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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第116話:左の引き際、昼前の手すり 【カイル】

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運び屋は、一度座った荷を善意で詰め直さない。


紐が緩い、布が寄ってる、箱の角が半寸ずれてる。

そういうのを見ると、慣れてないやつはすぐ手を出したがる。

真っ直ぐにした方が見栄えがいいからだ。

きっちり締めた方が安心できるからだ。


でも、いったん荷が自分の重みで収まったあとに、外から `正しい形` を足すとろくなことにならない。

片側だけ締め直せば、反対側の底が浮く。

布をきれいに引けば、下に噛んでいた板が抜ける。

見た目は良くなる。

その代わり、次の段差ひとつで全部ひっくり返る。


北影の中で少女が `そのまま` と言った時、最初に腹へ落ちてきたのはその感覚だった。


ミナに向けた言葉だ、というのは分かる。

あの人の指は、すぐ整える。

湯の温度も、器の位置も、布の皺も、主が少しでも楽になる方へ寄せたがる。

それが侍女の手だ。


だが、あれはミナだけへの言葉じゃない。

あの掠れた一言は、ここにいる全員の `直したい癖` へ刺さっていた。

たぶん一番深く刺さったのは、俺の `左` だ。


右は相変わらず最悪だった。

肘から先が自分の腕じゃないみたいに軽いくせに、肩の奥へ熱い鉄くずを詰め込まれたみたいに重い。

じっとしていても疼くし、少し姿勢を変えるだけで鎖骨の裏まで灰色の痺れが走る。

おまけに熱の逃げ方が下手くそになったのか、身体の芯だけが変に冷えていて、汗をかいてるのに寒かった。


なのに左だけは、嫌になるくらい生きている。

布の擦れる音も、石の冷たさも、膝の角度も、全部分かる。

今どれだけ出しすぎていて、どれだけ近すぎるかまで分かる。


それがまた、たちが悪い。


北影の中は静かだった。

静かだが、もう昨夜までの `少し触れたら終わる静けさ` じゃない。

喋らないまま終わる部屋じゃなくなっている。

リノのどうでもいい拍が流れた。

ミナの湯が通った。

少女自身が `そのまま` と返した。

ここまで来ると、人間はすぐ勘違いする。

もう少しやっても大丈夫だろう、と思い始める。


俺も例外じゃなかった。


正直に言えば、言葉を聞いた瞬間にやりたくなったことがいくつかある。

少女の膝の下へ寄っていた布を半寸だけ引くこと。

温石をもう少し腰骨の方へ回すこと。

器の残り湯を倒れにくい位置へずらすこと。

入口から落ちてくる白い反射を、自分の身体で少し遮ること。


全部、ちょっとしたことだ。

ちょっとしたことで、たぶん楽になる。

少なくとも、その場では。


でもその `ちょっとしたこと` が、部屋を誰かの都合へ寄せる最短距離なんだろうというのも、さっきの一言で嫌でも分かった。


俺が布を引けば、それが `この部屋で正しい寝方` になる。

俺が湯を寄せれば、それが `この部屋で正しい手の届き方` になる。

俺が身体で光を遮れば、今度は `俺のそばが正しい影` になる。


要するに、俺が助けるつもりで一歩出れば、その一歩ぶんだけ部屋が俺の近さへ曲がる。


それは、たぶん一番まずい。


少女は俺の `左` を見ていた。

正確には、見ているようで見すぎてはいない。

使うかもしれない道具として残している目だ。

それで助かる。

あれが `そこへ行けばいい` という目になった瞬間、俺の左は手すりじゃなくなる。


手すりで済むうちはいい。

俺はもう何度もそう思い直してきた。

棚。

手すり。

名前のない近さ。

そういう雑な呼び方で誤魔化してきた。

だが本当は、まだ足りていなかったんだろう。


手すりってのは、そこにあればいいだけじゃない。

寄りかかりすぎたくならない位置にないと意味がない。


「カイル」


入口の布を見たまま、レオンが低く言った。

「気づいてるな」


腹立たしい言い方だった。

こっちの考えてることが見えてる時の声だ。


「……何をだよ」

「お前がそのままだと、左が近すぎる」


やっぱりか。

俺は舌打ちしそうになるのを堪えた。

レオンはこういう時、本当に容赦がない。

だが容赦がないから、たぶん今ここに立っていられる。


「動かすなら部屋じゃねえ」

レオンが続ける。

「お前の方だ」


セトが観測石から目を上げずに言った。

「やっと分かったのか。遅えよ」

「うるせえ」

「うるさいのは右の熱だ。お前はただ鈍い」

「お前、そういう言い方しかしねえな」

「今さら?」


リノが布の向こうで小さく笑う。

「仲良しねえ」

「違います」

「違えよ」


軽口に救われる。

救われるが、それでぼんやりしていいほど楽な局面でもない。


白布の反射が、さっきより半寸だけ奥へ伸びていた。

北影だから昼でも真っ白にはならない。

でも真っ白にならないからこそ、じわじわ来る。

眩しいと気づく頃には遅い類いの光だ。


少女の足元の布は、セリアが崩した皺をまだ残している。

温石はトビアの指示どおり角度だけ保たれ、補修されすぎていない。

湯の器は返し場所の石板から少し外れた位置のまま。

ミナの手は膝の上。

伸ばせるのに伸ばしていない。


全員が、自分の癖を我慢している。

だったら俺だけ `支える` を免罪符にして楽をするわけにはいかない。


俺は壁へ預けていた背をゆっくり剥がした。

右を先に動かすと終わるので、左足からずらす。

膝を引いて、身体の軸を半歩だけ斜めに逃がす。

少女の正面からも外し、入口の細い廊下からも外す。

左腕は出したままにしない。

かといって完全に引っ込めもしない。

膝の横、石の縁へ手の甲を伏せて、必要なら半拍で貸せるが、黙っていればただそこにあるだけの位置まで落とす。


それだけの動きで、右肩の奥に熱が噛みついた。

視界の端が少し白む。

息を吐く。

次に吸う。

レオンがこっちを見ないまま、靴先だけ半歩寄せる。

だが寄りきらない。

拾う準備だけして、手は出さない。


ありがたい。

ありがたいが、腹も立つ。

こっちが覚えたかったことを、先にあの隻眼に体でやられている気がするからだ。


「無理なら言え」

レオンが言う。

「無理じゃねえ」

「その返し方は半分無理だ」

「半分ならまだ平気だろ」

「そういう雑な計算で生きてきた顔してるな」

「運び屋だぞ」

「知ってる」


セトが鼻で笑う。

「そこは自慢するところじゃない」

「お前も知ってんなら黙ってろ」


言い返しながら、俺はようやく新しい位置の癖を掴み始めた。

近い。

でも、前みたいに `いつでも預けろ` の近さではない。

遠い。

でも、転げた時に間に合わないほどではない。


中途半端だ。

中途半端で、居心地が悪い。


だが今必要なのは、たぶんその居心地の悪さだ。

俺の左が `ちょうどいい近さ` になった瞬間、それはまた正解面した手すりになる。

少女が使う前から、使うべき位置になる。

それは駄目だ。


俺は手のひらを上にしなかった。

受け取る形になるからだ。

代わりに石へ伏せたまま、指先だけを少し緩める。

必要なら引っかかれる。

だが、こちらから掴みに行く形ではない。


少女の金の目が、その動きを追った。

追ったが、すぐには寄ってこない。

代わりに、さっき自分で残した皺の方を見る。

それから温石。

それから器。

最後にもう一度、俺の左。


見ている。

選んでいる。

誰の手でもなく、部屋のどこまでを使うか、自分で測っている。


そのことに、妙な汗が出た。

今までだって俺は荷に選ばれる側じゃなかった。

持つか、置くか、逃げるか、捨てるかを決めるのは、いつもこっちだった。

だが目の前のこれは違う。

俺はただ、選ばれないまま残る距離を守る方へ回っている。

それは情けない。

情けないが、たぶん前よりよほどましだ。


少女の足先が少し動いた。

俺の方へではない。

皺の残る布の方だ。

つま先で軽く押して、さっきよりほんの少しだけ折り目を深くする。

自分で残した `そのまま` を、今度は自分でもう少し使いやすくしている。


そこで俺は、危うく手を出しかけた。

皺が深くなりすぎれば座りにくい。

そう思った瞬間に、左肩が反応した。

だが、半歩遅かったのが良かった。

その遅れのあいだに、少女が自分で膝の位置を変えた。

一度、岩へ重みを預け直し、それから何でもない顔で落ち着く。

結果として、ちょうどよくはならない。

でも駄目でもない。


それで十分だった。


「……分かった」

思わず口から出た。


ミナがこっちを見る。

名前を呼ばないまま、視線だけで問う。

何がですか、と。


俺は少女を見たまま答えた。

「直す方がまずい時もあるってこと」


ミナはすぐに返さなかった。

少しだけ目を伏せて、それから小さく頷く。

侍女の頷きじゃない。

たぶん、同業者の顔だ。

仕事の種類はまるで違うのに、今日は同じことを我慢している。


「やっと」

セトがぼそっと言う。

「うるせえ」

「二回目だぞ、その返し」

「三回でも四回でも言う」


リノが布越しに笑う。

「いいじゃない。人って理解が遅いくらいの方が、急に完璧にならなくて助かるわよ」

「慰めになってねえ」

「慰めてないもの」


その会話のあと、北影の中に妙な間が落ちた。

重くはない。

かといって軽くもない。

誰かが大仕事をしたあとに来る間じゃなく、皆が同時に `次は足しすぎるな` を思い出したあとの間だ。


俺はその間の中で、左の位置をもう一度だけ確かめた。

貸せる。

だが差し出してはいない。

近い。

だが、部屋の中心にはなっていない。


たぶんこれが、今の俺の引き際なんだろう。


持つな、ではない。

消えろ、でもない。

落ちる時だけ返せ。

必要な時だけ貸せ。

それ以外は、お前の近さで部屋を完成させるな。


面倒くさいにもほどがある。

だが、運び屋の仕事なんて、結局はそういう面倒くさい引き際の積み重ねだ。

重い箱を持つ腕力より、どこで手を添えずに済ませるかの方が、最後に荷を壊さない。

今さらそんな初歩を、人相手にやり直している自分には少し笑える。


少女はもう俺を見ていなかった。

見ていないが、完全に忘れてもいない。

たまに左の端を視界へ入れて、まだそこにあるかだけ確かめている。

それでいい。

それがいい。


手すりってのは、本来そういうもんだ。

ずっと握りしめるためにあるんじゃない。

転びそうになった時だけ、そこにあると分かれば足りる。


北影の外で、白布が一枚だけ鳴った。

トビアかラザルが風向きを見て回したんだろう。

誰も中を覗かない。

セリアの残した皺も、ミナの外した湯の温度も、そのままだ。

レオンは入口の線を崩さない。

セトは観測石を見すぎない角度のまま持っている。


静かだった。

静かだが、止まってはいない。

部屋の方は何も足さないまま、代わりに俺たちの立ち方だけが少しずつ変わっている。


それなら昼前も、たぶんまだ持つ。

持たせられる、じゃない。

持つ方へ寄せられる。

今はそのくらいの言い方の方が似合っていた。


俺は壁へ背を預け直さず、斜めのまま座った。

休みにくい。

腰にも悪い。

でも、楽な姿勢はたいてい `そこへ居座る覚悟` と繋がっている。

今はそれも要らない。


「カイル」

レオンがまた呼ぶ。

「なんだよ」

「そのままなら及第点だ」


偉そうな言い方だった。

腹が立つ。

腹が立つが、少しだけ肩の力が抜けた。


「上からだな」

「年上だからな」

「そういう問題かよ」

「そういう問題にしとけ」


少女の方から、小さく布の擦れる音がした。

見る。

見るが、意味は足さない。

金の目はもうこっちを向いていない。

皺の残る布と、器と、岩の冷たさと、自分の座り方のあいだで、まだ誰にも決まりきらないまま落ち着いている。


それを見て、俺はようやく理解した。


俺の左は、もう `受け取るための手` じゃない。

あれは今、部屋が誰か一人の正解へ寄りきる前に、ぎりぎりで止まれるよう残しておく縁だ。

掴まれれば返す。

掴まれなければ、それでいい。


そういう不格好な近さなら、たぶんまだ壊しにくい。


帝国暦849年。冬。

カイルは、三位一体の少女の `そのまま` がミナだけでなく自分の `直して助けたい癖` にも向けられた言葉だと悟る。彼は `左` を出しっぱなしの `棚` や `手すり` にしておくこと自体が次の正解になりうると理解し、布、湯、温石、光の角度ではなく、自分の立ち方と近さだけを引き直すことで応えた。こうして局面は、器自身もまた、その不完全さを `なおせなかった乱れ` ではなく `自分たちで選ぶ余白` として引き受け、北影を誰の部屋にも決まりきらないまま自分でも守り始める段階から、さらに保持者側もまた、自分の近さで部屋を完成させない引き際を覚え、必要な時だけ貸せる `左` を残したまま、北影を昼前の不完全な部屋として渡す段階へ進んだのです。

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