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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第121話:白陽のずらし、もうひとつの座り先 【セリア】

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昼へ近づくほど、人は `うまくいった形` を信じ始めます。


北影の空気が少しだけ穏やかになった、そのこと自体が私は怖かった。


夜のあいだは誰もが必死でした。

祈れば壊れる。

呼べば偏る。

寄りすぎても、見すぎても、助けすぎても駄目。

そういう切羽詰まった局面では、人はまだ `正しいやり方` を欲しがる余裕がありません。


けれど昼前になると違う。

持った、と思ってしまう。

一度通った、と感じてしまう。

そうすると、昨日の綱渡りはすぐに `今日の手順` へ変わりたがる。


トビアが見本の板木を叩き落としたあとも、私は北影の内を見ていて、別の種類の嫌さを感じていました。


誰も図にはしない。

誰も大きな意味も足さない。

それでももう、部屋のほうが少しずつ `ここ` を覚え始めていたのです。


少女がいま座っている場所。

カイルの `左` が届きすぎない位置。

ミナの湯気が湯気にならない距離。

リノの無駄口が重くならない石の高さ。

レオンの視線が入らず、しかし入口は見える角度。


全部が、良い。

良すぎる。

良すぎるから、そのまま守りたくなる。

守りたくなった時点で、次の檻が始まる。


私はその感覚を、白陽で何度も見ました。


白陽の収容房は、鉄格子より先に `正しい座り先` を作ります。

どこへ膝を置けば楽か。

どこに器が来れば従いやすいか。

どこから話しかければ、視線が逃げにくいか。

出口は塞がなくていい。

代わりに、出口より楽な正解を一つだけ作ってやれば、人は自分からそこへ収まる。


だからこそ、私は `一つだけ正しい形` が嫌いでした。

それが優しさの顔をしている時ほど、なおさら。


北影の中で、三位一体の少女は今、ひどく静かに座っていました。

昨日とも、さっきとも少し違う `今日の座り方`。

皺はそのまま、湯は差し出されず、石は返し場所でしかなく、誰も名を呼ばない。

その不完全さの中で、ようやく自分の身体を置いている。


そこへ皆が `今のままでいい` という形で手を貸し始めたら、終わりです。


私は壁際の低い石へ腰を下ろしたまま、その場を一つずつ眺めました。


ミナは湯を置く位置を、無意識に前より一定にし始めている。

ほんの指二本分、前回通った位置へ寄っている。

責めるほどではない。

けれど、侍女の手は優秀すぎる。優秀な手は、成功した距離を覚えてしまう。


カイルは左を出しすぎない。

それはいい。

でも、引き際まで覚えたせいで、今度は `ここまでは近づいてよい` の線が綺麗になりかけている。


リノは喋りすぎない。

けれど、その `ちょうどよく雑な拍` が、同じ石、同じ高さ、同じ横顔の角度へ落ち着き始めていました。


誰も悪くない。

全員がうまくやりすぎているだけです。


「……最悪」


思わず口から漏れると、近くでリノが反応しました。


「なに、あたし?」


「全員です」

私は答えました。

「私も含めて」


リノは笑いませんでした。

その代わり、目だけ細めてこちらを見ます。

「その言い方、なんか嫌なやつね」


「嫌な話ですから」


ミナが湯器を抱えたまま、わずかに眉を寄せました。

「何が見えたの」


私は少し迷いました。

ここで説明しすぎると、それ自体がまた新しい正解になります。

けれど、黙っていては全員が善意のまま同じ場所を磨いてしまう。


「座り先が一つに寄っています」

私はなるべく乾いた声で言いました。

「今の位置。今の角度。今の距離。全部が `これが今日の正解` の顔をし始めている」


カイルが小さく顔をしかめた。

「それの何が悪い」


私はその問いを、嫌になるほど知っていました。

白陽で何度も聞いた問いです。

整っているなら、いいではないか。

落ち着いているなら、いいではないか。

逃げないなら、暴れないなら、従うなら。


「一つだけ楽な形は、すぐ命令になります」

私は言いました。

「いまは本人が選んでいても、明日には部屋のほうが `ここにいろ` と言い始める」


リノが膝を抱えたまま、面倒くさそうに息を吐く。

「あー。分かった。要するに、居心地が良すぎると駄目ってこと?」


「少し違います」

私は首を振りました。

「`ここが正しい` と皆が思えることが駄目です」


レオンが入口の側から口を挟みました。

「じゃあどうする」


私は北影の床を見ました。

裂いた自分の外套。

セリアがわざと残した、ではなく、私がわざと残した皺。

返し場所の石。

欠けた留め具。

どれも `今の場所` を支えている。

だから、ここへもう一つ、正しくない選択肢を作るしかない。


「もう一つ、座れる場所を作ります」


ミナがすぐに反応します。

「増やすの?」


「整えません」

私は言い切りました。

「増やすのではなく、ずらす」


私は立ち上がり、リノがいつも背を預けているひび割れた石の前へ行きました。

そこは喋るには都合がいい。

入口も北影の内も、どちらも見えすぎず見えなさすぎない。

だからリノが無意識に選んでいたのでしょう。


私はそこへ自分の裂いた外套の残りを、今度はきちんと敷かずに、折り目を二つだけ残したまま投げました。

白陽の白は内側へ折り込み、泥を吸った裏地だけを上へ出す。

座れば少し冷たい。

壁には寄りかかれるが、寝床の延長には見えない。

返し場所も湯も近すぎない。

だが、北影の中心から半歩だけ外れた `もう一つの置き場` にはなる。


カイルが私の手元を見て、怪訝そうに眉を寄せた。

「そこ、座りづらそうだな」


「そうです」

私は答えました。

「座りやすすぎると、次の正解になります」


リノが吹き出す。

「うわ、最低。わざと半端」


「半端でいいんです」


次に私は、少女の今いる場所のすぐ横にあった小さな温石を、あえて半歩だけ北へ逃がしました。

遠すぎて頼れないほどではない。

でも、今の座り先にぴたりと沿う熱ではなくなる。


ミナが息を飲みます。

「そこは今、ちょうどよかったはず」


「だからです」

私はミナを見ました。

「侍女は `ちょうどよかった` を覚える。白陽はそこへ手順を置く。今日のちょうどは、明日の命令になりやすい」


ミナの口元が強く結ばれました。

痛いところへ触れたのでしょう。

けれど、彼女は反論しませんでした。

あの女ももう知っているのです。良い世話ほど、人を返さなくすることがあると。


私は入口寄りの薄布にも触れました。

閉めるのではありません。

逆に、ほんの少しだけ隙を増やしました。

風が入るほどではなく、しかし `出ていけない壁` にも見えない程度に。


レオンが低い声で問います。

「そこを開けるのか」


「出口を見失わせないために」

私は言いました。

「見える出口は、逃走路ではなく選択肢です。なくなると、人は部屋に従います」


リノが感心したように口笛を吹きかけて、途中でやめました。

「アンタたちのところ、ほんと感じ悪い知識ばっかね」


「ええ」

私は答えます。

「だから、使い方を間違えたくない」


しばらく、誰も動きませんでした。

私自身も、動きすぎないようにしました。

二つ目の置き場を作ったからといって、そこへ誘導したら意味がない。

北影が `移れ` と命じる部屋になったら、最初の失敗よりひどい。


だから待つ。

待つのは嫌いです。

白陽では待つより先に整えろと教わりました。

選ばせる前に導線を敷け、と。

けれどいま必要なのは、その逆でした。


少女はすぐには動きません。

黄金の目は半ば閉じ、黒い翼の泥は床へつかない程度に持ち上がっている。

さっき自分で選んだ `今日の座り方` を、身体の中でまだ試しているのでしょう。


私は息を殺しました。

自分でも驚くほど、そこで祈りたくなった。

どうかこのまま、と思ってしまった。

けれど `このまま` を願うこと自体が、もう一つの命令です。

私は唇の内側を噛み、何も言わずに立っていました。


最初に動いたのは、翼でした。


泥の片翼が、床からほんの少しだけ離れ、今までと逆側へ重心を移す。

次に、少女の左膝が皺の谷をまたがないよう、半歩だけずれた。

完全な移動ではありません。

座り直しというより、`今いる場所だけが全部ではない` と身体で確かめるような、そんな小さな動きでした。


その動きの先が、私の置いた外套のほうへ向いていると気づいた時、胸の奥が嫌なほど痛みました。


嬉しいのではない。

ほっとしたのでもない。

ただ、昔なら私たちが奪っていた `次にどう居るか` の決定が、いまはまだ本人の側にあると分かっただけです。


少女の指先が、裂いた外套の皺へ触れました。

座るわけではない。

でも、冷たさと布の厚みを確かめるように、二度だけなぞる。

それから彼女はそちらへ完全に移ることもなく、元の位置へ戻ることもなく、二つの置き場のあいだに半端な角度で身体を残しました。


綺麗ではありませんでした。

見栄えも悪い。

どこにも定まっていない、中途半端な姿勢です。


私は、その中途半端さに救われました。


カイルがようやく、小さく息を吐きます。

「……決めなかったな」


「ええ」

私は頷きました。

「それでいいんです」


ミナは何も言いませんでした。

ただ湯器を抱える手の位置を、今までよりほんの少しだけ下げる。

差し出しやすい高さから、持っているだけの高さへ。

それを見て、私はこの女もちゃんと分かっているのだと思いました。


リノは、いつもの石ではなく、少し離れた床へそのまま腰を下ろしました。

わざとでしょう。

あれもまた、`あたしのいつもの位置` を作らないための気遣いです。

軽そうに見えて、案外こういう時に抜け目がない。


レオンも入口の立ち位置を半歩だけずらしました。

塞がない。見張りすぎない。けれど前と同じ角度にも立たない。

誰も打ち合わせていないのに、部屋の中から `同じにしない` がじわじわ広がっていく。


不思議なものです。

白陽では、正しさは上から降りてきました。

ここでは逆に、一つ決めないと周りも少しずつ決めなくなる。

その広がり方のほうが、ずっと人間らしい。


私は裂けた外套の白が裏側に隠れているのを確かめました。

もし表へ出ていたら、あれはまた `騎士が整えた目印` になる。

今日はそれも嫌でした。


「セリア」

リノが、今度は少しだけ真面目な声で呼びます。

「あんた、ほんと嫌なこと知ってるわね」


「でしょうね」


「でも今のは、ちょっと助かったかも」


私は答えませんでした。

助かった、という言い方は好きではありません。

助かったと呼んだ瞬間、人はその形を次も欲しがる。

だから私は、ただ黙って北影の皺を見ていました。


同じ皺ではない。

同じ座り先でもない。

同じ支え方でもない。

今日の部屋は、ようやく `一つだけの正しい居方` を失い始めていました。


それなら、まだ閉まらない。

まだ収容房にはならない。

まだ誰か一人を、部屋の方から決めてしまわずに済む。


昼の光はじわじわ強くなっていました。

けれど、さっきまでより息苦しくはありません。

二つ目の間違いが出来たからです。


正しい場所を一つ作る部屋は、人を閉じます。

けれど、少しずつ間違った置き場が二つある部屋は、まだ選ばせることができる。


その程度の違いに、命がかかる。

嫌になるほど、そういう話でした。


帝国暦849年。冬。

セリアは、トビアが `欠けを見本化しない` 実務へ組み替えた直後の北影で、次の危険が `乱れを直されること` だけでなく `今日の座り方` そのものが正しい居場所として守られ始めることにあると見抜く。彼女は白陽騎士団で叩き込まれた `整えることで従わせる部屋` の記憶を逆用し、今ある座り先を正解にしないため、裂いた外套と温石と入口布をわずかにずらして `もう一つの置き場` と `見える出口` を残した。こうして局面は、`外側の現場実務もまた、その日の欠けを見本や標準にせず、北影をその日のまま昼へ渡す` 段階から、さらに `内側の世話と間取りも、一つだけの正しい居方を作らず、二つ目の間違いを残したまま北影を部屋にしすぎず保つ` 段階へ進んだのです。

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