第二章第二話
1998年、春。初めて挑む最高峰の舞台、Jリーグの壁は決して甘いものではなかった。 開幕から数試合、ステラマーレ函館はかつてない苦戦を強いられていた。JFLとは比較にならないプレースピード、研ぎ澄まされたパスワーク、そして外国人ストライカーたちの理不尽なまでのフィジカル。 門倉鉄馬が身体を張り、斎間創が泥まみれになってボールを刈り取っても、ほんのわずかなほころびを突かれて失点を重ねる。自慢の「堅守」が崩されれば、頼みの「速攻」に転じることもできない。開幕直後の函館は、トップリーグの荒波に飲み込まれかけていた。
だが、彼らは過酷なリーグで地獄を見てきた集団である。 連敗の底にあっても、鬼方監督の信念は一切ブレなかった。そして、名スカウト・伊庭八尋が見出し、このチームに加わった「新たな刃」たちが、Jリーグのスピードに適応し始めた時――函館の陣形は、ついに真の完成を見る。
5月。熱気に包まれたホーム『星海陣屋』。 格上の強豪クラブを相手に、スコアは0-0のまま後半35分を迎えていた。 相手チームが波状攻撃を仕掛けてくる。右サイドから崩しにかかる相手に対し、立ちはだかったのは左ウイングバックの南山計助だった。
(……来るのは、一つ外のレーンだ)
南山は相手の視線と身体の向きから、パスの軌道を完全に読み切っていた。 3-4-2-1のシステムは、守備時に両サイドが最終ラインに吸収され、5バック(5-4-1)のブロックを形成する。南山はその戦術的メカニズムを誰よりも深く理解していた。彼が周囲に細かなコーチングの声を飛ばし、数センチ単位でポジションを修正することで、函館の最終ラインは絶対に穴の空かない「動く城壁」へと変貌する。 パスが出た瞬間、南山は涼しい顔でインターセプトを決めた。無理な体勢ではなく、あらかじめそこに立っていたかのような、計算し尽くされた知的な守備。彼という「バランサー」の存在が、函館の守備陣に圧倒的な安定感をもたらしていた。
「ショートカウンター! 行けッ!」 南山から斎間へ、そしてトップ下の沖瀬司へとボールが渡る。 函館が誇る「速攻」のスイッチが入った瞬間、星海陣屋のスタンドが大きく沸いた。 右サイドのタッチライン際。そこには、後半終盤にもかかわらず、まるで試合開始直後のようなトップスピードで駆け上がる背番号があった。
「うおおおおおおおおおおッ!」 右ウイングバック、原野駿之介。 彼の武器は、底なしの「無尽蔵のスタミナ」だ。Jリーグのハイペースな展開に他の選手たちが疲労の色を濃くする中、原野だけは一切のブレーキを踏まずに右サイドを上下動し続けていた。 相手DFが慌てて原野のマークにつこうとするが、その圧倒的な推進力とスプリント回数の前に、完全に足が止まっている。南山が左で作った戦術的なタメが、右サイドの原野という「槍」の威力を極限まで高めていた。
「沖瀬さん!」 原野が右サイドの深い位置を完全にえぐり切り、マイナスの折り返しを入れる。 ペナルティエリアのやや外。フリーでボールを受けた沖瀬が、華麗なトラップから顔を上げた。 相手のセンターバックたちは、原野の強烈な突破に気を取られ、ほんの一瞬だけ陣形を崩し、視線をボールに集めてしまっていた。
その、たった一瞬の「死角」。 生粋の点取り屋が、それを見逃すはずがなかった。
(……そこだ) 相手DFの背後、完全にマークを外した絶好のスペースへ、背番号9が滑り込んでくる。 響木蒼生。 ピッチの外では驚くほど控えめで大人しい青年は、ひとたびペナルティエリアに入れば、冷酷なまでの嗅覚で獲物の急所を突き刺す。
沖瀬の右足から放たれた柔らかい浮き球のパスが、ペナルティエリアの中央へ送られる。 響木はボールの落下点へ入り込むと、ボールをトラップすることなく、跳躍した。 空中で身体を捻り、右足の甲で完璧にボールを捉える。
必殺の、ジャンピングダイレクトボレー。
乾いた破裂音とともに放たれたシュートは、相手GKが一歩も動けないまま、ゴールネットの左上隅に深々と突き刺さった。
「ッッッシャアアアアアアアアアアアアアア!!!」 響木の咆哮が、ジンヤの夜空に響き渡る。 割れんばかりの大歓声がスタジアムを包み込む中、響木のもとへ、アシストの起点となった原野が底なしの体力で一番に飛びついてきた。南山も自陣から静かにガッツポーズを握り、門倉や近江たちとハイタッチを交わす。
試合はそのまま1-0でタイムアップを迎えた。 序盤の苦戦が嘘のように、ステラマーレ函館は勝ち点3をもぎ取った。 緻密な戦術眼で左から陣形を制御する南山。無尽蔵のスタミナで右を制圧する原野。二人の新戦力が完全にチームへ噛み合ったことで、函館の「堅守速攻」はJリーグの猛者たちをも凌駕する凶悪な牙へと進化したのだ。
「……ここからだ」 歓喜に沸くスタンドを見上げながら、響木が静かに呟く。 敗者の泥濘から這い上がってきた浅葱色の戦士たちが、Jリーグに恐るべき旋風を巻き起こす快進撃は、この星海陣屋の夜から本格的に幕を開けた。




