321.海に浮かぶ星々
ノルンはキャンバスの前に立つと、動きを止める。
数秒。数分の時が流れても、ノルンはその場から動くことはなかった。
ただ、自分が描かれた絵を見つめるその瞳は、初めて目にしたものに興味を示す子どものようで、その横顔にエリシオはくすりと笑みを零した。
「…ノルンちゃん。少しの間、モデルになってくれないかな」
エリシオがそう声をかけて、ようやくノルンは絵から目を離してエリシオを振り返る。
「…モデル、ですか」
「うん」
エリシオは頷くと、ノルンの傍まで歩み寄り、ノルンの目の前に立てかけられていたキャンバスを両手に抱えた。
「君の絵のモデルになって欲しいんだ」
「…わたしの、絵の…」
「うん。…ふふ、やっぱり思い出して描いて見たけど、全然違う」
キャンバスを部屋の中央の大きなイーゼルの上に乗せると、エリシオはそのまま椅子に座り、キャンバスに描かれた少女と、目の前に佇む少女を比較するように見つめた。
「…やっぱり、瞳の色が全然だ。…描いている時から気になってたんだ。何だか違う気がして」
「そう、でしょうか。絵の善し悪しは分かりかねますが…私からしてみれば、とても美しく、描いていただいたように思います」
「ふふ、そっか。でも君は本当に、もっとなんていうかな。…僕の腕なんかじゃ表現しきれない程に、神秘的で、素敵な子だよ」
ノルンは表情を変えず、一瞬薄い唇を開こうとして、それからすぐに口を結んだ。
「……ありがとう、ございます。エリシオ様」
戸惑いがちに告げられた言葉にエリシオは頷く。
「こちらこそ。…それで、モデルになってくれるかな?」
「はい」
「ありがとう。それじゃあこの椅子に座って」
ノルンが頷くのを見届けるとエリシオは、部屋の隅に置かれていた木の椅子を引っ張り出して、そこにノルンを座らせた。
背筋を伸ばして、膝の上に手を重ねたノルンは、視線をどこへやればいいのか分からないという風に、ちらりとエリシオへ視線を送る。
「あ、視線はこっちで。うん。そう。そんな感じ。…じゃあこのまま少しだけ止まっていて貰えるかな」
「はい。承知しました」
「ありがとう。そんなに長くはかからないから」
エリシオはノルンにそう告げると、視線はノルンに向きながら、利き手の左手でサイドテーブルに置かれていた筆を手に取った。
しかしエリシオの視線が、ノルンの視線と絡んだ瞬間に、エリシオは思わず動きを止めてその瞳に魅入られる。
ほぅ、と小さく感嘆の吐息が口からこぼれ落ちる。
(…………澄んだ空の色………けど、太陽の光を反射する海の色……)
窓から差し込む太陽の光をいっぱいに取り込んで、きらきらと光を反射されるその瞳は、どこまでも透き通っていて。
「……………本当に、唯一無二だ」
透き通った海に、瞬くそれは瞳の中に入り込んだ星の欠片のよう。
エリシオは、薄く笑みを零すと、そっと筆を持ち上げた。
迷うことなく、数色の絵の具を手に取ると、パレットの上に出して、混ぜ合わせていく。
そして、正面に座るノルンと、キャンバスに描かれたノルンを交互に比較しながら、その瞳に更に色を重ねていく。
決して一色では描けない。
しかし、無闇矢鱈に色を混ぜ続けるだけでは、ただの濁った海と化してしまう。
それでは、彼女の美しい宝石瞳を表現することは出来ない。
エリシオは無意識のうちに呼吸さえ浅くして、目の前のキャンバスに集中する。
一色ではない。
複雑に、何色もの色が混じりあっている。
それでも、彼女の瞳はどこまでも透き通っていて、まるで宝石が共鳴するように星が瞬く。
その光はまるで、暗い闇夜でさえ、深い海の中さえも、照らしてしまえるような。
キャンバスに筆を滑らせるエリシオが口を開くことはない。そして、ノルンもまたその口を閉じて、ただ、静かにその瞳をエリシオに注ぎ続けた。
広大な空が彩られていく。
そして、その上に細い筆先で豊かな睫毛が一本ずつ描かれていく。
硝子のような瞳の上に睫毛の影を落とせば、絵画は一気に現実へと近づいた。
そして、最後に。
エリシオは彼女の睫毛を描いたその筆で、瞳の中に瞬く星を描いた。
「…………………」
気づけば呼吸は止まり、エリシオは前のめりになって、一心に絵画に全神経を注いでいた。
そして、エリシオが筆を握り始めて数十分後。
「…………っ……できたぁ………」
ようやくエリシオは力の抜けた笑みを浮かべるのだった。
「本当ですか。エリシオ様」
「うん…ごめんね、長い間…。疲れたよね」
「いえ。この程度ならば問題ありません」
「良かった」
「エリシオ様。絵を、拝見してもいいですか?」
「勿論。……どう、かな」
ノルンの言葉に頷くとエリシオはキャンバスを持ち上げて、ノルンに絵が見えるようにキャンバスを持ち帰る。
美しい宝石瞳が、僅かに揺れた。
静かに口を結んで、絵を見つめ続けるノルン。
エリシオが内心緊張をしていれば、ふとノルンの唇が僅かに開いた。
「…エリシオ様には、私の目は…このように、見えているのですか?」
その言葉に一瞬どきりと心臓がはねる。
それは、良い意味か、はたまた悪い意味か。
「えっ……えっと……」
「…これ程までに………こんなに、綺麗な色を、していますか、」
言い淀んだエリシオにノルンは続けた。
少し戸惑っているような、ぎこちない声色。
その言葉にエリシオは息を呑む。
「……うん。春の快晴のように涼やかで、でも夜の海のように深くて、そこにずっと星が瞬いてるんだ」
「……………」
ノルンが小さく息を呑む。
「………本当に、すごく、綺麗だよ。___あぁ、そう。そうだ。あの宝石みたいに。………そう。そうだ。グランディディエライトの宝石みたいに…!」
エリシオがぱっと顔を上げて、微笑みを浮かべてノルンを見つめれば、その瞬間ノルンの気配が揺れた。
一瞬、何かを噛み締めるように、彼女は唇を僅かに噛んで、それから____。
「…はい。____はい。ありがとうございます。エリシオ様」
僅かに眉を下げて、まるで、大切な宝物を抱きしめるかのように、淡く、美しく微笑んだのだった。




