなって閉じる会社なら玲奈にも理解できた。しかし記事で紹介されていた企業の中には、技術があり、商品を買ってくれる顧客がおり、従業員を抱えながら利益まで出している会社が含まれていた。
それでも経営者の高齢化や後継者不足によって、会社そのものを閉じる場合がある。玲奈には、その仕組みがどうにも不思議だった。
記事を読み終えても気になったため、関連する資料を次々と調べていく。すると《事業承継》だけではなく、《第三者承継》《株式譲渡》《事業譲渡》《M&A》といった、これまで詳しく調べたことのない言葉まで現れた。
「……会社というものは、血縁者でなくとも引き継げるのですね」
前世でも商会や工房が親から子へ引き継がれることはあったし、玲奈自身も公爵家の領地や財産が代々継承される世界で育っている。しかし現代の会社は、必ずしも経営者の子供だけが継ぐものではなかった。
子供が会社を継がず、社内にも適切な後継者がいない。それでも会社そのものに価値があれば、別の企業や第三者へ引き継いでもらう方法が存在するらしい。
玲奈はさらに調べ、その途中で一つの疑問を抱いた。
「ですが……会社というものは、いくらなのでしょう?」
株式市場へ上場している会社なら、株価と発行株式数から市場での評価をある程度確認できる。しかし記事で紹介されている会社の多くは、株式市場へ上場していない中小企業だった。
当然ながら、会社そのものに分かりやすい値札が付いているわけではない。それでも売買するのであれば、どこかで金額を決めなければならないはずだった。
玲奈は翌日の夕食後、美咲へ尋ねてみることにした。
「お母さん。会社はいくらで買えるのですか?」
食後のお茶を飲んでいた美咲の手が止まった。しばらく娘の顔を見つめたあと、何とも言えない表情でカップを置く。
「……玲奈ちゃん、百万人になったと思ったら、今度は何を調べてるの?」
「事業承継とM&Aです。まだ買いたい会社があるわけではございませんが、値段がどうやって決まるのか気になりまして」
「十四歳の娘から『会社はいくらで買えるの』って聞かれる家庭、あんまりないと思うんだけどなあ」
美咲は苦笑したものの、質問そのものを止めようとはしなかった。玲奈が興味を持った以上、中途半端な知識だけで理解したつもりになるより、知っている範囲で説明した方がいいと考えたらしい。
「簡単に言えば、会社によるわね。一律に決められるものじゃないし、売上が大きければ必ず高いというわけでもないの」
「では、どこを見るのです?」
「利益がどれくらい出ているか、現金や土地、設備をどれだけ持っているか、借金はいくらあるのか。それに、これからどれくらい利益を出せそうなのかも重要になるでしょうね」
玲奈はノートを開きながら聞いていた。その辺りまでは、十二歳で株式投資を始めてから学んできた企業分析と大きく変わらない。
しかし美咲の説明は、それだけでは終わらなかった。
「数字だけでは分からないものもあるわよ。特許だったり、ブランドだったり、長年付き合っている取引先だったり、その会社にしかできない技術だったりね。優秀な人が働いていること自体が大きな価値になる場合もあるでしょうし」
「なるほど。人材も会社の価値へ含まれるのですね」
「ただし、人は機械みたいに買ったら自動的についてくるものじゃないわよ。経営者が変わって嫌なら、辞めることだってできるんだから」
その一言で、玲奈のペンが止まった。
工場や機械であれば、購入したあともそこに残る。しかし人間は違う。会社を所有したからといって、そこで働く人間まで所有できるわけではない。
「では、会社を買ったとしても、重要な技術者が全員辞めてしまえば、想定していた価値そのものが失われる場合もあるのですね」
「そういうこと。取引先だって同じよ。前の社長だから付き合っていた会社が、新しい経営者になった途端に離れることだってあるでしょう?」
玲奈は少し考え、ノートへ新しい文章を書き込んだ。
会社は、単なる物ではない。人、技術、設備、顧客、信用、契約、資産、負債。それらが組み合わさって動いている。
書き終えてから読み返すと、会社を買うという行為が最初に想像していたより遥かに重く見えてきた。金を払って工場や商品を手に入れれば終わるという話ではない。
「良い部分だけを選んでいただくことはできませんの?」
「方法によっては事業の一部だけを譲ってもらうこともあるけど、それだって簡単じゃないわ。契約や取引先との関係もあるし、従業員をどうするのかも考えなきゃいけないから」
「会社を買うというより、動いている仕組みを引き継ぐと考えた方が近そうですね」
「私はその方が玲奈ちゃんには分かりやすいと思う」
その日の話をきっかけに、玲奈の企業研究へ新しい見方が加わった。
もし、この会社そのものを買うとしたら。
もちろん実際に買うつもりはない。あくまで勉強として、普段調べている企業を今までとは違う角度から見るための仮定だった。
最初に対象としたのは、自分が少額の株式を持っている上場企業だった。しかし会社全体の規模や市場での評価額を調べたところで、玲奈は早々に考えるのをやめた。
「これは……さすがに高すぎますわね」
セレスティアとして大きな収入を得られるようになったとはいえ、玲奈は一人の配信者にすぎない。世界的な巨大企業はもちろん、日本で広く知られた企業を丸ごと買えるほどの資産など持っていなかった。
そこで玲奈は、記事の中で見つけた非上場企業や、実際に事業承継先を探している小規模な会社について調べ始めた。
すると、玲奈が想像していたより遥かに幅広い事例が出てきた。
数百万円規模で譲渡された小さな事業もあれば、数千万円、数億円になる会社もある。さらに規模が大きくなれば当然それ以上になるため、「会社はいくらか」という最初の質問そのものが、あまり意味を持たないことも分かってきた。
会社によって、持っているものが違う。
稼ぐ力が違う。
抱えている借金も違えば、必要とされる設備も違う。
何より、売り手が何を残したいと思っているのかまで違っていた。
「……ですが、わたしでも届く規模の会社は存在するのですね」
それは玲奈にとって意外な発見だった。
会社を買うという言葉から、何十億円、何百億円という世界ばかりを想像していた。しかし世の中の会社全てが、テレビで名前を見るような巨大企業であるはずもない。
家族だけで経営している会社もある。十人ほどの工場もあれば、地域で長く続く店もあり、数十人の従業員を抱える製造業もある。
そうした会社にも所有者がいる。そして所有者が会社を手放したいと考え、条件が合えば、第三者が引き継ぐこともできる。
玲奈はそこで初めて、自分がこれまで積み上げてきた資金を思い浮かべた。
六歳で父と最初の契約を結び、七歳で自分のパソコンを買った。八歳から配信を始め、最初の百円を受け取り、その後は広告収入や企業案件などから少しずつ収益が増えていった。
もちろん必要な経費も税金もある。それでも玲奈は派手な浪費をほとんどせず、残った資金の一部を投資へ回しながら数年間積み上げてきた。
十四歳になった現在、その金額は自分でも驚くほど大きくなっている。
未成年である以上、大きな契約を実際に結ぶなら両親の協力が不可欠だろう。法務や税務についても専門家が必要であり、玲奈一人の知識だけで会社を買おうとするなど論外である。
しかし、純粋に金額だけを見れば完全に手が届かない会社ばかりではない。その事実は、玲奈にとってかなり新鮮だった。
数日後、玲奈は直人にもM&Aについて尋ねてみた。
「久世さん。会社を買った経験はございます?」
「あるように見えるか?」
「申し訳ありません。確かに見えませんね」
「聞いといて即答するなよ。少しくらい迷ってくれてもいいだろ」
直人が呆れた声を出し、玲奈は楽しそうに笑った。そのあとで最近調べている内容を説明すると、直人も技術者として興味を持ったらしく、いくつかの資料を一緒に見ることになった。
「利益が出ている会社でも、後継者がいないという理由だけで廃業する場合があるそうです。久世さんは、そういう会社を見たら何を確認します?」
「俺なら技術かな。特に製造業とかITなら、その会社にしかできないものがあるかどうかは気になる」
「売上や利益より先に技術を見るのですか?」
「数字は重要だろ。でも俺は経営や会計の専門家じゃないから、そこは分かる奴に見てもらう。逆に技術なら、資料を見たり現場を確認したりすれば多少は判断できる」
玲奈はその答えを気に入った。
何でも一人で判断する必要はない。技術を見るなら直人のような人間へ頼み、金なら美咲や会計の専門家へ聞き、法律なら弁護士へ相談する。
会社一つを正しく見るだけでも、多くの専門知識が必要になる。
「会社というものは、一人で買うものではないのですね」
「金を出す奴が一人でも、普通は専門家を使うだろ。外から見ただけじゃ分からないことも多いし、買ってから問題が見つかったら洒落にならん」
「例えば、どのような問題でしょう?」
「借金とか契約とか、特定の取引先に売上を頼りすぎてるとか。社長個人の信用だけで仕事を取ってる会社なら、社長が辞めた瞬間に客まで消えるかもしれないだろ」
玲奈は頷きながら、その内容も記録していった。
会社を買う前に、本当に説明された通りの会社なのか確認する必要がある。そのために財務や契約、事業内容などを詳しく調べる作業があり、《デューデリジェンス》という聞き慣れない言葉まで登場した。
「調べれば調べるほど、会社を買いたいという気持ちより、怖さの方が増してまいりますね」
「それくらいでいいんじゃないか? 簡単そうに見えるよりマシだろ」
「確かにその通りです。分からないものを分かったつもりになる方が危険ですものね」
その後も玲奈は、成功した買収だけではなく失敗した事例まで調べた。
想定していた利益が出なかった例もあれば、買収後に重要な社員が辞めた会社もある。企業文化が合わずに現場が混乱した例や、主要な取引先を失った例もあり、単純に安く買えば成功するような世界ではなかった。
特に玲奈が気になったのは、買収後に従業員が離れてしまった事例だった。
設備や建物だけなら、所有者が変わっても同じ場所に残る。
しかし人間は違う。
新しい経営者が信用できないと思えば辞めることができるし、長年培われた技術が特定の職人へ依存している会社なら、その一人が去っただけで大きな価値を失う場合もある。
そう考えたところで、玲奈は前世の記憶を思い出した。
「……領地経営と、少し似ていますわね」
公爵領も、土地だけを所有していたわけではない。
そこで農民が作物を育て、商人が物を運び、職人が商品を作り、役人が税や治安を管理していた。領主が判断を誤れば、帳簿上の数字だけではなく、実際に暮らしている人間の生活へ影響する。
だからこそセレスティアは、幼い頃から領地経営について徹底的に教育された。
ただし、今と決定的に違うことが一つある。
前世のセレスティアは、公爵家の娘として生まれた。
領地を管理することも、王太子妃として国政を学ぶことも、自分で望んで選んだ役割ではない。
生まれた瞬間から用意されていた道だった。
しかし天城玲奈には、会社を所有する義務などない。
経営者にならなくてもいい。
誰かから会社を引き継げと命令されているわけでもない。
だからこそ玲奈は、自分の中で一つだけ条件を決めた。
「もし、いつかわたしが会社を買うことがあるのでしたら……自分が本当に欲しいと思った会社だけにいたしましょう」
儲かりそうだからという理由だけでは足りない。
会社を所有しているという肩書きも必要ない。
自分がそこへ金を使い、責任まで引き受けたいと思える何かがあること。それが玲奈にとって最低限の条件だった。
そんな企業研究を続けていた週末、玲奈は十四歳の誕生日に頼んだ約束通り、修一と競馬場へ出かけた。
六歳の頃から何度も歩いた場所である。
今ではセレスティアとして百万人から知られている玲奈も、ここでは父親の隣で馬を眺める十四歳の娘にすぎない。
「玲奈、三番はどう思う?」
「悪くありません。ただ、今日は八番の方を上に見ます。歩様が安定しておりますし、前走映像と比べても落ち着いていますね。ただし、少し気になるところもございますので、絶対とは申しません」
「じゃあデータも見て決めるか。最終判断は俺っていう、いつもの契約通りな」
「ええ。外れたあとで、わたしのせいにはなさらないでくださいませ」
修一は笑いながらデータを確認し、最終的に八番を中心に馬券を買った。
結果は、玲奈が八番より評価を下げた三番が一着。八番は最後まで伸びきれず、四着でゴールした。
「……お父さん。今回は外してしまいましたね」
「まあ、こういう日もあるって。最終的に買ったのは俺なんだから、玲奈が謝る必要もないだろ」
「分かってはおります。ただ、三番も悪くないと思っていただけに、少々悔しいです」
「そのくらいがちょうどいいんじゃないか? 毎回当たったら競馬じゃなくなるしな」
修一は気楽に笑っていた。
玲奈も少し悔しさを残しながら、それ以上引きずることはしなかった。
どれほど調べても外れることはある。
知識を増やしても、未来が見えるようになるわけではない。
株式投資でも同じ経験をしたし、おそらく会社経営でも変わらないだろう。
だからこそ、できる限り調べる。
自分に分からない部分は専門家へ頼る。
それでも最後に決断する人間は、その結果に責任を持たなければならない。
会社を買うことについて調べ始めた今だからこそ、六歳から父と続けてきた小さな契約の意味が、以前とは少し違って見えた。
それから数週間後、玲奈は次回の《セレスティアお嬢様の相談室》で取り上げる相談を選んでいた。
登録者数が百万人を超えたことで、届く相談の数も以前とは比較にならないほど増えている。学生の進路や友人関係だけではなく、仕事や結婚、転職、家族の問題など、社会人から寄せられる内容も珍しくなくなっていた。
その中で、玲奈の手が一件の相談を開いたところで止まった。
送信者は高校生。
相談文の冒頭には、こう書かれていた。
『父の会社が、潰れそうなんです。どうすればいいのでしょうか。』
玲奈はすぐに回答を考えず、まず最後まで相談文を読んだ。
父親が経営しているのは、従業員五十人ほどの小さな製造会社らしい。長年付き合っている取引先があり、製品の品質や技術を評価してくれる会社も存在する一方で、経営そのものは決して順調ではないという。
設備は古くなっている。
若い社員へ十分な給料を出す余裕もない。
大口の取引先へ依存しており、価格についても強く交渉できていない。
そして経営者である父親自身が、この先会社を誰へ引き継げばいいのか分からず、廃業まで考え始めている。
相談者は会社で働いているわけではない。
まだ高校生であり、経営について詳しいわけでもない。
それでも幼い頃から知っている社員たちが職を失い、父親が大切にしてきた会社がなくなることが怖いのだという。
玲奈は画面を見つめながら、ここ数週間で自分が調べてきた内容を思い返した。
後継者不足。
古い設備。
従業員。
取引先への依存。
技術があるにもかかわらず、十分な利益へ変えられていない可能性。
まるで自分が読んできた事業承継の記事を、一つの会社へ集めたような相談だった。
もちろん、この文章だけで会社の状態を判断することはできない。
相談者自身も高校生なのだから、父親が見ている会社の数字や事情を全て知っているとは考えにくい。技術があるという評価も、家族から聞いた話だけかもしれなかった。
だから玲奈は、この時点で「会社を救える」とも「残すべきだ」とも考えなかった。
ただ、一つだけ強く興味を持った。
数日前まで資料の中で読んでいた問題が、現実に存在する誰かの悩みとして自分のところへ届いたのである。
玲奈はその相談へ、次回の相談室で取り上げる候補を示す印を付けた。
会社名は書かれていない。
父親の名前も分からない。
どの地域にある会社なのかすら、今の玲奈は知らなかった。
それでも、相談文を閉じたあとも内容が頭から離れなかった。
会社は、業績が悪くなったから消えるとは限らない。
価値があるから残るとも限らない。
そして、経営者の家族だけが引き継ぐ必要もない。
十四歳の玲奈は、ほんの数週間前まで知らなかったその仕組みを、すでに知っている。
だからこそ次の相談室で、まず確かめてみたいと思った。
相談者が本当に望んでいるのは、父親を助けることなのか。
従業員を守ることなのか。
それとも――その会社そのものを、なくしたくないのか。
その答えによっては、選べる道が一つではないことを伝えられるかもしれなかった。




