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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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39. 第九-十回にかけての公判

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

第9回公判

2019年冬の東京地裁、重苦しい空気が再び支配していた。


弁護側が申請した、国内の法医学界の権威であるS大学総合医療センター教授であり、診療部長でもあるY教授が証言台に座っていた。主任弁護人の高見は、検察側が問題視した、術前の写真撮影について、尋問を開始した。

「先生。被告人である神崎医師は、術の直前に、患者の胸部の写真をデジタルカメラで撮影しています。この行為について、医学的な見地から、先生のご意見をお聞かせください」

Y教授は、表情を変えることなく、裁判官席に向かって、明瞭に答えた。

「術前の状態を、医学的記録として写真で残すことは、極めて適切な行為です。後の診断や、術後の経過観察に資するためであり、むしろ推奨されるべき手順です。また、撮影したデータを、院内のセキュアな電子カルテに格納した上で、個人が管理する端末から削除するという手順も、個人情報の管理としては、妥当な行為であると判断します」

その、一切の淀みない証言に、検察官の伊勢崎が、鋭い視線を向けて立ち上がった。

「しかし、先生。そもそも、患者の胸部を撮影すること自体が、社会通念上、不自然であり、被害者の主張を裏付ける状況証拠となるのではありませんか」

挿絵(By みてみん)

Y教授は、その挑発的な質問にも、わずかに首を振るだけで、淡々と続けた。

「いいえ。外科医が、腫瘤の状態や術後の経過を比較検討する際に、写真を撮影するのは、国際的にも一般的な行為です。文書だけの記録よりも、写真の方が、遥かに客観性が高い。被告人が写真を削除したのは、証拠隠滅などの不正のためではなく、カルテに公式記録として格納した後の、情報管理上の、当然の処置です」

その言葉は、専門家としての、絶対的な権威を伴って、法廷に響いた。 裁判官席では、裁判長が、深く頷き、両脇の陪席裁判官らも、熱心にペンを走らせている。検察が作り上げようとしていた、「写真を撮る=わいせつ行為の準備」という単純なストーリーが、専門家の見識という、動かしがたい事実の前に、その説得力を失っていく。


被告人席で、神崎は、証人の言葉を聞くたびに、胸の奥で固く凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じていた。 自分がしたことは、医療の常識であり、不自然でも、不正でもない――。 その、あまりに当然の事実が、ようやく、第三者の専門家の声として、この公の場で響いている。


傍聴席の隅で、広瀬もまた、強く頷いていた。 ――全く、その通りである。 法廷内に、これまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。


第10回公判

2019年初夏、東京地裁の大法廷。

傍聴席には記者や一般市民がぎっしりと詰めかけ、視線は証言台に注がれていた。この日の争点は、患者倉科ミカが事件当時「せん妄状態にあったか否か」。


真っ向から相反する二人の専門家が登場した。最初に呼ばれたのは、検察側証人――S大学医療情報システム研究センター長であり、長年麻酔科医として臨床に携わってきた N 氏。白髪交じりの落ち着いた風貌で、淡々と証言を始めた。

「私は倉科ミカのカルテ記録や看護記録を拝見しました。その内容から、術後せん妄を呈したとみる所見は乏しい。発言の整合性、行動の一貫性を考えると、幻覚や錯覚ではなく、現実に経験した被害を語っている可能性が高いと考えます」

検察官が力を込めて尋ねる。

「つまり、倉科ミカの証言は幻覚ではなく、現実の体験だと」

「はい。少なくとも医学的に“せん妄”で説明する必要はないと判断します」

傍聴席がざわめき、神崎医師の顔はさらに硬くなる。だが、弁護側は即座に反撃の切り札を用意していた。


証言台に立ったのは、S大学教授であり、救急集中治療センター長を務めた F氏。救急・集中治療の現場で、数え切れない術後患者と向き合ってきた麻酔科医である。

「私は倉科ミカの記録を詳細に検討しました。そのなかには、怒声を発したり、意味不明の言葉を繰り返したりした記録が複数あります。これらは典型的な術後せん妄の症状と一致します。幻覚や妄想を伴うケースも珍しくはありません」

野田弁護士が身を乗り出す。

「先生、倉科ミカの『被害証言』も、せん妄による幻覚だった可能性がある、という理解でよろしいですか」

F氏は頷いた。

「その可能性は十分にあります。むしろ臨床経験からすれば、説明がつきやすい」

検察官が食い下がる。

「しかし、倉科ミカの言葉は具体的で、一貫しているのでは?」

「具体的であっても、それが“幻覚体験”であることは多々あります。せん妄患者は、あたかも現実を見ているかのように語るのです」

法廷内に再びどよめきが走った。

裁判官席の裁判長は、二人の証言を聞き分けながら、眉間に深い皺を寄せていた。――現実の被害なのか、あるいは幻覚なのか。この事件の根幹を揺さぶる問いに、法廷全体が息を詰める。

弁護席の神崎医師は、F氏の言葉を心の中で必死に反芻していた。

「自分は何もしていない。医学の専門家がそれを裏付けてくれた」

だが同時に、真逆の意見を示す証人が同じ場で存在するという現実が、彼の胸を重く圧し掛かっていた。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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