第七十四話 僕だけの、優しさ
「――で、この公式をここに代入すると……よし、できた!」
「お、すごいじゃん、溢喜。もう完璧だね」
土曜日の昼下がり。
僕の部屋の小さなローテーブルを挟んで、僕と優愛は、来週に迫った中間テストの勉強に励んでいた。
恋人になったからといって、この「面倒見のいい幼馴染」の、スパルタな数学指導がなくなるわけではなかった。
「ふう、ちょっと休憩しない?」
「そうだね」
僕が大きく伸びをすると、優愛も「んー」と可愛らしく背伸びをする。
その無防備な仕草に、心臓が小さく跳ねた。
「何か、飲む? オレンジジュースとかあるけど」
「ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」
僕がキッチンでグラスにジュースを注いでいると、優愛が部屋の中をきょろきょろと見回しているのが、ドアの隙間から見えた。
「……溢喜の部屋って、本当に、何もないよね」
部屋に戻ると、彼女が呆れたように笑っていた。
「男の部屋なんて、こんなもんだろ」
「うーん、そうかもしれないけど……。あ、でも」
優愛は、本棚の隅に、僕が無造作に置いていた、古びたキーホルダーを見つけた。
それは、僕が小学校の低学年の頃、粘土細工の授業で作った、歪な星形のキーホルダーだった。
「わ、懐かしい! これ、まだ持ってたんだ」
「まあ、なんとなく、捨てられなくてな」
本当は、これを優愛に見せた時、「すごい! 上手じゃん!」と褒めてくれたのが嬉しくて、ずっと捨てられずにいただけなんだけど。
そんなこと、今さら恥ずしくて言えない。
「そっか……」
優愛は、そのキーホルダーを愛おしそうに指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……なんか、嬉しいな」
その横顔を見ていると、僕の胸は、どうしようもないくらいの幸福感で満たされた。
勉強を教えてくれる、厳しい優しさ。
僕のくだらない思い出を、大切に思ってくれる、温かい優しさ。
その全部が、今はもう、僕だけのものなんだ。
勉強を再開しても、僕の頭は、さっきの彼女の笑顔でいっぱいだった。
(……だめだ、全然、集中できない)
「……ねえ、溢喜」
不意に、優愛が僕のノートを指差した。
「ここ、計算、間違ってるよ」
「え、あ、ほんとだ」
「もう、しょうがないなあ」
優愛はそう言うと、座っていた場所から立ち上がり、ローテーブルを回り込んで、僕の隣にこてん、と腰を下ろした。
そして、僕のノートを自分の方へと少しだけ引き寄せる。
「どれ、見せて」
突然、隣同士になったことで、肩が触れ合う、ゼロ距離になる。
シャンプーの甘い香りが、僕の理性を麻痺させる。
優愛は、僕の手からシャーペンをひょいと取り上げた。
「ここの符号が、マイナスじゃなくて、プラスになるから……」
さらさらと、僕のノートに正しい計算式を書いてくれる、白い指。
その指先に、僕はもう、釘付けだった。
(……ああ、もう、無理かも)
僕は、気づけば、シャーペンを持つ彼女の右手を、そっと、僕の左手で上から包み込むように、握っていた。
「……え」
優愛の動きが、ぴたりと止まる。
計算式の途中で止まったシャーペンの芯が、ノートの上で小さな黒い点を描いていた。
「……ごめん。でも、なんか……」
僕の、どうしようもない独占欲。
勉強を教えてくれる、優しい先生の顔じゃなくて。
僕だけに見せてくれる、女の子としての顔が、もっと、見たかった。
「……なんか、優愛のこと、見てたら……勉強なんて、どうでもよくなった」
それは、最低のセリフだったかもしれない。
でも、僕の、偽らざる本心だった。
優愛は、何も言わない。
ただ、僕に手を握られたまま、ゆっくりと、顔を上げた。
その瞳は、少しだけ潤んでいて。
頬は、夕焼けみたいに、真っ赤に染まっていた。
「……ばか」
か細い、でも、少しも怒っていない、甘い声。
その声を聞いた瞬間、僕はもう、我慢なんて、できるはずもなかった。




