第八十八話 せかいで 一番、甘い戦い
『もう、ただの幼馴染じゃないよ。……僕の、大切な彼女だもん』
昨夜、僕が仕掛けた不意打ち。
その時の、ショートして僕の胸に顔をうずめてきた優愛の姿を思い出すだけで、どうしようもなく、口元が緩んでしまう。
完全に、僕のペースだった。
そう、昨夜までは。
いつもと同じ時間に玄関のドアを開ける。
ガチャリ、と隣の家のドアも、全く同じタイミングで開いた。
「おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
今日の彼女は、いつも通りだった。
いや、いつも以上に、にこやかで、完璧な笑顔を浮かべている。
僕の顔を見ても、少しも照れる素振りを見せない。
(……あれ?)
少しだけ、拍子抜けする僕。
僕らは、ごく自然に、手を繋いで歩き出した。
教室に入っても、優愛は完璧だった。
希望に「お二人さん、昨日もなんかあったんだろー?」とからかわれても、「さあ、どうでしょう?」と、余裕の笑みで受け流している。
その姿は、まるで昨夜の動揺など、微塵もなかったかのようだった。
(……俺だけが、意識してるのか?)
なんだか、それが少しだけ、悔しい。
昼休み。
四人で集まって弁当を広げていると、優愛が、僕のお弁当箱をじっと見つめてきた。
「なあに、溢喜。今日のお弁当、すごく美味しそうだね」
「え? ああ、まあ……」
僕の母さんが作った、いつもと同じ、普通の弁当だ。
「特に、その卵焼き。すごく綺麗」
そう言って、彼女は、僕がまだ手をつけていない卵焼きを、自分の箸で、ひょいとつまんだ。
そして、僕の目の前で、それを、あーん、と自分の口に運んでみせた。
「……ん、おいしい」
その、あまりにも自然で、あまりにも大胆な行動に、僕の思考は、完全に停止した。
周りで見ていた希望と美褒も、一瞬、固まっている。
「なっ……!」
僕が、何か言おうと口を開く前に、優愛は、僕の顔を見て、にこりと、悪戯っぽく微笑んだ。
その目は、はっきりと、こう語っていた。
『昨日の、お返しだよ』と。
「……っ!」
僕はもう、何も言えない。
顔が、熱い。
心臓が、うるさい。
希望が「お、おおおお前ら、ついにそんな仲に!」と大騒ぎし始め、美褒は「ふふっ、ゆーちゃん、やるねえ」と、楽しそうに笑っている。
完全に、やられた。
放課後。
帰り道も、僕の心臓は、まだドキドキと高鳴っていた。
隣を歩く優愛は、何も言わずに、僕の少し先を、楽しそうに歩いている。
「……優愛」
「ん?」
「……あれは、ずるい」
僕がそう言うと、彼女はくるりと振り返り、太陽みたいに笑った。
「そう? 溢喜が先に、ずるいことしたんでしょ?」
「……それは」
「お互い様、だね」
そう言って、彼女は僕の右手を、そっと、自分の両手で包み込むように握った。
「でも」と、彼女は続ける。
「溢喜のああいうところ、嫌いじゃないよ。……ううん、すごく、好き」
その、あまりにもストレートで、あまりにも破壊力のある言葉に、僕の心臓は、今日、何度目か分からない、最大級の音を立てて、弾けそうだった。
ああ、もう、ダメだ。
この戦い、僕に勝ち目は、ないらしい。
でも、それでいい。
この、世界で一番甘い戦いが、一日でも長く続くように。
僕は、繋がれた手の温かさを感じながら、心の中で、そう願っていた。




