第一話 赤い靄(もや)と、蘇った詐欺師
意識が浮上した瞬間、鼻腔を突いたのは強烈な消毒液の匂いだった。
ゆっくりと重い目蓋を開ける。視界のピントが合うにつれ、無機質な白い天井と、規則的に脈打つ心電図のモニターが目に入った。
(……生きているのか。俺は)
馬鹿な。心臓を二発、確実に撃ち抜かれたはずだ。
裏社会の泥沼から足を洗い、最愛の女とまっとうな幸せを手に入れようとした矢先、かつての組織にハメられた。冷たい雨が降るアスファルトの上、絶望と怒りの中で意識が途絶えた。37年の、嘘に塗れたロクでもない人生。その幕引きとしては相応だと、どこかで納得していたはずだった。
「霧島さん! 目が覚めましたか!?」
駆け寄ってきた若い看護師の声に、俺は思わず眉をひそめた。
キリシマ? 誰だそれは。
だが、その疑問は数秒で氷解した。頭の奥底で、見知らぬ「他人の記憶」が弾けたからだ。
親の顔も知らず児童施設で育ち、日銭を稼ぐためだけに生き、騙されて背負わされた200万の借金。職場の正社員・木村という男に横領の罪を着せられそうになり、逃げ場を失って雑居ビルの屋上から身を投げた22歳の青年。
霧島誠一。それが、この弱々しい肉体の持ち主の「名」だ。
(なるほど。他人の身体に、俺の意識が上書きされたというわけか。……神様の悪戯にしちゃ、悪趣味すぎるな)
パニックにはならなかった。詐欺師にとって、不測の事態は日常茶飯事だ。現状を即座に分析し、生き残るために利用できるカードを探す。それが俺の唯一の生存戦略だった。
「霧島さん、わかりますか? 病院ですよ。わかりますか?」
「……ええ。わかります」
自分の声帯から出たとは思えない、若く、ひび割れた声。
俺は内心で、この身体の元の持ち主──霧島誠一に静かに語りかけた。
(安心しろ、霧島。お前を追い詰めた連中には、俺が地獄を見せてやる。俺にとっても、この『命』はあの組織に復讐を果たすまでの重要な軍資金だからな)
数日後の退院の日。
勤務先である不動産屋「ハウスサポート桐ヶ丘」の店長、渡辺が見舞いに来た。白髪交じりの、いかにも人の良さそうな50代の男だ。
「霧島くん、無理しなくていいからな。退院したばかりだし、しばらく休んで」
「いえ、来週から戻ります。ご迷惑をおかけしました」
「……本当に大丈夫か? 木村君や吉田さんも心配していたよ」
その瞬間だった。
渡辺の口元から、ふわりと**赤い靄**が漏れ出した。
血の霧のような、不気味で濃密な赤。だが、渡辺自身も、病室にいる看護師もそれに気づいていない。俺の目にしか映っていないのだ。
(なんだ、これは……?)
瞬時に脳を回転させる。渡辺は今、何を言った?
『木村君や吉田さんも心配していた』。
記憶の中の木村は、霧島を容赦なく脅し、死に追いやった張本人だ。心配などするはずがない。つまり、渡辺は場を丸く収めるための「建前の嘘」を吐いた。
(……嘘が、視覚化されているのか?)
退院手続きの際、担当医が「いつでも相談に乗るからね」と優しく微笑んだ時にも、同じ赤い靄が出た。ただの社交辞令の嘘だ。
詐欺師にとって、これ以上の「武器」はない。相手の「嘘」が完璧に見抜けるなら、俺はこの世界で無敵のペテン師になれる。
週明け。職場に復帰した俺を、木村は露骨な舌打ちと冷ややかな視線で迎えた。
昼休憩、人通りのない裏路地に呼び出された俺に、木村が凄む。
「おい霧島ぁ。なんで生きてんのよ。……お前、まさか警察に俺の名前を出してねえだろうな?」
俺はわざと背中を丸め、怯えたフリをして肩を震わせた。
「す、すいません……! 警察に飛び降りの理由をしつこく聞かれて、怖くて……!」
「てめぇ! どこまで喋った!? 俺が毎月20万ピンハネしてるってことまで言ったのか! 敷金・礼金を現金で受け取って、客には値引きしたことにしてるやり口まで喋ったのか!?」
馬鹿な男だ。焦るあまり、自分の罪状を自らペラペラと並べ立てている。
木村の口から、赤い靄は出ていない。つまり、これが真実だ。
そして同時に、**「なぜ、これほど単純な横領が長期間見逃されているのか」**という違和感が、俺の詐欺師としての嗅覚を刺激した。
「……いえ。具体的な方法までは、私も知りませんでしたから」
「チッ、ならいい。警察に聞かれたら、全部てめぇが一人でやったって言え。大人しく罪を被るなら、お前の200万の借金くらい俺が後で工面してやる」
真っ赤な靄が、木村の口から盛大に噴き出した。
工面してやる、が真っ赤な嘘だ。最初から俺に全責任を押し付けて、使い捨てる腹なのは見え透いている。
俺は、ポケットの中で回しっぱなしにしていたスマホの録音を止め、ゆっくりと画面をタップした。
『……俺が毎月20万ピンハネしてるってことまで言ったのか!……』
先ほどの木村の肉声が、静かな裏路地に響き渡る。
「なっ……! お前、録音してやがったのか! 返せ!!」
血相を変えて掴みかかってくる木村の腕を、最小限の動きでいなす。そして、がら空きになった鳩尾に鋭く拳を沈めた。前世で叩き込んだ総合格闘技の技術は、この細い身体でも十分に通用した。
「ぐぇっ……!」
「静かにしろよ、木村先輩」
俺はうずくまる木村の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。怯えきった霧島の顔はもう捨てた。そこにあるのは、冷酷に獲物をいたぶる詐欺師の眼だ。
「この音声データ、いくらで買う? 会社にバレれば懲戒解雇。警察に行けば実刑だ。お前の人生、いくらで買い戻す?」
「……ひ、ひゃくまん……」
赤い靄。
「ダウト。嘘吐きの口は縫い合わせるぞ。いくら出せる?」
「に、二百万……!」
赤い靄。
「……明日までに、200万を用意しろ。それと、会社への返済分だ。少しでも妙な動きを見せたら、このデータは即座に警察のサーバーに飛ぶ。分かったな?」
木村は涙目で激しく頷いた。
まずは、最初の資金調達の完了だ。
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