第八十九話 体育着の君に、心を奪われて
『すごく、好き』
昨日の帰り道に、不意打ちで僕に告げられた、優愛からのストレートな言葉。
その破壊力は凄まじく、一夜明けても、僕の心臓を甘く締め付け続けていた。
「おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
朝、玄関先で顔を合わせた瞬間、昨日の記憶が蘇り、二人して少しだけ、はにかんでしまう。
もう、どちらかが主導権を握るような戦いじゃない。
僕らは、ただ、互いの存在を意識して、幸せな気持ちを分け合っているだけなんだ。
その日の四時間目は、体育の授業だった。
男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバレーボール。
準備体操をしながら、僕はちらりと、体育館の方に視線をやった。
ガラス窓の向こうで、髪をポニーテールに結い、いつもより少しだけ短いハーフパンツ姿の優愛が、仲間たちとパス練習をしているのが見える。
今まで、何百回と見てきたはずの、体育着姿。
それなのに、今日に限って、ボールを追って軽やかに跳ねるその姿や、汗で首筋に張り付いた後れ毛が、やけに目に付いた。
(……やばい。全然、集中できない)
「おい溢喜! ボール見てねえと危ねえぞ!」
希望の声で、はっと我に返る。
いつの間にか、僕の足元に、サッカーボールが転がってきていた。
授業が終わり、汗だくで教室に戻る。
自分の席でタオルで顔を拭いていると、「お疲れ様」という涼やかな声と共に、冷たいスポーツドリンクのペットボトルが、僕の目の前に差し出された。
「優愛……」
「今日の溢喜、すごかったね。サッカー」
「え、見てたのか?」
「うん。体育館から、ちょっとだけ」
そう言って、彼女は少しだけはにかんだ。
その表情に、僕の心臓が、また大きく跳ねる。
僕が彼女を見ていたように、彼女もまた、僕のことを見ていてくれた。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
放課後。
二人きりの帰り道。
僕らは、今日の体育の授業の話で盛り上がっていた。
「でも、本当にすごかったよ。最後のシュート、惜しかったね」
「まあな。あれが入ってれば、ヒーローだったんだけど」
僕がそう言って笑うと、優愛も「ふふっ」と楽しそうに笑った。
その時、ふと、優愛が何かを思い出したように、スマホを取り出した。
「そういえば、週末に、おじいちゃん(優誓)からメッセージが来てたんだ」
「うん」
「光道家のことで、少し新しい話があって」
その言葉に、僕は少しだけ、身構えた。
もう、あの重い過去の話は終わったはずだ。
「跡継ぎのこと、覚えてる?」
「ああ。もう、一人に決めるんじゃなくて、みんなで支え合うって……」
「うん。でも、だからこそ、なんだって」
優愛は、一度スマホの画面から顔を上げ、僕の顔を真っ直ぐに見つめて、言った。
「『これからの光道家を担うのは、若い世代のお前たちだ。だから、そのための勉強会を、定期的に開こうと思う』って。会社の経営のこととか、光道家の歴史のこととかを、ちゃんと学ぶための」
勉強会……。
僕の頭に、あの重厚な書斎の扉と、優誓おじいちゃんの最後の問いかけが蘇る。
『お前が、光道の名を背負って何をしたいのかをな』
「希望者だけで、自由参加らしいんだけど……」
優愛が、少しだけ、不安そうに僕の顔を見る。
彼女は、きっと参加するだろう。
でも、僕の中で、答えはもう決まっていた。
僕は、もう、ただ彼女に守られて、隣にいるだけの男じゃない。
「やるよ。僕も、参加する」
僕の、迷いのない返事に、優愛は驚いたように目を丸くした。
そして、次の瞬間、心の底から安心したように、花が咲くように、ふわりと笑った。
「……そっか。よかった」
その笑顔を守るために、僕は彼女の隣に立つと決めたんだ。
恋人として、そして、最高のパートナーとして。
そのためなら、どんな難しい勉強だって、乗り越えてみせる。
僕らの、恋人としての日々。
そして、光道家の一員としての日々が、また一つ、新しいステージへと、確かに動き出そうとしていた。




