はじまりの唄
最初の記憶は
微笑みだった。
つられるように、私も笑った。
―――
「おかあさん! おとうさん!」
伸ばした手は
白い手袋に遮られた。
思い出せない
二人の言葉
ただ
扉の閉まる音だけが
鮮明だった。
―――
腹を出し、顔を真っ赤にした男が臭い息を吐いた。
「メシをくれだぁ? なら働け」
錆び付いた鉄の扉が開くと
さっきの口臭が霞むほどの異臭が鼻を刺した。
息が
うまく吸えない。
暗がりの中で
何かが動いた。
明かりが付くと
そこは
地獄だった。
床を
埋め尽くす
動物達
毛は
糞尿塗れで
固まった汚れで絡まり
皮膚は
ところどころ
剥がれ落ち
痩せ細った背中には
痛々しく浮かぶ背骨
引きちぎろうと藻掻いたのか
繋がれた部分は特に赤黒くただれ
その傷口には
白いものが
うごめき――
不快な羽音が
耳元を掠めた。
視線を上げると
天井も
壁も
無数の
黒い点で、覆われていた。
一匹の犬が
私を見て
鳴いた。
それは
もう、鳴き声ではなかった。
「片付けとけ。もし面倒起こしたら、ぶっ殺すからな」
背後で
金属の扉が閉まる音
私は
立っていることしか
出来なかった。
足元に
ねこが倒れていた。
そのお腹に、小さな影
黒いこねこが顔を埋めていた。
必死に
縋るように
求めるように
けれど
そのねこは、もう
何も返さない。
気付けば
指先が冷たかった。
ぬめった毛の感触。
小刻みな振動。
私は
黒いこねこに触れていた。
ふいに
指先が、熱くなり
赤が、ぽたりと落ちた。
見れば、裂けていた。
荒い息遣いに
視線を落とすと
こねこが
真っ黒な毛を、逆立てていた。
目ヤニだらけの蒼い目を
私に向け
背後のねこを
護るかのように
必死に
「……ねぇ、かみさま」
勝手に、言葉が零れた。
「おしえてよ」
赤く滴る指先を伸ばすと
小さな牙が食い込んだ。
けれど
それは
あまりにも、弱々しかった。
「どうして」
微かな痛みは
やがて
ほどけた。
「どうして……こんなせかいをつくったの?」
倒れた黒い身体に
雫が零れた。
―――
開け放たれた檻と扉の前で
こねこを抱いていると
恐ろしい罵声
顔を
腹を
背中を
何度も
何度も
抗いようのない衝撃が貫く。
激しく揺らぐ世界の中で
「だいじょうぶ…だよ……」
くの字になり、震える身体を
抱き締め続けた。
―――
(…相変わらず、無茶をしているな)
朦朧とした意識の中、声が響いた。
瞼を開こうとしたけれど
持ち上がらなかった。
だ、れ……?
(…名など、無い)
その声はどこか、私以上に苦しそうで
ない、てるの?
手を伸ばそうとしたけれど
指先一つ、動かせなかった。
ごめんね……
でも、おねがい…たす、けて……
(…すまない。それは、出来ない。 だが――)
わたしが
わるい子だから……?
(…何?)
だから
おかあさんも
おとうさんも
この子も
みんな
いなくなるの……?
(…違う)
(…お前は、悪くない)
それは
さっきよりも、ずっと
苦しそうだった。
ほん、とう?
(…ああ)
でも……
やっぱりわたしは、わるい子だよ
(…何故、そう思う?)
だって…きみにも、この子にも…なんにも、してあげられないんだもん……
なでてあげることも、できないの……
(…本当に、変わらないな)
……?
(…唄ってやれ)
え?
(…お前は、それが出来る)
どういう、こと?
(…何も、出来ないなんて事はない。そういう事だ)
……でも
うたなんて、うたったことないし
なにをうたえばいいのかも、わからないよ
考え込むかのように
その声はしばらく黙り
やがて
優しい声が響いた。
(…唄とはな。上手く並んだ言葉でも、巧く歌う事でもない)
(…そう。今、お前の胸にある想いを口にする。ただ、それだけなんだ)
それだけで、いいの?
(…ああ)
……うん。じゃあ……やってみる
自分の想い。
その最初のひとつを、声にしようとして――
「…っ!」
喉に、激痛が走った。
それでも、腹にありったけの力を込め――
「がはっ……!」
熱いものがせり上がり
鉄みたいな味が、口から飛び出した。
(…大丈夫だ、落ち着け)
だめ、もう――
(…すまない。言い方が悪かった)
え?
(…声に、出す必要は、ない)
そう、なの?
(…ああ。今俺と話しているように、ただ、想うだけでいい)
(…すまない、こういう説明は……苦手なんだ……)
……ううん。だいじょうぶ、だよ?
「すまない」そう彼は、続けて謝った。
それが
本当に、申し訳なさそうで
何故だか
無性に
胸を締め付けられた。
だから
私は
この苦し気で不器用な誰かと
胸の中で震える小さな命に
想いを馳せた。
♪
つらいね
くるしいね
ごめんね
なでてあげることも、できなくて
ごめんね
そばにいることしか、できなくて
もし……
もしも
かみさまが
うまれかわらせてくれたなら
こんどは
あたたかいせかいだと
いいね
そのときは
いっぱい、いっぱい
あそぼうね
♪
胸の奥で
何かが
微かに、震えた。
――ごしゅ、じん……?
痛くて
苦しくて
どうしようもなかった身体が
少しずつ
少しずつ
和らいでいく。
あの
微笑みのような
愛しさに包まれ
幼い私の意識は
遠のいていった。
(…すまない)
(…赦さなくていい)
(…それでも、俺は――
狭間に響いた声は
とても
とても
苦しそうだった。
「つき…かげ……?」
重い瞼をあけると
滲んだ天井。
窓を揺らす
冷たい風の音。
(…ルナ。泣いているのか?)
覗き込んできたのは
あの日と変わらない
いや
あの時よりも、もっと傷だらけになった
大きな、毛の長い
赤い瞳の黒猫。
「ううん……大丈夫、だよ」
(…そうか)
胸元の欠けた月のプレートが、哀しく煌めいた。
「おはよう、月影。今日こそは、たくさん稼ぐよ」
(…ああ)
さっきまで見ていた夢は
何ひとつ、思い出せなかった。
ただ、胸の奥が痛かった。
お読みいただきありがとうございます。
今後もルナ達を見守っていただければ幸いです。
ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
はやく世界征服、させてあげたいにゃぁ。




