第19話:凍てつく夜の焚き火、焦げた願い 【リノ】
「アレン、動かないで。傷口が開いちゃうから」
氷の洞窟に、私の震える声が響いた。
猛吹雪を避けて転がり込んだ、霊峰『竜の顎』の中腹にある小さな空洞。ガルドさんが氷の壁を作って風を塞ぎ、セト君が少ない魔力で熾してくれた焚き火の明かりだけが、私たちの命を繋ぐ唯一の熱だった。
私は、火の傍に座り込むアレンの左肩に、震える手でポーションを振りかけていた。
古代竜の爪を受け流した時にえぐられた傷は、私の想像を絶するほど深かった。
分厚い外套ごと肉が裂け、白い骨が微かに覗いている。
普通の人間なら、ショック死するか、痛みに狂って泣き叫んでいるような重傷だ。
「すまない、リノ」
だが、アレンの声は、まるで他人の怪我の報告でも受けているかのように、ひどく平坦で静かだった。
彼は痛みに顔をしかめることすらしない。ただ、彼の視線は、自分の傷ではなく、傍らにそっと置かれた『木製の棺』にだけ向けられていた。
「すまないじゃないよ……っ、バカ。こんな大怪我して、痛くないの?」
私は涙声になりながら、清潔な布で彼の傷口をきつく縛り上げた。
わざと、少しだけ力を込めて。彼が「痛い」と言ってくれることを、彼がただの血の通った人間に戻ってくれることを祈って。
何か言いたかった。けれど、声にしたところで彼の耳には届かないと分かっていた。
しかし、彼はピクリとも動かなかった。
痛覚すらも、あの聖剣の呪いか、あるいは彼自身の異常な精神力によって麻痺してしまっているのだろうか。
彼はただ、右手の指先で、棺の表面についた微かな氷の結晶を愛おしそうに拭い取っていた。
『自分が盾になって器を守る』
セト君の師匠である魔女のお婆ちゃんが言っていた言葉が、私の胸を鋭く締め付けた。
アレンは本当に、エリスさんを守るためなら、自分の体をただの「肉の壁」としてしか見ていない。
彼にとって、自分の命は彼女を救うための消費アイテムに過ぎないのだ。
「お疲れ様、リノちゃん。あとは俺が魔力で少しだけ止血を助けておく」
セト君が、薬瓶を片手に隣へ座り込んだ。
「ガルドのおっさんも、外の警戒をしながら休んでる。
あのトカゲのおっさん、古代竜のブレスを正面から受けて鱗が黒焦げなのに、『水鱗族の誇りにかけて、あの男の背中は守る』とか言って笑ってやがったよ。馬鹿の伝染病だな、全く」
セト君は悪態をつきながらも、その手つきは驚くほど優しくアレンの傷を癒やしていく。
「おい、元・英雄様。
てめえ、少しは自分の命を惜しんだらどうだ。
てめえがここで死んだら、誰がその箱の中のお姫様を温めるんだよ」
セト君の刺々しい、けれど確かな気遣いが込められた言葉に、アレンはゆっくりと瞬きをした。
「俺は、死なない」
パチパチとはぜる焚き火の音の中、アレンの掠れた声が響いた。
「こいつの呪いを解くまでは。
俺の命がどれだけすり減ろうと、絶対に、死ぬわけにはいかない」
「どうして」
気がつけば、私は口を開いていた。
ずっと聞きたかった、でも聞くのが怖かった質問。
「どうしてそこまで、エリスさんのために自分を壊せるの?
世界を救った英雄なら、もっと楽に、誰かに頼って生きる道だってあったはずなのに……どうして、たった一人でこんな地獄を歩き続けられるの?」
私の問いに、アレンは静かに目を伏せた。
焚き火の揺らめく光が、彼のやつれた横顔に深い影を落とす。
「俺は、英雄なんかじゃない」
ぽつりと、彼が口を開いた。
それは、数年間の旅の中で、彼が初めて語る「自分の内側」の言葉だった。
「俺はただ、臆病で、弱くて、死ぬのが怖かっただけの、ありふれた村の子供だった。だけど、あの剣(聖剣)を抜いた日から、世界は俺を人間として扱わなくなった。
誰も俺に近づかず、俺も誰も信じられなくなった。……自分が、剣を振るうためだけの『空っぽの鞘』になっていくのが、恐ろしかった」
アレンの右手が、無意識に左胸のあたりを強く握りしめた。
「でも、こいつ(エリス)だけは違った。世界中が俺を神様だと讃える中で、こいつだけは、俺を『泥だらけの大馬鹿野郎』だと怒鳴りつけて、無理やりに人間の世界へ引きずり戻してくれたんだ」
アレンの瞳に、ほんの微かな、けれど確かな『熱』が灯るのを私は見た。
それは、私には決して向けられることのない、深く、重く、そして純粋すぎる執着の炎。
「こいつは、俺が人間として生きるための、最後の『心臓』なんだ。
だから……こいつが冷たい氷の中で眠っている限り、俺の世界は終わったままなんだよ」
その言葉を聞いて、私はもう何も言えなくなった。
セト君も、静かに息を吐いて薪をくべる手を止めていた。
ああ、負けた。
最初から勝ち目なんてなかったのだ。
私がどれだけ明るく笑いかけても、どれだけ甲斐甲斐しく世話を焼いても、彼の中にあるエリスさんの居場所を奪うことなんて絶対にできない。
彼女は、アレンの命そのものなのだから。
「そっか」
私は、無理やりに口角を上げて、とびきり明るい声を出した。
「なら、絶対にその心臓を動かさなきゃね! 明日、山頂に行って、那個『原初の残り火』ってやつをランタンに詰めて、さっさとエリスさんを起こしてやろうじゃない!」
私はタンバリンをポンッと叩き、立ち上がった。
胸の奥が軋むように痛かったけれど、私は踊り子だ。泣き顔なんて、絶対に見せてやるものか。
「セト君も、ガルドさんもいる!
アレン一人じゃないんだから、全部背負い込もうなんて思わないでよ! 私たちが、絶対にお前の背中を押してやるんだから!」
私の強がりに、セト君が「やれやれ」と肩をすくめて笑い、入り口で聞いていたガルドさんが「応ッ!」と低い声で吠えた。
アレンは、少しだけ驚いたように私たちを見つめ、そして。
ほんのわずかに、数年ぶりに。
その血の気の引いた凍りついた唇を、ひどく不器用に、けれど確かに「かつての村の青年」の顔に歪めて、小さく「ああ、頼む」と頷いたのだった。
あの無機質な殺戮兵器の体に、間違いなく『人間・アレン』の鮮やかな血が通い始めた瞬間だった。
翌朝。
猛吹雪が嘘のように晴れ渡り、霊峰『竜の顎』の頂が、雲海の上にその荘厳な姿を現していた。
私たちは氷の斜面を登り切り、ついに山頂のカルデラへと足を踏み入れた。
そこは、周囲の極寒とは裏腹に、地熱で岩肌が赤く染まり、硫黄の匂いが立ち込める異様な空間だった。
古代竜の巣だ。
昨日の戦闘で手負いとなった古代竜は、おそらくさらに奥深くへと逃げ込んだのだろう、姿は見えなかった。
そして、カルデラの中心。
巨大な黒曜石の祭壇のような岩の上に、それはあった。
「あれが、『原初の残り火』」
セト君が、息を呑んで呟いた。
岩の上に浮遊しているのは、拳大の、しかし直視できないほどにまばゆい黄金の光だった。
炎というよりは、太陽の欠片がそのままそこに存在しているかのような、圧倒的な熱量と神々しさ。
近づくだけで、私たちの防寒具の表面がチリチリと焦げ始める。
「アレン。箱を降ろせ。ここから先は、俺の仕事だ」
セト君が懐から、魔女に託された鈍色の『封絶のランタン』を取り出した。
アレンは無言で頷き、雪の上にそっと棺を降ろすと、私たちと共に数歩後退した。
セト君が、慎重な足取りで黄金の炎へと近づいていく。
ランタンの口を開き、魔力を練り上げて、その神話の熱量をゆっくりと、少しずつ檻の中へと誘導していく。
一歩間違えれば、セト君の体ごと一瞬で灰になる極限の作業だ。
額から滝のような汗を流し、唇を噛み締めながら、彼は不器用な魔術師としての全神経を集中させていた。
「入れ、入れよ……っ!」
黄金の光が、ランタンの金属の檻の中に吸い込まれていく。
カキンッ!
最後に小気味良い音を立ててランタンの蓋が閉じられた瞬間、周囲を包んでいた圧倒的な熱波が嘘のように消え去った。
「やった……! 入ったぞ、アレン!!」
セト君が、黄金に輝くランタンを高く掲げて叫んだ。
その瞬間、アレンが弾かれたように走り出し、セト君の手からひったくるようにランタンを受け取った。
「エリス」
アレンはランタンを両手で包み込むように持ち、雪の上に置かれた棺の傍らへ膝をついた。
黄金の光が、棺の表面の氷を微かに照らし出す。
数年間、泥水を啜り、修羅に堕ち、全てを捨てて追い求めてきた「解呪の鍵」が、今ついに彼の手の中にあるのだ。
「よくやった、お前たち」
ガルドさんが、傷だらけの腕を組んで深く頷く。
私も、胸の前で両手を組み、祈るようにその光景を見つめていた。
これで、終わる。
アレンの絶望の旅が終わり、エリスさんが目覚める。
私の初恋は確実に終わるけれど、それでも、彼のあの空洞のような瞳に光が戻るなら、それでいい。
帝国暦846年。霊峰『竜の顎』山頂。
私たちはついに神話の熱を封じ込め、長きにわたる泥だらけの旅の、一つの終着点へと辿り着いたのだった。
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