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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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38. 第七-八回にかけての公判

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

第7回公判

東京地裁の法廷に、スーツ姿の専門家が静かに証言台に立った。

挿絵(By みてみん)

K大学保健管理センター准教授、N氏。精神科専門医であり、医学博士の肩書きを持つ人物だった。検察官は自信をにじませながら質問を始めた。

「N先生、術後せん妄が本件に影響を与えた可能性についてどうお考えですか」

N氏は落ち着いた声で答える。

「せん妄で説明する必要はないと考えます。事件の事実を前提とするならば、被害が存在したと理解するのが妥当です」

広瀬はN氏をみつめ、これが検察のお抱え専門家かと納得した。精神科専門医とは言え、術後のせん妄を実際に見たことなど無いに違いないと思った。


検察は力を得たように続けた。

「つまり、患者倉科ミカの証言は幻覚ではなく、実際の体験に基づいている、と」

「はい。臨床的にそのように考えます」

裁判官たちが静かにメモを取り、弁護席に視線を移す。

主任弁護人・野田が立ち上がった。声には鋭さがあった。

「先生、あなたは精神科医でいらっしゃいますね。術後せん妄についての臨床経験は、どの程度お持ちでしょうか」

一瞬、N氏の表情に影が差した。

「……直接的な臨床経験は多くありません。私の専門は学生や教職員のメンタルケアで、せん妄はそれほど頻繁には扱っておりません」

法廷にざわめきが広がる。


野田はさらに問いを重ねる。

「つまり、せん妄を専門に診ている医師ではない。手術後の患者に起こり得るせん妄の複雑な症状について、実地の知見が不足している、そう理解してよろしいですか」

N氏は押し黙り、視線を落とした。


裁判長が静かに口を開く。

「証言を続けてください」

それでも弁護側の追及は止まらなかった。

「先生が“事件の事実を前提とする”と述べました。しかし、裁判の目的はまさにその事実の有無を確かめることです。前提にしてしまえば、議論は成立しないのではありませんか?」

N氏は答えを探すように言葉を選んだ。

「……そのご指摘には、一理あるかもしれません」

その瞬間、検察官の表情がわずかにこわばった。


こうして行われた第7回公判でのN氏の証言は、当初こそ検察側の補強証拠と期待された。しかし、弁護側の反対尋問で浮き彫りになったのは―― せん妄の臨床知識に乏しい専門家が、事件の「事実を前提」に論を進めた脆弱さ だった。後に、この証言は検察側の論告求刑で引用されることなく葬られる。


法廷の空気は、静かに弁護側へと傾き始めていた。


第8回公判

2019年初秋の地裁。


法廷の空気は、第7回公判の余韻を引きずったまま、次なる証人尋問へと移っていた。証言台に立ったのは、がんセンター精神腫瘍学開発分野長を務めるO氏。精神腫瘍学の第一人者であり、精神科指導医・専門医でもある人物だ。威圧感はなく、むしろ穏やかな口調で言葉を選ぶ姿に、傍聴席の視線が集まった。

主任弁護人・野田が立ち上がる。

「先生、まず本件の患者倉科ミカについて、医学的にどのような所見をお持ちか、ご説明ください」

O氏は淡々と答える。

「DSM-5――すなわち、米国精神医学会の診断マニュアルによるせん妄の診断基準に照らしますと、倉科ミカには該当する症状が見られた可能性があります。急性発症、意識の変容、注意力の低下、そして幻覚……これらは術後せん妄として説明可能です」

傍聴席にどよめきが走った。野田はうなずき、核心を突いた。

「つまり、被害の訴えが必ずしも現実の出来事を反映しているとは限らない、ということですか?」

O氏は一呼吸おいて、静かに言葉を紡ぐ。

「ええ。せん妄状態では、患者が強い恐怖や混乱を体験し、それを現実の記憶として語ることがあります。したがって、倉科ミカの証言には幻覚が混入している可能性を排除できません」

検察官がすぐさま立ち上がった。声には焦りがにじむ。

「しかし先生、倉科ミカは非常に具体的な描写をしています。“左胸をめくられた”“変な息遣いが聞こえた”など――こうした細部までせん妄で説明できるのでしょうか?」

O氏は落ち着いた表情を崩さずに答える。

「はい。せん妄の患者は、外界の断片的な刺激を誤って組み合わせ、物語のように再構築して語ることが少なくありません。具体的な描写であること自体が、幻覚や妄想でないと断定する根拠にはなりません」

法廷が静まり返る。広瀬はO氏の証言が、臨床の現場での経験に基づいた、専門的意見であると信じた。

裁判官団――裁判長を中心とする三人は、互いに目を合わせて頷き、黙々とメモを取り続けていた。

弁護人席では、神崎医師が小さく息をついた。自身の言葉ではない、科学の言葉が、自分を守ってくれている。その思いが胸の奥で静かに広がっていった。

2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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