十万人のお嬢様
十歳になってから三ヶ月ほどが過ぎた頃、《セレスティア》の登録者数は九万人を超えていた。以前のように一つの切り抜きだけが爆発的に伸びたわけではなく、相談室、ゲーム配信、短く編集された動画、過去配信の切り抜きなど、複数の入口から新しい視聴者が流れ込んでいる。
玲奈が特に注目したのは、新しく登録する人だけではなく、一度見に来た人が次の配信にも戻ってくる割合だった。派手な数字が出た日だけ喜ぶのではなく、その後も見てもらえるかを確認する癖は、登録者が千人だった頃から変わっていない。
「九万八千七百人ですか。思っていたより早かったですね」と玲奈が数字を確認すると、直人は画面越しに呆れた顔をした。「普通はもう少し喜ぶところじゃないか? 十万人まで千三百人しかいないぞ」と言われ、玲奈は少し考えてから首を傾げた。
「もちろん嬉しいですよ。ただ、九万八千七百人も十万人も、昨日まで見てくださっていた方々が突然別人になるわけではございませんでしょう?」
「そういうところだけ妙に冷静なんだよな」
「節目としてお祝いすることと、数字そのものを特別な力だと思うことは別ですもの」
とはいえ、玲奈も十万人という数字を軽視しているわけではなかった。最初の配信では七人しかいなかったことを考えれば、想像すらしていなかった人数である。自分の言葉や失敗を楽しみにする人間が、それだけ存在するという事実には今でも不思議な感覚があった。
問題は、人数が増えれば増えるほど、玲奈一人では処理できないことも増えていることだった。配信への感想だけならまだしも、相談室への投稿、企業からの問い合わせ、切り抜きに関する連絡、コラボレーションの誘いなど、確認すべき情報は以前とは比較にならない。
直人が技術面と連絡窓口の整理を手伝い、美咲と修一が未成年である玲奈の活動を監督している。それでも、何を受けて何を断るのかという最終的な活動方針については、玲奈自身が考えなければならなかった。
ある日の夕食後、玲奈は両親へ一つの相談を持ちかけた。
「お父さん、お母さん。セレスティアの活動について、一度きちんと整理したいと思っています。今のまま人数だけが増えますと、必要なことと必要でないことが混ざってしまいそうです」
美咲は食後のお茶を置きながら、「玲奈ちゃんが配信を減らしたいなら、それでもいいのよ」と答えた。修一も同意するように頷き、娘が十万人へ近づいていることより、無理をしていないかを気にしている。
玲奈は二人の反応を見て、少しだけ笑った。前世で何かを任されたとき、周囲から最初に確認されたのは成功させられるかどうかだった。現代の両親が最初に確認するのは、玲奈自身が続けたいのかという部分である。
「減らしたいわけではございません。配信は今でも楽しいです。ただ、楽しいからこそ、余計な仕事に時間を取られて嫌いになりたくありませんの」
玲奈がそう説明すると、美咲は納得したように頷いた。配信そのものが嫌なのではなく、その周辺に増え続ける作業を整理したいのであれば、必要なのは活動をやめることではなく仕組みを整えることになる。
玲奈はノートを開き、自分が現在行っている作業を書き出していた。配信内容を考えること、実際に配信すること、相談内容を選ぶこと、企業案件を判断すること、数字を確認すること、それ以外にも細かな作業がいくつも存在する。
「わたくしにしかできないことと、他の方でもできることを分けたいと思います。全部を自分で抱えることが努力だとは思いませんから」
修一は感心したように娘を見たあと、「父さんなんて会社で仕事抱え込んで、母さんに何度怒られたか分からないぞ」と笑った。すると美咲が横から、「今もたまにやってるでしょう」と指摘し、修一はすぐに視線を逸らした。
そんな両親を見ながら、玲奈は自分が前世で犯した失敗について考えていた。
セレスティア・フォン・アルヴェインは優秀だった。
だから頼まれた仕事をこなした。
さらに仕事を任され、それもこなした。
周囲から期待されれば、それ以上の成果を返した。
できるから引き受ける。それを繰り返した結果、自分の人生のほとんどを他人の期待へ差し出していた。今世でも能力があるからという理由だけで何でも抱え込めば、形が違うだけで同じ道を歩くことになる。
「できることと、自分でやるべきことは別ですわね」
玲奈が静かに呟くと、美咲は詳しい事情を知らないまま、「それに気づいてるなら大丈夫よ」と微笑んだ。
それから玲奈は、直人も交えて活動全体を整理した。技術的な管理や安全確認は直人、契約や金銭に関係する重要事項は両親と一緒に確認し、玲奈自身は配信内容や企業案件を受けるかどうかという判断へ集中する。
相談室への投稿についても、危険な内容や個人情報が含まれるものを事前に除外する仕組みを強化した。玲奈が最終的に読む内容は自分で選ぶが、その前段階まで本人がすべて処理する必要はない。
「これなら、かなり減りますね」と玲奈が整理後の作業量を確認すると、直人も「今まで全部見ようとしてた方がおかしいんだよ」と返した。
「最初は全部見られる量でしたから、その習慣が残っていたのでしょうね」
「規模が変わったら、やり方も変えないと駄目ってことだな」
玲奈はその言葉をノートへ書き留めた。
規模が変われば、やり方も変える。
当たり前のようでいて、興味深い考え方だった。十人を管理する方法で千人を管理することはできず、小さな領地で成功した方法が巨大な国家でもそのまま通用するとは限らない。
配信活動も同じだった。
七人の視聴者を相手にしていた頃と、十万人へ近づいた今では必要な仕組みが違う。ならば会社も、成長するたびに組織や役割を変えていかなければならないのだろう。
玲奈の中で、配信と経営という二つの興味が少しずつ結びつき始めていた。
その数日後、学校の昼休みに陽菜が玲奈の机までやって来た。手には自宅から持ってきたらしいタブレットがあるわけではなく、ただ昨日見た動画について話したいだけらしい。
「昨日ね、すっごいお嬢様みたいな喋り方するVTuberの切り抜き見たんだよ。ゲームで敵に交渉しようとして負けた人」
玲奈の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
陽菜が言っている人物に心当たりがありすぎた。
「……そのような方がいらっしゃるのですね」
「知ってる? セレスティアって人。最近けっこう有名らしいよ」
「名前だけでしたら、聞いたことはございます」
嘘ではない。
むしろ誰よりも知っている。
陽菜は玲奈の微妙な反応など気にせず、「最初すごい偉そうなお嬢様キャラなのかと思ったんだけど、ゲームめちゃくちゃ下手だった」と楽しそうに話し続けた。
玲奈としては訂正したいところだった。現在では最初の頃より遥かに上達しており、いつまでも初心者扱いされるのは少々納得できない。
しかし、それを説明すれば不自然になる。
「ゲームがお上手でないことも、人気の理由なのですか?」
「下手だからっていうか、真面目にやってるのに変なことするのが面白いんだと思う。あと相談するやつは普通にいいこと言ってたよ」
玲奈は少しだけ嬉しくなった。
同時に、学校で自分の配信について感想を聞くという奇妙な状況が面白くもある。
「陽菜さんは、その方がお好きなのですか?」
「まだ切り抜きしか見てないから分かんない。でも今度配信見てみようかな」
玲奈は返事に困った。
見てほしい気持ちはある。
しかし親友になりつつある相手へ、自分の正体を隠したまま視聴してもらうことには少しだけ複雑な感覚もあった。
「……無理に見る必要はないと思いますよ。陽菜さんが面白そうだと思ったのでしたら、ご覧になればよろしいのではありませんか?」
「玲奈ちゃん、なんでその人の保護者みたいな言い方するの?」
「気のせいではございませんか?」
陽菜は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及しなかった。
玲奈は胸の中で小さく安堵した。
そしてその夜、いつもの配信を始めると、開始からしばらくして見覚えのない名前の視聴者が一人コメントを書き込んだ。
『友達に切り抜き教えてもらって初めて来ました!』
玲奈は一瞬だけ陽菜を疑った。
もちろん確認する方法はない。
同じような経緯で来る人間など大勢いる。
「初めまして。来てくださってありがとうございます。切り抜きからいらしたのでしたら、随分と面白いところだけをご覧になった可能性がございますわね」
コメント欄に笑いが流れた。
玲奈もいつも通り配信を続けた。
学校の陽菜と、画面の向こうにいる視聴者。
二つの世界がほんの少し近づいたように感じたが、玲奈はまだ自分から秘密を明かすつもりはなかった。
セレスティアであることを知らなくても、陽菜は玲奈と友達になった。
その事実が、今の玲奈には大切だった。
そして数日後。
玲奈が学校から帰り、宿題を終えてパソコンを開くと、登録者数は九万九千八百人を超えていた。
直人からも連絡が入り、今日中に十万人へ到達する可能性が高いという。
「記念配信でもするか?」と尋ねられたが、玲奈は少し考えてから首を横へ振った。
「到達する瞬間を待つためだけの配信はいたしません。次の予定は相談室ですから、そこで皆様へお礼を申し上げます」
「数字に興味ないわけじゃないんだろ?」
「もちろんございます。九万九千九百九十九人から十万人へ変わる瞬間も見たいですよ。ただ、そのために予定を変えるほどではございませんわ」
玲奈は画面の数字を何度か確認したあと、夕食のためにパソコンから離れた。
修一が帰宅し、美咲と三人で夕食を食べる。
学校で陽菜からセレスティアの話をされたことを、名前だけ伏せて両親へ話すと、修一は危うく味噌汁を吹き出しそうになった。
「それ、バレなかったのか?」
「今のところは大丈夫です。ただ、お父さんが学校へいらした際に余計なことをおっしゃらないようお願いいたします」
「父さん、そんなに信用ない?」
「競馬場で勝った翌日に、お母さんへ黙っているつもりだったのに五分で顔に出た方ですので」
美咲が笑い、修一は反論できなくなった。
そんな話をしている間にも、インターネット上ではセレスティアを新しく知る人が増えていた。
夕食を終え、玲奈が自室へ戻った頃。
画面に表示された数字は、すでに六桁へ変わっていた。
登録者数、100,037人。
玲奈はしばらく、その数字を眺めた。
初配信の日に来てくれた一人目の視聴者を覚えている。
初めて「また来ます」と言われたときの嬉しさも、初めて相談へ答えた夜も、ゲーム内の敵と交渉しようとして笑われたことも覚えている。
そして最初の百円も、今なお記録として残していた。
十万人という数字は、それらの積み重ねの先にある。
玲奈は直人へ短い連絡を送り、両親にも到達したことを伝えた。修一はすぐに部屋まで来て娘の頭を撫でようとし、玲奈から髪が乱れると抗議されながらも嬉しそうに笑っていた。
次の相談室配信では、開始直後から多くの祝福が流れた。
「皆様、ありがとうございます。どうやら登録してくださった方が十万人を超えたそうで、わたくし自身も少々驚いております」
コメント欄には「おめでとう」「古参です」「百万人まで行こう」といった言葉が次々に流れていく。
玲奈はその中の一つへ目を留めた。
『次は100万人ですね!』
「百万人ですか。随分と気が早い方がいらっしゃいますわね」
笑いを示すコメントが増える。
玲奈は少し考えてから、穏やかに続けた。
「もちろん、これからも多くの方に見ていただければ嬉しいです。ただし、百万人へ到達するために、わたくしの生活すべてを配信へ差し出すつもりはございません」
コメントの流れが少し変わった。
「わたくしには、配信以外にも大切にしたい時間がございます。ですから急いで百万人へ行くより、楽しく続けた結果としていつか届くのであれば、その方が嬉しいですわね」
その発言も後日、短い切り抜きになった。
数字を追いかける配信者が多い中で、十万人へ到達した直後に「生活すべてを配信へ差し出さない」と宣言するお嬢様。
好意的に受け取る人もいれば、向上心が足りないと評する人もいた。
玲奈は両方の反応を読んだ。
それでも方針を変えなかった。
誰かが百万人を最優先にしたいのであれば、それも本人が選んだ人生だろう。
しかし玲奈は違う。
自分には配信以外にも欲しいものがある。
そして、その選択をした結果として成長が遅くなるのであれば、それも含めて自分で引き受けるつもりだった。
十万人へ到達したことで、企業から届く問い合わせはさらに増えた。これまでより大きな会社の名前も混ざるようになり、報酬の桁が一つ上がった案件まで現れ始める。
その中には、専属契約を持ちかける企業もあった。
一定期間、セレスティアの活動を支援する代わりに、配信内容や企業案件について会社側が管理するという提案である。
玲奈は条件を最後まで読み、一度だけ考えた。
設備支援。
営業支援。
案件獲得。
トラブル対応。
個人で活動する玲奈にとって便利なものが数多く含まれている。
しかし同時に、活動方針へ企業が関与する権利も含まれていた。
「久世さん。この契約を結べば、確かに今より楽になるのですよね?」
「なる部分は多いと思う。向こうが仕事を取ってきてくれるし、面倒な連絡もかなり任せられる。ただ、その代わり好き勝手にはできなくなるな」
玲奈は契約書をもう一度眺めた。
条件そのものが悪質なわけではない。
企業側も利益を得るために支援するのだから、一定の権利を求めるのは当然である。
だからこそ、玲奈は迷わなかった。
「でしたら、今回はお断りいたしましょう」
「即決かよ」
「条件が悪いからではございません。わたくしが欲しいものと違うだけです」
玲奈は椅子へ深く座り直した。
「わたくしは楽になるために配信を始めたのではありませんもの。自分でやりたいことを、自分で選ぶために始めたのです」
必要なら人へ仕事を頼む。
専門家の力も借りる。
適切な対価も支払う。
しかし、自分が何をするかという最後の判断まで渡すつもりはない。
十万人という数字を手に入れたことで、玲奈には以前より多くの選択肢が与えられた。
同時に、それは選ばない自由も増えたということだった。
玲奈は断りの連絡を送ったあと、別の資料を開いた。
最近、企業案件を調べる中で気になることが増えていた。
同じような商品でも、会社によって値段が違う。
技術力が高いのに知られていない会社がある一方、性能では大きく変わらないのに圧倒的に売れている会社もある。
良いものを作ることと、売れることは同じではない。
以前から何となく理解していた事実を、玲奈は自分の活動を通して実感し始めていた。
「久世さん。会社というものについて、もう少し詳しく勉強したいです」
直人は突然の話題変更に少し驚いた。
「経営でもやる気か?」
「まだ決めておりません。ただ、面白そうだと思いまして」
十歳の少女は、それ以上のことを言わなかった。
この時点では、本当にただの興味だった。
セレスティアという小さな活動を成長させる中で、人が集まり、金が動き、仕事が生まれ、外部の企業と契約するようになった。
ならば会社では、それをもっと大きな規模で行っているはずだ。
どうやって商品を作るのか。
どうやって人を集めるのか。
なぜ優れた商品が売れないことがあるのか。
なぜ同じ仕事でも、会社によって利益が違うのか。
玲奈の興味は、少しずつ配信画面の外へ広がっていた。
かつて六歳の玲奈は、父と競馬場で交わした小さな約束から、自分の力で初めて金を得た。
七歳では、その金で自分のパソコンを買った。
八歳ではセレスティアとなり、見知らぬ誰かから最初の百円を受け取った。
九歳では企業から仕事を依頼され、信用にも価値が存在すると知った。
そして十歳。
十万人もの人間が自分の周囲へ集まったことで、玲奈は初めて、一人では扱いきれない規模のものを動かす面白さを知り始めた。
まだ会社を持ちたいとは思っていない。
買収という言葉など、自分の未来と結びつけて考えたことすらない。
それでも天城玲奈の視線は、この頃から少しずつ経営という世界へ向き始めていた。
その先に、十四歳の玲奈が一つの会社を丸ごと買う未来が待っていることを、この時の彼女はまだ知らなかった。




