後編
太陽が西に傾いて、空が茜色に染まる頃。夜を照らす魔導灯がぽつぽつと灯り始めて、街をゆく人の足が少しだけ早くなる。私とラナは中心街から外れた小さな川にかかる橋で、王都の光が少しずつ増えていく様子を静かに眺めていた。
「すごいわね、王都って。綺麗。ラムハトとは、何もかもが違うわ」
水面から舞い上がった風が私のローブをふわりとなびかせて、フードの中からシュネーが顔を出す。
「うん。星はあまり見えないけれど、街そのものが星の集まりみたい」
「アリアも、今はその光の一つなのね。不思議な気持ちだわ。……私、夜になると、未だにあの洋館でアリアが星を見上げてる気がしているの。でも朝になると、ああアリアはどこを旅しているんだろう。何を見て、どんなことを思っているのかな、って考える。そして夜になると、またアリアはあの場所から星を見てる」
ラナが遠くの星を探すように空を見上げる。少し増えてきた雲が落ちてゆく太陽の光を飲み込んで、空一面が黄金色に輝いて見える。ああ、まるで収穫期の黄金のラムハトだ。夜に落ちる前の一瞬の輝き。乾季になる直前の、風に揺れる黄金の麦畑。
「ラナ。私も、あの洋館で星を見ているの。星の運行を心に思い描くとき、いつも私はあの洋館で星を詠んでいる。だから王都でも、寂しいけれど、寂しくないの」
暗くなった水面に魔導灯の光が反射して、まるで夜空みたいに街を照らしている。私たちはしばらく、静かにその風景を眺めていた。隣からは心地よい呼吸だけが聞こえてくる。たまに強い風が吹いて、どこかの夕食の匂いを運んできた。これは鶏の香草煮込みよ。鶏かどうか、わからないよ。私にはわかるわ。豚かもしれない。ぜんぜん違う、これは鶏よ。そんな言葉が風に乗って黄金の空に溶けてゆく。
「たくさん歩いてさすがに疲れたわね。アリア、そろそろ戻りましょう。今日は、色んな王都を見せてくれてありがとう」
「ううん。連れ回しちゃったね、ありがとう付き合ってくれて」
私が見ているものを、たくさん、全部、ラナに見てほしかった。朝の喧騒、王都に生きる人、ラムハトにはない匂い、空気、光。そっと、隣にいるラナの手を握ろうとする。けれど、小さく息を吐いた彼女の横顔は、今までに見たことないほど穏やかで、自然で、私は思わず見惚れてしまう。
「……アリア、どうかしたの?」
「ううん、なんでもない。ラナに魔力があったら、きっと羽毛みたいに柔らかいんだろうなって考えてた」
「なあにそれ、乾季は一緒にいると暑苦しいってことかしら」
そうかもね、なんて笑いながら私はゆっくりと歩き出す。大きく伸びた影が二つ。小さなシュネーの影が跳ねる。厚くなってきた雲に混じる雨の匂い。川沿いの湿気が、二人の肌を撫でてゆく。
そうして、私とラナの、たった一日の王都旅行は終わりを告げた。
日が落ちると同時に空からは大粒の雨が降り出して、石畳を容赦なく叩きつけた。私たちは雨宿りをするように小さなカフェに逃げ込み、ちょうどお腹も空いていたのでそこで食事を取って、他愛ない話をずっとしていた。明日には忘れてしまうようなくだらない話を、二人とも飽きることなくずっと続けた。
カフェの窓硝子を雨粒が濡らし、外のぼやけた魔導灯を反射してテーブルの上に幾何学模様を描いている。店内には静かな音楽がゆったりと流れ、琥珀色の光に、珈琲豆の香りと雨の匂いが混じり合う。まるで昨夜の部屋のようだ、と私は思う。きっとこれから先、雨粒と珈琲の香りが私にラナを思い出させるのだろう。
「……不思議。昼間はラムハトとぜんぜん違うと思ったのに、夜は、どこか似ているわ」
「うん、それは私も思ってた。夜も人は多くて賑やかだけど、こうやって少し外れた路地に入ると、音が遠くて、光もなくて、でもたまに星が見えるの」
カラン、と扉が開いてお客さんが入ってくる。店主が声をかけて席に案内して、また静かになる。アップルパイでも焼いているのかな、どこからかシナモンの香りが漂ってきて私は少し珈琲を飲んだ。
「王都では道に迷ったりしないの?」
「最初はずっと迷子だったよ。でもほら、私、迷っても不思議と帰ってこれるんだよね。だから最近は、わざと知らない道を選んでみたりするよ」
「うん、確かにアリアはいつも一人で迷子になって、一人で帰ってきたわ。ほら、収穫祭のときのこと覚えてる?」
「覚えてる。でも、あのときは本当に不安だったよ。真っ暗闇に一人ぼっちだったから」
「大泣きしてるアリアを見たのは、あの時が最後ね。そういえばラムハトでさよならした時も泣いてなかったわね、あなた。薄情者」
「その後に泣いたよ、たくさん泣いた。泣きすぎて馬車の御者さんに慰められた。恥ずかしいから思い出したくないの」
「なによそれ、見たかったわ、残念」
そう言ってラナが笑い出す。恥ずかしくて顔を伏せていた私も、思わず笑ってしまう。そういえば気づくと雨音が止んでいた。私たちはお互いに顔を見合わせて、何も言わずに席を立った。
カフェの外に出ると雨上がりの湿気が私たちを包みこんで、それでもどこか雨季特有の涼しさを感じる。濡れた石畳には魔導灯が鏡面のように映り込んで、まるで地面に星空があるみたい、と私は思う。王都はあまり星が見えないけれど、光はちゃんとあって、今夜もちゃんと輝いている。
「ラナは、昔から泣き虫だったよね。泣きながら怒るし、怒っててもすぐに笑ったりする」
「そうね、自分に素直なの、私。それに、誰かさんがあまり笑ったり泣いたりしないから、代わりに泣いてあげてるのよ」
それは半分強がりのようで、もう半分は本当のようだった。私は昔からあまり泣かないし怒らない。心が乱れたら空を見上げなさい、と静かな自分を取り戻す方法をおばあちゃんが教えてくれたから。顔を上げて空を見上げる。相変わらず雲と街明かりで星は見えない。でも、変わることのない星空がそこには広がっている。それだけで、私の心は静謐になってゆく。
「でも、それももう……」
ラナが何かを言おうとする。けれどそれよりも早く、私は胸元の違和感に気付く。ずっと変わることのない銀色の光を称えていた、ユリさんから託された双翼の伝令符。その片翼のブローチが、淡く、魔力を宿している。私はその光に手を添えながら、ラナの顔を見る。ラナも真っ直ぐに私を見ている。彼女の指が、腕にはめられた銀のブレスレットに小さく触れている。
「もしかして、何か連絡が来たの?」
「うん、そうみたい。青の魔女様について、何か思い出したら教えてください、ってお願いしたの。でも実際に連絡が来たのは初めて」
どうやって使うのかな、と魔力で光るブローチを外して手に取ってみる。すると込められた魔術式が、そっと私の手のひらで解けるように広がった。まるで織り込まれた手紙が広がるように、銀色に輝く文字が両手の上でふわりと浮いている。差出人はユリさんではなく、彼女と一緒に居たラニエさんからだった。
そしてその文字を読み始めた瞬間、私の世界は闇に落ちる。雨上がりの匂いも、湿度をまとう風も、隣りにいるラナの香りも、何も感じない。文字の上を滑るように瞳が動き、綴られた言葉たちが、意味を持って私の中へ落ちてゆく。
それは紅明の月、一週目の空の日。十三年の時を経て訪れたタリア食の夜。
光は遠く、星は見えない。
——『第九章 光の灯る場所。』




