第九十話 未来への、最初の授業
「やるよ。僕も、参加する」
僕の、迷いのない返事。
それを聞いた優愛は、一瞬、驚いたように目を丸くした。
そして、次の瞬間、心の底から安心したように、花が咲くように、ふわりと笑った。
「……そっか。よかった」
その笑顔を守るために、僕は彼女の隣に立つと決めたんだ。
恋人として、そして、最高のパートナーとして。
そのためなら、どんな難しい勉強だって、乗り越えてみせる。
その週末。
第一回目の「光道家・次世代勉強会」が開かれることになった。
場所は、光道本邸。
あの日、僕と優愛が忍び込んだ、あの書斎だった。
「うわ……。明るいところで見ると、また全然違うな」
重厚なマホガニーの机に、天井まで届く本棚。
以前感じた、近寄りがたいような空気はなく、今はただ、歴史の重みと、未来への期待感が、その部屋を満たしているようだった。
部屋には、僕と優愛の他に、美褒、幸葵、そして大学生の和満さんたちの姿もあった。
みんな、少しだけ緊張した面持ちで、用意された席についている。
やがて、書斎の扉が開き、光道四兄弟が入ってきた。
今日の彼らは、社長ではなく、「先生」の顔をしていた。
「ようこそ、光道家の未来たちよ!」
優誓おじいちゃんが、いつも通り豪快に口火を切る。
「今日から、我々が築き上げてきたものの全てを、君たちに伝えていく。心して聞くように!」
最初の授業は、光道家の歴史についてだった。
ひいおじいちゃんが、たった一代で会社を築き上げた苦労話。
四兄弟が、いがみ合いながらも、それぞれの会社を大きくしていった武勇伝。
その話は、僕が知っているどの歴史の授業よりも、ずっと面白くて、エキサイティングだった。
でも、授業が進むにつれて、僕の額には、じわりと汗が滲み始めた。
会社の経営戦略、財務諸表の見方……。
専門用語が飛び交い始めると、もう、僕の頭は完全にパンク寸前だった。
(……やばい。何言ってるか、全然わかんない)
焦る僕の隣で、優愛は、真剣な顔でノートを取り、時々、鋭い質問を投げかけている。
すごいな、優愛は。
それに引き換え、僕は……。
また、劣等感で胸が苦しくなりかけた、その時だった。
机の下で、僕の膝が、こつん、と優しく突かれた。
見ると、隣に座る優愛が、僕の方を見て、にこりと、悪戯っぽく微笑んでいる。
そして、彼女は、僕にしか見えないように、自分のノートの端を、指差した。
そこには、彼女の綺麗な文字で、さっきから僕が理解できずにいた単語の意味が、分かりやすく書き出されていた。
『大丈夫だよ、パートナー』
その、声にならないメッセージ。
それだけで、僕の心の中のモヤモヤが、すっと晴れていくのを感じた。
そうだ。僕は、一人じゃない。
授業の最後。
それまで黙って話を聞いていた、物静かな爽快おじいちゃんが、僕たち全員に、一つの質問を投げかけた。
「最後に、一つだけ。光道の人間として、最も大切にすべきものは、何だと思う?」
幸葵が「お客様からの信頼です」と答え、和満さんが「常に革新を続けるチャレンジ精神だと思います」と答える。
どれも、素晴らしい答えだ。
やがて、順番が、僕に回ってきた。
僕は、一度、深く息を吸った。
そして、隣に座る優愛の顔を、ちらりと盗み見る。
彼女は、僕を信じるように、強く、頷き返してくれた。
「……僕は、まだ、難しいことは分かりません。でも……」
僕は、四人のおじいちゃんたちの顔を、一人一人、順番に見て、言った。
「一番大切なのは、一緒に働く人、関わる人、そして、家族……みんなが、心から笑っていられることだと思います」
その瞬間、書斎の空気が、変わった。
四兄弟は、誰一人、何も言わない。
ただ、その目に、ほんの少しだけ、温かい光が宿ったのを、僕は見逃さなかった。
勉強会が終わった、帰り道。
「……今日の溢喜、すごく、かっこよかったよ」
優愛が、心の底から嬉しそうな声で、そう言ってくれた。
僕の答えが、正しかったのかは、分からない。
でも、僕が、僕自身の言葉で、伝えたいことを伝えられた。
そして、それを、優愛が喜んでくれた。
今は、それだけで、十分だった。
光道家の未来を担うための、長い長い道のり。
その、未来へと続く、最初の授業は、僕らの心に、確かな光を灯してくれた。




