第七十三話 君の隣、僕の隣
手を繋いで帰った、あの日の翌朝。
僕は、目覚ましが鳴るよりもずっと早く、目が覚めてしまった。
(……早く、会いたい)
子供みたいに、ただそれだけを考えて、時計の針が進むのを、じりじりと待っていた。
もう我慢できずに、いつもより少しだけ早く玄関のドアを開ける。
隣の家の前で、うろうろと不審者のように行き来する。
数分が、数時間のように感じられた、その時だった。
ガチャリ、と優愛の家のドアが開いた。
「おはよう、溢喜。……って、早くない?」
「お、はよう、優愛!」
僕の声が、自分でも驚くくらい、弾んでいた。
優愛は、そんな僕の様子を見て、「もしかして、待ってたの?」と、少しだけ呆れたように、でも、どうしようもなく嬉しそうに笑った。
「そ、そんなことないだろ!」
「ふーん。まあ、いいけど」
僕らは、昨日よりも、もっと自然に、隣に並んで歩き出した。
「……あのさ」
先に口を開いたのは、優愛だった。
「うん?」
「昨日の、帰り道……。ありがとね」
「え? ああ、別に……」
「ううん。すごく、嬉しかった」
そう言って、彼女は僕の顔をちらりと盗み見た。
その頬が、朝日に照らされて、ほんのり赤く染まっている。
その表情だけで、僕の心臓は、またどうしようもなく高鳴った。
教室に入っても、そのドキドキは収まらない。
授業中、ふと隣を見ると、優愛が真剣な顔で黒板を見つめている。
その長いまつげや、少しだけ開かれた唇。今まで何千回と見てきたはずの横顔が、今は全部、特別に見えた。
(……やばいな、俺。全然、集中できない)
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、不意に、優愛がこちらを向いた。
そして、教科書の影で、僕にしか見えないように、小さく、にこりと微笑んでみせた。
その、反則級の不意打ちに、僕の心臓は完全にノックアウトされた。
昼休み。
「で? 今日は、お手手繋いで登校してきたわけ?」
希望が、弁当の卵焼きを僕の皿に乗せながら、ニヤニヤと言う。
「……なんで知ってるんだよ」
「今朝、うちのクラスの女子が、駅前で見かけたって大騒ぎしてたぞ。『あの二人、ついに!』ってな」
どうやら、僕らの関係は、もうクラスメイト公認の事実になりつつあるらしい。
「まあ、別に、隠してるわけじゃないけど……」
僕がそう言うと、隣に座る優愛が、もぐもぐとサンドイッチを頬張りながら、僕の肩にこつん、と頭を預けてきた。
「え……!?」
「んー? なんか、言った?」
とぼけた顔で、僕を見上げる優愛。
その行動に、希望が「うおっ!大胆!」と声を上げ、美褒は「ふふっ、ゆーちゃん、可愛い」と微笑ましそうに見ている。
「な、なんでもないです……!」
僕はもう、心臓がもたない。
完全に、優愛のペースだ。
昨日、僕がちょっとだけ優位に立ったと思ったのは、どうやら気のせいだったらしい。
帰り道。
「じゃあ、帰ろっか、溢喜」
僕が声をかける前に、優愛の方から、当たり前のようにそう言ってきた。
「……おう」
僕らは、ごく自然に、手を繋いで歩き出す。
もう、昨日みたいに、どちらかがためらうこともない。
「なあ、優愛」
「ん?」
「俺、なんか、完全に負けてる気がする」
「え、何が?」
「いや……なんでもない」
僕がそう言って笑うと、優愛も「そっか」とだけ言って、楽しそうに笑った。
そして、繋いだ僕の手に、きゅっと、少しだけ力を込めてくれた。
その強さが、僕の全ての疑問への、答えのような気がした。
恋人になるって、こういうことなのか。
勝ち負けなんて、どうでもよくなるくらい、ただ、隣にいるだけで、幸せな気持ちになれる。
僕らの、恋人としての日々は、少しずつ、でも確かに、その形を変え始めていた。




