後編
ラムハトの長い長い冬が終わろうとしていた。丘に吹き荒ぶ凍てついた風は日を追うごとに穏やかになり、雪解けの水は行き場所を求めるように清流となってメイル川へと流れてゆく。洋館への坂道には春告花のミュトスが咲き乱れ、薄紅色に世界を彩っていた。
サヴァン先生と別れたあの日から数カ月、私は療養しながら、星詠の書に記された厄災についての記述の解読に務めた。その間に私は十五歳になり、そしてその解読が進むほど、厄災の顕現が想像よりも遥かに差し迫っていることを確信させられた。
氷が溶け気温が上がってゆくにつれ、私の焦燥は雪のように降り積もる。早く厄災を止めるための方法を探しに行かなければ、と思う一方で、長く過ごしたこのラムハトを離れがたい気持ちも強い。そんな二律背反のような思いを抱いたまま、長い冬が終わろうとしている。
「——なんでそんな危ないこと、アリアがしなきゃいけないの!」
ラナの声が私の部屋に響き渡る。驚いたシュネーが耳を立てて、壁にかけてあるローブのフードから顔を出した。
「私がしたいことなの。聞いて、厄災がいつか訪れるとしたら、この街もきっと危険になる。またザイオンみたいな魔物が襲い来るかもしれない。私は、それを止める方法を探したいの」
「厄災なんてどうだっていい! またあんなひどい目に遭うかもしれないんだよ、わかってるの?」
「どうだってよくないの。私がひどい目に遭うことと厄災の顕現は別の問題だから」
「分からず屋! まともに動かないその右腕で旅に出て、あなたに何ができるの! 厄災なんて王国の魔道士団に任せればいいわ。もうアリアがあんな目に遭うのは嫌なの、この街で静かに暮らしていなさい!」
怒りをはらんだ声を残して、ラナが部屋から出てゆく。窓から夕暮れの日差しが差し込んで、部屋が橙色から深い藍色へと沈んでいこうとしていた。
王国を覆う大いなる魔物、厄災の顕現。それを止めるための術を探す旅に出たいと、私はようやくラナに打ち明けた。けれど、結果はこの通り。こんなふうに言い合ったのなんていつぶりだろう。どうしていいかわからなかった。いつからか心の何処かで、ラナは無条件に私のしたいことを応援してくれると思っていた。だから今回も私の決断を後押ししてくれる、そう思ってしまった。でも、彼女は私以上に私のことを心配している。そのことが嬉しくもあり、心苦しくもあった。ラナやラムハトの人を救いたい気持ちが、逆に彼女を苦しめることになる。そのことを私は改めて痛感させられていた。
私はフードの中のシュネーを片手に抱き上げ、その毛並に顔を埋める。温かな日なたの匂いがした。シュネーは私を慰めるように頬に擦り寄った後、軽やかに跳ねて机の上に飛び乗った。そこに広げられている羊皮紙を、尻尾で何度も叩く。そして転がっている羽ペンを器用に咥えて見せた。
「……こんな手で、手紙を書けと言っているのね」
太陽が山の向こうに沈み、夜の帳が下りようとしている。私はランタンを灯して椅子に座り、膝の上にシュネーを載せて左手でペンを握った。そんなまともに動かない右腕で何ができるの、と怒るラナの声が頭の中にずっと響いている。けれど同時に、身体は不自由でも思考は自由だと教えてくれた人を思い出す。
私は利き腕ではない手で、不格好で読みにくい文字を綴り始めた。
羊皮紙の上をペンが辿々しく走る。左手でペンを持つと、インクが擦れて紙と手が汚れる。私は手紙を汚さないよう、少し書いてはインクを乾かし、また少し書いてを繰り返して、できる限り時間を書けてその手紙を書き上げた。夜が少しずつ深くなりシュネーがフードの中で寝息を立て、ランタンの油が少なくなっている。私は音を立てないよう静かに外套を着て、その手紙を大切に懐にしまい込み、灯りを消した。
洋館を出て坂を下り、ラナの家へと向かう。春とはいえ丘に吹く夜風は冷たかった。空には無数の星が輝いて見え、静かに私を見守っているようだった。やがてラナの家が暗闇の中に見えてくる。寝静まっていれば黙って手紙を置いてこようと思ったけど、まだ室内から光が漏れていた。私はそっと扉をノックする。暫くして顔を出したのはラナのお父さんだった。
「おじさま、こんばんは。こんな夜分にすみません」
「アリア、どうした。ラナなら機嫌悪くて、早々に寝てしまったよ」
「いえ、いいんです。少し、喧嘩をしてしまって。それで、手紙を渡してほしいのです」
言って、私は懐からその手紙をおじさまに手渡す。そうか、喧嘩なんて珍しい、と言いながらおじさまは頷いて私を見た。ああ、ラナと同じくらい、おじさまとおばさまにもお世話になった。おばあちゃんが亡くなってから、私は一人ぼっちになって、けれどその私をここまで育ててくれたのはラナの家族だ。私はそのことを思い、涙の膜が瞳を覆っていくのを感じた。
「……どうした、そんなひどい喧嘩をしたのか」
「いえ。そうではなくて。おじさま、急な話でごめんなさい。私、少しラムハトを離れることになって。そのことでラナと言い合いになってしまいました」
「そうか……いや、アリアの決めたことなら俺は反対はしないよ。気をつけて行きなさい」
「ありがとう、おじさま。本当に感謝しています。私には家族がいなくて、父と母のことも知りません。ラナとおじさまとおばさまが、私の家族でした」
私は深く頭を下げる。零れ出た涙が重力で雫となり、雨粒のように地面を濡らした。そんな私の頭を、大きな手が優しく撫でる。
「こちらこそ、ありがとうアリア。ラナと双子のようにいつも傍にいてくれたね。俺はずっと、うちは四人家族だと思っているよ。詳しい事情はわからんが、腹が空いたらいつでも帰ってきなさい」
その言葉に、私は胸がつまり声が出なくなる。止まらない涙を見られるのが恥ずかしくて、俯いたまま私は何度も鼻を啜った。ああ、なんて優しい人だろう。私はもう一度深く頭を下げて、その大きな優しさを胸にラナの家を後にした。
この道を歩くこともしばらくはないだろう。私は星灯りに揺れる丘の道を踏みしめるように歩く。やがて見えてきた洋館の真上に、白銀の満月がぽっかりと静かに浮かんでいた。
夜が明ける前に私は目を覚ました。ほとんど寝ることはできなかった。冷たい空気の満ちる部屋で、私は静かに立ち上がる。旅立ちの準備はほとんど終わらせていた。最後の確認をしながら、洋館にあった大きな旅鞄を肩にかける。右手にはまだ痺れが残り、握力がほとんどないままだった。
ラナは手紙を読んだだろうか。また怒らせてしまうかもしれない。泣いていないといいな、と思う。ラナにはずっと笑っていてほしい。左手で書いた私の不器用で歪な文字が、どうか、彼女の冷たくなってしまった心を温めてくれるようにと祈ることしかできない。
淡い青紫色の真新しいローブを纏い、フードに潜り込んだシュネーに出発するよ、と声をかけた。結局新しい杖は魔法石が高くて準備できなくて、半端な魔法使いの旅立ちになってしまった。
洋館を出て甘い香りの満ちる並木道を下り、街外れの街道へと進む。ここから先は、私の知らない世界だ。空が白んできて、ゆっくりと気温が上がって私の身体を温めてゆく。街の出口には朝一番に出る馬車が既に客を待っていて、私は御者に運賃を払いその馬車に乗り込もうとした。
「——アリア! アリア、待って!行かないで!」
その声に驚いて身体が動かなくなる。後ろから思い切り抱きつかれ、バランスを崩して倒れそうになった。シュネーが驚いてフードから飛び出て、その声の主に嬉しそうな鳴き声を上げた。
「……ラナ、どうして」
振り向いて、ラナの顔を見る。その綺麗な明るい瞳には溢れそうな涙が膜を張って、朝焼けの薄明かりを乱反射して水晶のように輝いて見えた。その手には、私の手紙を握りしめている。
「アリアのばか! 手紙、読んだわ……ひどい、こんな、こんな羊皮紙一枚で私に黙って行ってしまうなんて。私、昨日より怒っているわ」
「……ごめんなさい。でも、私は」
「ううん、いい。もう言わないで。泣いちゃう。どんな思いでアリアがこの手紙を書いたのか、あの文字を見たら、涙が止まらなかった。私、アリアのことを心配しながら、結局自分のことしか考えてなかった」
私は胸が痛くて、何も言うことができない。今ここでラナが本気で私を引き止めれば、私はそれに抗えない気がした。それくらい、ラナの声は旅立とうとする私の心を揺らし続けていた。
「ねえ、私はアリアみたいに大人になれないよ。アリアがいないと毎日寂しいし悲しい、つらい。うう、ごめんね。私もわがままなんだ。私がただアリアと離れたくないだけ、それだけだよう」
そう言ってついにラナは声を上げて泣き出してしまった。私も溢れそうな涙を堪えて、ただ、彼女を強く抱きしめる。嗚咽するラナの柔らかな髪が、鶏の羽のように切なく頬を撫でる。
「ラナ、ありがとう。私のために泣いてくれて。ねえ、手紙たくさん書くね。私の心にはずっとラナがいるから。寂しくないよ、ずっと一緒だから……そうだ、これ、持っていて」
そう言って私は左手のブレスレットを外し、ラナの腕にそっとはめる。光を反射して白銀に輝くその冷たい金属が、ラナの心を強く守ることを私は願った。
「だめ、これ、セレネス様の。大切なものでしょう」
「いいの、大切だからラナに持っていてほしい」
その言葉に、ラナは涙を零しながら深く頷いた。ああ、夜が明けてゆく。私は静かに、握りしめていたラナの手を離した。
「アリア。本当に行くのね」
私はラナに頷く。ラナが目を擦って涙を拭き、もう一度、深く私を抱きしめた。なんて、温かい。全てを溶かす春の日差しみたい。この温もりを守るためなら、私は私の人生全てを掛けてもいい。この瞬間、私は心からそう思えた。
「……アリア、これを。遅くなってごめんね、誕生日プレゼント。探すのに時間がかかっちゃった」
そう言ってラナは小さな鞄から、拳ほどの青白色に輝く石を取り出した。ひと目見ただけで分かる、その輝きの放つ深淵な力。私は思わず嘘でしょ、と声を出してしまう。
「これ、魔法石……こんな大きなの、いったいいくらしたの。だめ、もらえないよ」
「もらってほしいの。お願い。私ね、アリアが昔からどれだけ魔法を使おうと努力していたか知っているわ。魔法なんか使えなくても構わないのに、ってずっと思ってた」
私たちの間を風が通り抜ける。私の髪とローブが大きく靡いて、ラナの言葉を遠く異国の地まで運んでいくような気がした。
「でもね、その魔法が私を救ってくれたわ。アリアは私の命の恩人なの。アリアの魔法は人を救えるの。その魔法のためなら、私、全財産をあなたにあげたっていいわ。だから、受け取って」
ラナの言葉に、私は胸がいっぱいになる。触れたその魔法石は、それだけでわかるほどに静謐に私の中の魔力を安定させた。杖へと加工すれば、あの膨大な星の魔力すら安定して扱うことができるかもしれない。
ラナの思いに目が熱くなる。私はその魔法石を大切に旅鞄の奥へとしまい込んだ。
「ありがとう、ラナ。……そろそろ行かなきゃ。風邪、引かないようにね。みんなによろしくね。元気で」
「アリアも、元気で。手紙、待ってるね。さよならを言う前に、話せてよかった」
日が昇る。私は最後にラナを強く抱きしめて、馬車へと乗り込んだ。シュネーが名残惜しそうにラナを見つめる。私はその背中を撫でながら、涙を見せないよう笑って手を振った。ラナもこちらに大きく手を振って、何度も私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
朝焼けに染まるその姿を瞳に焼き付ける。やがて馬車が動き出し、私たちの距離が少しずつ離れてゆく。ラナの影が小さくなり、沈みゆく星のように見えなくなる。
けれど、きっと大丈夫。
私たちは星の運行のように円運動を描いて、またここで出会う日がきっと来る。そう自分を慰めながら、私は青紫色の空を瞳に映し、ただ静かに涙を零した。
◇
——親愛なるラナへ。
突然の話でごめんなさい。私がわがままを言っていることは、よくわかっています。
厄災のことなんか忘れて、今までのようにラムハトで過ごすこと。それは私の心が最も望むことです。私はラナと離れたくない、この街を離れたいなんて一度も思ったことはありません。ここには、私の愛する全てがあります。
けれど、私がこの厄災を止めなければ、その全てが脆く消えてしまうかもしれない。その恐怖は常に私の心を支配しました。あのザイオンのような絶望を、私は私の愛する人に決して味わってほしくはないのです。
私は国を救う英雄になりたいわけでも、おばあちゃんのような偉大な魔女を目指すわけでもありません。私はただ、私の愛する日常を、ラナを守るために、この街を離れます。
怒らせてしまってごめんなさい。私はいつも不器用で、ラナに守られてばかりいました。何もできない自分が恥ずかしかった。けれど、私にもできることを見つけたのです。あの日、ラナを助けられて本当によかった。生きていてくれてありがとう。もしこの不自由な右腕がもう治らないとしても、それはあなたを救うことができた誇りです。
こんな読みにくい手紙を読んでくれて、ありがとう。明日の夜更けとともに、ラムハトを発ちます。
私の心は常に、あなたのもとに。あなたの笑顔が、私の帰る場所です。
愛を込めて。アリア。
——『第三章 さよならを言う前に。』
ここまでお読みいただきありがとうございました。
第三話を以て旅立ち編の完結となります。
次回からはアリアの旅路編が始まります。
ようやく始まる《星詠》の旅をお楽しみください。
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