第52話『鬱展開に適性アリ』
結末は未定だが、だからといって悠長に立ち止まっている暇はない。
一発OKを貰ったプロットのままに日果がネームを着々と進めるのは「復讐心と罪悪感の板挟みでユキホが病み始める回」である。
先行きが分からないまま展開を進めることには不安もあるが、純粋にこの回は鬱展開としてクオリティが高い。ハッピーエンド前の矯めとしては欠かせないと思う。
「じゃあ水無月さん。ハッピーエンドの方針について思い浮かんだら遠慮なく何でも言ってね。私も作業しながら考えるから!」
打ち合わせの翌日。急遽集まったのは日果の部屋である。二度目ということでもう慣れてきたし、何より『万全の作画環境下で作業しつつ、並行して方針相談をできる場所』はここしかない。
「えーと……もちろん私もアイデアは出すんだけど、メインは日果だからね? あなたが心から『描きたい』って思えるものを探すのが先決で……」
「そうは言っても。私が今一番描きたいのは『水無月さんが喜んでくれるハッピーエンド』だから」
瞳子はニヤけそうになる口元を引き締めた。
なんだその殺し文句は。いじらしさが過ぎる。これだけの人気作に成長した『糖なく』のラストを、たかが一読者に過ぎない瞳子のためだけに捧げてくれるなんて。
だが――個人的には嬉しくとも、それではダメなのだ。もっと日果にはクリエイターとしてエゴを出して貰わなくては。
「日果ちゃん。お菓子とジュースの差し入れ持ってきたけど?」
と、そこでドアのノックが鳴った。
声の主はお義母さん――ではなく、日果の母親である。前回の訪問時は忘れ物を取りに一瞬だけ帰ってきたが、本当に一瞬だったのでついぞ対面の機会はなかった。
しかし今回は急な訪問ということもあり、とうとう普通に顔を合わせることとなったのだ。
「お母さんサンキュ。適当に廊下のあたり置いといて」
「ひ、日果っ。せっかく持ってきてくれたのにそんな雑な……すいませんお気遣いありがとうございます!」
瞳子は慌てて扉を開けて、直角に近い角度でお辞儀をした。その勢いにびっくりしたらしく、日果の母親も負けじと深くお辞儀を返してきた。
「そこまで畏まらないでください。こちらこそ本当にお礼を言いたくて……。あなたが友達になってくれてから、日果は本当に毎日楽しそうなんです。これまでちっとも興味のなかった学校行事にも積極的で。いつでも歓迎しますのでぜひ何度でも遊びに来てもらえれば」
日果によく似て、小柄で目の大きな女性である。しかし致命的コミュ障な娘を慮ってその友人を厚く歓待しようとするその心遣いは、サイコパスとは程遠い。
「ここ最近は本当に、口を開くたび『今日は水無月さんとこんな話をした』とか『こんなすごいアイデアをくれた』なんて――」
「お母さんっ。もういいから、私たちは打ち合わせで忙しいの。邪魔しないで」
「ああ、ごめんなさい」
貴重な日果の家庭内トークにぐっと身を乗り出した瞳子だったが、作業デスクから慌てて飛び出してきた日果がお菓子とジュースのお盆だけ奪い取り、すかさず母親を部屋から閉め出した。
その顔は珍しいことに、ちょっとだけ赤く染まっている。
意外だった。『友人と親が話すのが恥ずかしい』という標準的な思春期若者の感性は、日果にもしっかり備わっているらしい。
「ごめんね水無月さん。お母さんが変な話しちゃって」
「ううん。いい親御さんじゃない」
本当に日果のことを大事に想っているのだろう。友人ができたことを心から喜んでくれているのだろう。
――そう考えると、瞳子は胃が絞めつけられるような罪悪感を覚えた。
確かに自分は日果のことを大事な友達だとは思っている。が、下心がまったくないとは言えない。そういう目で見るまいと思ってはいるが、今も日果のベッドにダイブして枕をクンカクンカしてみたいという欲望がたまに顔を覗かせてしまう。非常に強固な理性で耐えてはいるが。
(もともと申し訳ない思いはあったけど、親御さんの信頼を浴びせられるとさらに来るなぁ……)
とはいえ『ごめんなさいお義母さん。私はあなたの娘をいやらしい目で見ています』なんて白状して謝るわけにもいかない。とんでもない事態になる。誰も幸せにならない。この疚しさは瞳子が一人で墓場まで持っていくべきものだ。
(そうだ。私の進路、日果に秘密でこっそり地方の大学とかにしようかな。そうすれば卒業後は自然に距離を置けるかも……)
このままべったり状態が続けばいつか瞳子が暴発しかねない。無理のないフェードアウト戦略を密かに練ってみるが、
「ねえねえ水無月さん。ハッピーエンド案はまだなんだけど、クーナが体調を悪化させる次回案は思いついたから聞いてくれる?」
「ん、いいけど」
「ユキホが遠くに逃げちゃうの」
瞳子はぴくりと身を揺らした。
「ええと、逃げるっていうのは……?」
「病んだユキホは『軍人たちの街』にクーナを残して夜中のうちに原付で逃げ出しちゃうんだ。もうクーナをどうしたいか自分でも分からなくなっちゃったから。どんな顔で向き合えばいいか分からなくなったから。もう全部なかったことにしようと思って」
死ぬほど共感できる展開だった。
たぶん同じ状況なら瞳子もパニックで逃げるかもしれない。というかたった今、まさに逃げの算段を考えていたところだ。
「でもね、朝起きたクーナはユキホを探すため一目散に街を飛び出すの。原付移動のユキホに追いつくため、『餓鬼』としての身体能力を最大限に発揮して。力を使い過ぎたら過剰代謝の代償で肝臓と腎臓がダメージを受けるのに。そんなこと少しも顧みないで、ごっそり寿命を削ってボロボロになった状態でユキホに追いつくの。そしてクーナはユキホのことを責めも怒りもせず、ただそっと抱き着いて意識を失っちゃうんだ。当然、軽率な夜逃げでクーナをそんな状態に追い込んじゃったユキホはもう精神崩壊寸前」
そうか。逃げても追ってくるのか。そこまで必死に追ってくるのか。責めも怒りもせず抱き着いてくるのか――ではなく。
現実とフィクションを混同して妄想に浸りかけていた瞳子は、頭を振って意識を現実に引き戻した。
――前回から薄々察してはいたが、こいつ鬱展開上手いな?
ハッピーエンド前の谷底という建前ではあるが、鬱エピソードを描くときは妙に筆が乗っている。出てくるストーリーにもほとんど非の打ちどころがない。
今回のもそうだ。いきなりクーナが何の脈絡もなく体調悪化してはシナリオ上の都合と見えかねないところ、「病んで逃げだしたユキホを追いかけてクーナも身体を酷使してしまう」という説得力ある地獄の連鎖を見せつけてきた。
「っていうのが次回予定なんだけど、どうかな水無月さん?」
「……うん。かなりいい。クーナが身体を壊す理由としては最高に地獄と思う」
「最高に地獄?」
「鬱展開としてすっごく上出来ってこと」
「やった!」
日果はペンタブと向かい合いながら、無邪気そうに声だけで喜んでいる。
その背中に――瞳子はふいに湧いた疑念を投げかける。
「あのさ、日果。ちょっとだけ聞きたいんだけど」
「うん?」
日果がハッピーエンドを目指すようになったきっかけは瞳子のリクエストだ。瞳子がサインを求めた際『ユキホとクーナが仲良く幸せそうに笑い合ってるイラストが欲しい』と言ったから、それをそのまま結末の方針にしてくれた。
しかし、もしかしたら日果自身は――
「もしバッドエンドにするとしたら、どんな展開にするとかアイデアある?」
内心で『そういう展開』の方を描きたいと思っているのかもしれない。




