第17話 優しい罪人
――意識が、遠い
うっひょ~w
誰かが笑った。
何で唄ってんだ?
そういうものなの
あんな子が?
すぐ傍で聞こえているはずなのに
水の底から拾うみたいに
くぐもっていた。
ねこが震えて
今にも消えそうなのに
どうして見ていられるの?
声が
笑う声が
関係ないと言い捨てる声が
胸の中を引っ掻いていく。
けれど、その中に――
動いてよ!
どうして?
許して……
酷い唄だね
それが私の記憶なのか
誰かの想いなのか
もう、解らなかった。
ただ
冷えきっていた場所へ
じわりと沁みていく。
凍っていたものが
少しずつ……
そのぬくもりが
水面の波紋みたいに
ふわり
ふわりと広がって――
ぱち、
ぱち、
焦げた木と
魚の焼ける
香ばしい匂いが漂ってくる。
あったか~♪
おいしいね♪
にゃ~♪
んめぇ~
笑い声が
火の粉みたいに飛び交う。
寄り添う影
丸くなった背中
揺れる尻尾
誰かの肩に、誰かの頭が乗っている。
ふ……と赤い灯りが
ほどけた
笑い声が、煙みたいに薄れて
輪郭が、滲んで……――
気付けば
食卓は空っぽだった。
器だけが、残っている。
なにか、たべたい……
手がキンキンだよぉ
お乳が……出ない
もう……
胸が、ぎゅう、と縮まった。
ふいに
目の前へ
差し出された。
湯気が立っている。
焦げた皮が、ぱり、と割れて
白い身が覗いている。
食べる?
いいの?
気にするにゃ♪
その声は
やけに
酷く、心地よかった。
どうして
幸せになるのは
こんなにも簡単なのに
あったかい火があって
笑い合えて
困っていれば助け合う。
それだけで
充分なはずなのに。
それ以外
何もいらないはずなのに――
そう、思った瞬間
ぶつり、と
世界のどこかが切れた。
闇が、落ちて来た。
空からではない
足元からでもない
もっと、内側
胸のいちばん深いところから
どろりと溢れて
世界を覆い尽くした。
光が消え
火の温もりも
魚の匂いも
笑い声も
全部
残ったのは――
……何?
膝が崩れ、手で胸を抑えた。
ずっとひとり、置き去りにされていたみたいな
待ちわびていたみたいな
永遠のような時間を――
「ごめんね……」
気付いて、あげられなくて
「ほんとうに、ごめんね……」
そっと、抱きしめた。
第17話 優しい罪人
頬を、ざらりとしたやわらかなものが撫でていく。
ごろごろと、心地のいい音
重たい瞼を、ゆっくりと開いた。そこには――
みゃぅ~
甘えたような、細い声
みるみる滲んでいく、その姿
両腕を広げる。
飛び込んで来た骨ばった身体は、ちゃんと、あたたかかった。
――生きていてくれた
それだけで、胸の奥が暖かくなっていく。
でも
どうして……?
私、確か――
「目が覚めたかい」
しわがれた、けれど芯の通った声
顔を上げると
そこに居たのは、一人の老婆だった。
薄く、青みを帯びた瞳
真っ白でふわっとした短い髪
身に纏う幾重にも重ねた古布は、どれも色褪せているけれど
どこか、安心できた。
一目でわかる。
この人が
助けてくれたんだと
「っ………」
口を開くも、掠れた声すら出せなかった。
「お飲み」
皺と土が刻まれたような手には、湯気の立つ器――
思わず顔が引きつった。
何とも形容し難い、強烈な匂い
覗き込むと……
どす黒いどろりとした液体が、なみなみと注がれていた。
みゃぁぁぁ~~~
茶虎が、今まで聞いたこともないような甘えた声を出して身を乗り出した。
身体をくねらせ、鼻を近づけ、尻尾はアンテナのように立っていた。
「お前はさっき飲んだろ」
老婆にぴしゃりと言われ、シュンと耳と尻尾を垂らした。
「熱いでな」
そう言って器を私の手に乗せ――
匂いが、まともに顔面へぶつかってきた。
「っ……!」
幼い声が聞こえる。
「ままぁ、鼻が曲がりそう」
「……良薬、口に苦しっていうのよ?」
「ま? うち、目も染みて来たんですけど」
周囲を見回すと、いつの間にか人だかりが出来ていた。
みんな、信じられないものを見るような目でこちらを見つめ
露骨に鼻をつまんでいる。
「薬はね、美味かったら薬じゃないのさ」
老婆がしれっと言った。
でも……
見た目と匂いが酷いだけで、意外とそうでもないのかも?
茶虎だって、あんなにオカシクなってるし……
うん、きっと大丈夫
ねこが、大丈夫なんだから!
意を決し
一気に
器を傾け――
「――っっ!?」
「まさか一気に呑んじまうとはね。気に入っ………――
声が、遠くなり
幼い記憶が
走馬灯のように蘇る―――
山に、大きくて美味しそうな柿と、小さな柿がなっていた。
私は迷わず、大きい方に飛びついた。
(…それは、渋いぞ)
「えー、べつにいいもんっ」
月影の忠告を無視し、木に登り…
「うえ~ん、渋いよぉぉぉ」
(…ほら、これを)
「ありがとぉ、つきかげぇ」
けれど、その後何を食べても味が分からなくて
ただ
渋いの意味だけが、解った。
―――
水たまりがココアみたいに見えた。
「美味しそう♪」
手ですくい
(…よせ、ルナ!)
珍しく強いその言葉も、空腹には勝てなくて口に寄せた。
「うわ~~ん、まじゅいいい」
(…吐き出せ!)
頑張って戻したけれど、三日三晩、腹痛で寝込んだ――
――それらを遥かに凌駕する”衝撃”だった。
月影、これ何??
いつもみたいに、問いかけて
…
期待した優しい声は
返ってこなかった。
私を現実へと引き戻すには
充分だった。
胃の中で暴れ回るこの“刺激”よりも
心の方が
ずっと
痛かった。
「一体どんな因果があれば、こんなにも魂をすり減らせるんだろうねえ」
……え?
耳を、疑った。
老婆は、こちらではなく――毛布の中を見ていた。
「それって……月影の事?」
そこから取り出し、抱き上げた。
老婆は皺だらけの目を細め
「月影……良い名だね。で、何があった?」
瞬間
「教えて、どうすれば目覚めるの!?」
気付いた時には、老婆の肩を掴んでいた。
けれど、老婆は慌てることなく、ただ首を横に振った。
「そりゃ、あたしにだって解らんさね」
「……そんな……」
掴んだ腕が、だらりと下がった。
「まあ、でも少しは元気になったみたいだね」
「え……?」
言われて、はっとする。
身体が、ぽかぽかしている。
声が、出せている。
頭の中は正直ぐちゃぐちゃだけれど
さっきよりずっと、はっきりしている。
「あ……」
あの、変な薬
「ありがとうございます!」
弾かれたように、深く頭を下げた。
ぼさぼさの髪が、ふわっと大きく浮き上がる。
ゆっくりと肩に落ち
そこで、固まった。
返せるものが、何もない……
お金も
能力も……
掛けてくれた赤いストールを、きつく握った。
「あの…わたし――」
「お黙り」
びくっ、と肩が跳ねた。
それは
今までにない厳しい口調だった。
「みくびるんじゃないよ」
訪れる静寂
耐え兼ねて
そろそろと顔を上げると
薄く、青みがかった瞳に射抜かれていた。
目を、逸らせなかった。
その、全てを見透かしたかのような瞳には
曇り一つ
無かったから。
やがて、その視線を私から外し
周囲を……いや、虚空を見つめるかのように
「倒れてる子供に背を向けるほど、あたしゃ腐っちゃいないさ。
…罪人だと言われようがね」
その声は大きくはなかった。
けれど、妙に遠くまで届いた気がした。
ふいに
鳴り響く、サイレン
ぞわりと、背筋が冷えた。
それでも
その横顔から、目が離せなかった。
時折揺れる赤いストールだけが
灰色の街の中
やけに鮮やかだった。




