表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
101/104

第101話:朝割りの手順、選ばせる布影 【セト】

毎日20時更新中です。ブックマーク・感想いただけると励みになります!

最悪だ、と思った。


いや、本当に最悪なことが起きたわけじゃない。

壊れたわけでも、誰か一人へ決まったわけでも、カイルの右が今すぐ肘を越えたわけでもない。

むしろ逆だ。

第100話で起きたのは、ここ数十話でいちばんまともな前進だった。

三位一体の少女は、誰かに寝かされるままでも、抱えられるままでもなく、自分で `はこばないで` と言って、`伏せ床` の布影へ三歩を踏んだ。

たぶん、あれは小さな勝利だ。


だからこそ最悪だった。


勝った直後の人間は、すぐ古い成功体験へ寄りかかる。

しかも今この場には、寄りかかる理由が山ほどある。

ミナはあの子が自分で水を選んだことに救われている。

カイルは `左` が `名前のない棚` として機能したことへ少し安心している。

ヘルマンとラザルは、教会側の `見ない` が本当に役に立ったことに黙ったまま手応えを持っている。


でも、観測石はそういう都合のいい安心を一切読まない。

あれは、僕らの気分なんか知らない。

知るのは輪郭と偏りと、どこへ圧が寄り始めているか、それだけだ。


僕は冷えた指で石を握り直し、白布の隙間から `伏せ床` の影を見た。


三位一体の少女は、さっき自分たちで選んだ布影へ座り直している。

倒れてはいない。

かといって、完全に起き上がっているわけでもない。

片翼は半分だけ畳まれ、`金の目` はまだ前にあるけれど、前へ出切ってはいない。

カイルの `左` はもう下敷きではなく、脇に残るだけの形へ寄っていた。

ミナは相変わらず半歩外。

白布の外では、教会の連中が `見ない` まま立っている。


ここまではいい。

ここまでは、たしかにさっきより良い。


問題はその先だった。


観測石の中で、熱の糸みたいなものが薄く配られている。

さっきまでの危険は分かりやすかった。

ひじを越えるか、越えないか。

誰の声が重いか。

誰の視線が多すぎるか。

僕が嫌いなくらい単純だった。


今は違う。

今の石は、細い糸を三つか四つ、じわじわと同じ場所へ伸ばしている。

カイルの `左`。

ミナの半歩。

朝除けの白布。

教会の `見ない` 外周。


どれも単体なら正しい。

どれもさっきまでは、なければ壊れていたものだ。

でも、だからといって同じ形のまま置いておいていいわけじゃない。


三位一体の少女は、もう `ただ保たれているもの` ではなくなった。

自分で置き場を選んだ。

だったら次に危ないのは、僕らがその選んだ場所へ意味を乗せすぎることだ。


カイルの `左` を残しすぎれば、今度は `あの子が寄るべき腕` になる。

ミナが部屋を整えすぎれば、`あの子が戻るべき主従の部屋` になる。

教会が外を見たまま動かなければ、`見なかった朝` そのものが一つの儀式になる。


分かりやすすぎて腹が立った。

ここまでみんなで必死に `足すな` をやってきたのに、ようやく一歩動けた瞬間から、今度は `同じままでいるな` に切り替わるなんて。

こういう時だけ世界は妙に要件定義が細かい。


「坊主」


低い声でヘルマンに呼ばれた。

目だけ動かすと、あの執行司祭は相変わらず嫌になるほど平たい顔をしている。

平たいが、馬鹿ではない。

僕の顔色を見て、喜ぶ段階じゃないと分かったのだろう。


「何が変わった」


簡単に訊くな、と思う。

こっちはまだ十代だ。

英雄でも聖女でも魔王でもないし、こういう継ぎ接ぎの朝を設計する専門家でもない。

なのに大人たちは、こういう時だけ説明書を持っている顔でこっちを見る。


「前進しました」

僕は吐き捨てた。

「だから面倒になりました」


カイルが、布影のそばで肩越しにこっちを見た。

熱で顔色は最悪なのに、そういう時だけ妙に気づくのが腹立たしい。


「面倒って何だよ」

「さっきまでは簡単だったんだよ。落とすな、寄せるな、切りすぎるなで済んでた」

「全然簡単じゃねえだろ」

「僕基準では簡単。今は違う」


ミナは口を挟まない。

でも気配だけは鋭い。

たぶんもう半分くらい答えに辿り着いている。

あの人は侍女だから、寝台の上の人間が `保たれている` 段階と `自分で場所を選び始めた` 段階の違いに、僕より先に勘づく。

勘づくくせに、今は僕に喋らせる。

そういうところが厄介だ。


「場所はそのままでいい」

僕は観測石を見たまま言った。

「でも、人の意味はそのままにするな」


ラザルが眉を寄せる。

「分かるように言え」

「分かりやすく言うと、今の配置を褒めるなってことです」

「は?」

「カイルの `左` が正解でした、ミナの半歩が正解でした、教会の見ない外周が正解でしたって、そのまま固定すると、次はそれが `あの子を決める形` になる」


自分で言って、嫌なくらい腑に落ちた。

要するにそうなのだ。

ここまでの手順は、あくまで `最初の三歩` を通すための足場にすぎなかった。

橋桁は役に立った。

けれど、渡り終えたあとも橋桁へ住みついたら、それはもう橋じゃない。


「じゃあどうすんだよ」

カイルが言う。

「ここまで来てまた全部引けってのか」


「引くんじゃない」

僕は首を振った。

「場所は残す。人の意味だけ薄くする」


ヘルマンが短く促す。

「具体」


本当に、こういう時の大人は腹が立つ。

でも腹を立てている暇もない。

観測石の中で、さっきから白みの筋が少しずつ太くなっている。

日が上がる。

しかも、三位一体の少女が選んだこの布影は、時間が経てばそのまま `いまの関係の写し` になりかねない。

朝の光だけじゃない。

成功の形そのものが偏りになる。


僕は立ち上がって、黒土の縁へ膝をついた。

指先で乾いた土を払い、小さな石片を三つ拾う。

丸いのと、平たいのと、細長いの。

ついでに、手近にあった割れた祈り石の欠片も一つ。


「ミナ」

「ええ」

「水はそのまま。次は布。あと、温めた石」


一瞬だけ沈黙。

それから、案の定ミナが訊き返した。

「食事ではなく?」


いい質問だった。

だから嫌になる。

この人はいつも、僕がまだ言語化しきる前の一歩先を持ってくる。


「まだ早い」

僕は答えた。

「食べるって、思ってるより形になる。噛む回数、飲み込む間、誰が見てるかまで全部入る」

「なるほど」

「今は `欲しいものを通す` んじゃなくて、`選び方を作る` 方が先」


カイルがげんなりした顔をする。

「お前、本当にガキか?」

「うるさい。誰の右を切ったと思ってる」

「それをまだ言うか」

「一生言う」


少しだけ空気が緩んだ。

緩みすぎたら困るけど、今くらいならいい。

みんな張り詰めっぱなしだと、手順を正確に守れない。


僕は拾った石片を、三位一体の少女の布影から等距離になるよう、半円に置いていく。

ひとつは水袋のそば。

ひとつは畳んだ乾いた布のそば。

ひとつは、ガルドが小鍋で温めた平石のそば。


どれも人が持たない。

どれも `誰かの手から渡される` 形にしない。

ただ、同じ重さで置く。


「何の真似だ」

ラザルが低く言った。


「朝割り」

僕は答えた。

自分でも変な名前だと思った。

でも他に言いようがなかった。

「日が上がる前に、朝を一つにしないための手順」


ヘルマンの目が細くなる。

馬鹿にはしていない顔だった。

それだけで十分だ。


「今までは `足すな` が正解だった」

僕は続ける。

「でもあの子はもう一回、自分で三歩を選んだ。だったら次に要るのは、何を欲しがるかじゃなくて、`どう選ぶか` を壊さないことだ」


ミナが、白布を指先だけで整えながらぼそりと言う。

「侍女の寝所で言えば、起き抜けに問答を持ち込まず、必要な物を届くところへ並べる段ですわね」


「そう」

僕はうなずいた。

「でも並べるだけじゃ駄目だ。人が後ろにくっついてたら意味が乗る」


それで全員が少しずつ動いた。


カイルの `左` は、もう半歩だけ外れる。

完全には消えない。

でも `まだここへ預けられる` と `ずっとここへ預けろ` のあいだへ引き直す。


ミナは水と布と温石の位置だけを整え、そこから先へは出ない。

給仕の手を残さない。

部屋だけ残す。


ヘルマンとラザルは外周へ指を二度だけ振り、教会の白布をもう一段ずらした。

正面から落ちていた朝の細い筋が割れ、布影の手前に、さらに薄い影が三筋できる。

これが `朝割り` だ。

一つの朝を、一つの答えにしない。


僕は観測石を覗き込みながら、その変化を待った。


正直、怖かった。

ここで全部が裏目に出れば、さっきの三歩そのものが `余計な成功体験` になって終わる。

カイルの `左` を引いたぶん、あの子が不安定になるかもしれない。

布と水と温石を並べたことで、かえって `選ばせられている` 形になるかもしれない。


でも、それでもやるしかない。

何もしないのが一番安全に見える時ほど、たいてい一番遅い。


布影の中で、`金の目` がゆっくり動いた。

すぐに誰かの方を見るんじゃない。

まず三つの置き物を見る。

水。

布。

温石。


僕は息を止めた。


一番怖いのは、どれか一つへ一気に寄ることだった。

それは `いま前に出ている側の欲求だけが強い` ってことになる。

逆に何も選べなければ、まだ選択肢を置く段階じゃなかったということだ。


その意味で、最初の反応は理想に近かった。


`金の目` はまず水袋を見た。

でも、それだけ。

次に布。

それから温石。


まるで、並べられたものの重さを確かめるみたいに、順番に。


「……いい」


小さな声だった。

誰に向けたのか分からない。

でも、少なくとも `いや` じゃない。

そして、その直後。


指先が、温石の方へ一度だけ伸びて止まり、そこで取らずに引いた。

代わりに、視線と膝の向きが、さらに北側の裂け目寄りの薄い影へ流れる。


僕ははっとして観測石を見直した。


そこだ。


今の布影は安全だ。

でも、安全なのは `今の白み` の高さに対してだけだ。

もう一段、光が上がれば、今度はこの場所そのものが `さっき選んだ成功` の残り香で濃くなる。

その前に、次の影へ移る必要がある。


そして、三位一体の少女はもう、それを感じ取っている。


「北」

僕は思わず口にした。

「次、北の割れ目の影」


ヘルマンが即座に問う。

「確かか」

「今のところ一番薄い。人の意味がまだ乗ってない」

「持たせられるのか」

「持たせるんじゃなくて、選ばせる」


自分で言って、それがこの回の答えだと分かった。


今必要なのは、運ぶことでも、守ることでも、正しさを与えることでもない。

選べるだけの薄さを残し続けることだ。

その薄さがなくなった瞬間、未確定は誰かの物語にされる。


「じゃあ、次も三歩か」

カイルが息を吐く。

熱で声が掠れているくせに、状況だけは掴む。

本当に腹が立つ。


「三歩かは分からない」

僕は答えた。

「でも次の影まで、自分で選べる形は残す」


ミナが白布の端を持ったまま、静かにうなずく。

「では、そのための部屋へ直しますわ」


ヘルマンもまた短く命じた。

「外周、北へ重心を移せ。だが中央を見せるな」


教会の白が、また少しだけ動く。

今度は `見ない壁` じゃない。

`次の影へ通すための薄い廊下` だ。

本当に、気味の悪い連中だ。

でも、いまはその気味悪さが役に立つ。


僕は最後に、温石を少しだけ北寄りへ転がした。

水袋も、布も、ほんのわずかに。

誘導ではない。

ただ、今の場所だけが答えじゃないと伝えるくらいの角度。


布影の中で、`金の目` がその小さな変化を追う。

追って、それから、ほんのわずかに黒い翼の先を寄せた。

まるで `わかった` とでも言うみたいに。


観測石の中の糸が、そこで初めてきれいにほどけた。

消えたんじゃない。

ほどけて、絡まらなくなった。


僕はそこで、ようやく長い息を吐いた。


喜ぶ気にはなれない。

こんなの、正解を当てたというより、不正解を一つ避けただけだ。

それでも避けたなら、そのぶん次へ進める。


魔女の師匠なら、たぶんこう言う。

「坊や、継ぎ接ぎは縫えた瞬間より、次の糸を選ぶ瞬間の方が怖いのよ」


本当にそのとおりだ。

僕らはいま、ようやく最初の縫い目を越えた。

次は、朝そのものを雑に通さないための糸を選ばなきゃいけない。


面倒だ。

本当に面倒だ。

でも、たぶんここから先の方が、やっと人間の朝に近い。

英雄でも聖女でも魔王でもなく、起きた身体が、何を欲しがって、どの影を選んで、どの距離ならまだ壊れないかを、ひとつずつ試す朝。


僕は観測石をしまい、北側の薄い影へ目をやった。


まだ誰の意味も乗っていない。

まだ誰の名前もついていない。

だから、次に渡すならあそこだ。


「……いいか」

僕はできるだけ全員に聞こえる声で言った。

「今から先は、正しいものを足すんじゃない。選べるものだけ置け」


誰も返事はしなかった。

でも、返事はいらない。

この場の人間はもう、返事の重さも危ないって知っている。


それぞれが、それぞれの位置で、少しだけやることを変える。

カイルは `左` を棚から手すりに近づける。

ミナは水差しから部屋全体へ仕事を広げる。

ヘルマンたちは見ない壁から薄い廊下へ形を変える。


そして僕は、選択肢の重さだけを揃える。


気づけば朝の白みは、さっきよりずっと高くなっていた。

けれど、もうただ押し寄せてくる白じゃない。

割られた朝だ。

分けられた朝だ。

あの子が、自分で次の影を選べるだけの薄さを残した朝だ。


それなら、まだ渡せる。


帝国暦849年。冬。

セトは、三位一体の少女が `はこばないで` と告げて `伏せ床` の布影へ三歩を踏んだことで、局面が `保たれている未確定` から `自分で置き場を選び始めた未確定` へ変わったと見抜きます。そこで彼は、これまでの `足すな` だけでは足りず、次は `選べるものだけを同じ重さで置く` 必要があると判断し、水、布、温石、そして白布の影そのものを `朝割り` の手順として組み替えました。こうして局面は、`未確定のまま自分たちで置き場を選ぶ` 段階から、さらに `未確定のまま次の影まで自分で選ばせるため、朝そのものを手順へ編み直す` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。感想・ブックマークお待ちしています!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ