#07 後悔の朝
布団から顔だけを覗かせ、カーテンの隙間から差し込む朝の陽光に、思わず目を細める。
耳元でけたたましく鳴り続ける不快な音に顔をしかめ、スマホのアラームを消すと、ようやく身を起こした。
一仁は、どうしようもなく朝に弱い人間である。
重たい身体を引きずるようにして着替えを終えると、いつものように用意されている朝食へ手を伸ばした。
無造作に跳ねた寝癖に気づきながらも、直す気力すら湧かず、そのまま食パンを頬張る。
家族が慌ただしく家を出ていく様子を、ぼんやりと眺める。
その流れに遅れるようにして、一仁もようやく外へ出た。
すると、今日も変わらず元気いっぱいに吠え続ける犬のまろが視界に入る。
「お前は、今日もほんと元気だなあ」
そう呟きながら頭をひと撫ですると、まろはその場でくるりと一回転して「ワン!」と得意げに吠えた。何のアピールなのかは分からないが、とにかく元気だ。
名前の由来でもあるまろ眉は今日もくっきり健在で――その対比のように、一仁の顔色にはこれでもかというほど生気がない。
理由は単純だ。
昨日、自分に向けられたあの視線が、やけにしつこく記憶にこびりついているせいである。
忘れようとしても、瞼の裏にべったり張り付いたまま、どうにも離れてくれない。
しゃがみ込んで、まろと同じ目線に腰を落とす。
しばらく無言のまま見つめ合う――いや、見つめられているだけな気もする。
真っ黒な瞳に反射して映るのは、一仁の顔。
今日も今日とて、見事なまでに冴えない。自分で見ても少し気の毒になるくらいには、つまらない顔だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
結局、腐れ山を隅から隅まで探し回ったが、纐纈の姿はどこにもなかった。
よりにもよって、彼女が普段使っていた隅のくすんだ布団の残骸も、座り込んでいた背もたれの折れた座席も、毎日与えていた2Lのペットボトルの残骸すらも――
何一つ、残っていなかった。
朋香から向けられたあの視線は、ある意味で当然だった。
疑心と憎悪に満ちた、逃げ場のない瞳。
弁明の言葉は喉まで出かかったが、結局、口にしても届く気がしなかった。
目の前で唯一の希望をへし折られた事実だけで、彼女の心をすり減らすには十分すぎたのだ。
荒んだ瞳のまま、朋香はぽつりと呟く。
「嘘つき」
たった四文字。
それだけのはずなのに、胸の奥に落ちてきた重さは、やけに現実味を帯びていた。
きっとその言葉には、一仁が思っているよりもずっと重く、どうしようもない感情が詰まっている。
翌日、石井朋香の姿はなかった。
隣のクラスを覗きに行ったとき、ぽつんと空いた椅子に、自然と目が留まる。
その席の前では、男子生徒たちがいつも通り楽しそうに話している。
流れのまま、何気なく誰かが朋香の席へ腰を下ろし、続いて別の生徒が机の上に座り込んで笑い声を上げた。
その光景が特別異様に映ることもなく、今日も一日は何事もなく回っていく。
「よっ、いっつも元気ねえなあ、カズは」
「――佐原か」
「その様子だと、石井さんの件はうまくいかなかったか?」
「元からそういうのじゃねーよ」
腕枕の上で机に突っ伏していた一仁のもとへ、佐原がずかずかと近寄ってくる。
片手には、しっかりいちご牛乳のパック。やけにご機嫌そうだ。
そのまま当然のように隣の席へ腰を下ろした。
「ま、女は星の数ほどいるってやつだな。次いきゃ、いい奴なんてすぐ見つかるって」
「……なんか、お前、やけに上機嫌じゃねえか?」
ぽん、と肩に手を置いて満足げに語るその様子に、違和感しかない。
一仁が訝しむように問いかけると――待ってましたと言わんばかりに、佐原は満面の笑みを浮かべ、指をピースの形にした。
「俺、柊先輩にデート誘われちったぁ……!」
「……っえ?! 冗談だろ?」
「マジのマジ。大マジよ。昨日さ、下駄箱の中に――『今度の日曜日、一緒に映画見に行きませんか』って書いてあってよォ」
驚愕のあまり、声が裏返り、言葉が見事に引っかかる。
佐原はといえば、鼻の下をこれでもかと伸ばしきり、頬もだらしなく緩みっぱなしだ。見ているこっちが不安になるレベルである。
――だが、一つだけ気になる点があった。
一仁は眉をひそめ、不思議そうに口を開く。
「……下駄箱の中にあったのは、手紙ってことか?」
「そっ! 柊先輩の直筆、ラブレターよ。可愛い人ってのは筆跡からして違うんだよなあ」
どこから来るのか分からないその自信は、冗談にしては妙に説得力があった。
というのも、佐原のこういう情熱に関しては、嫌というほど知っている。
だからこそ、その浮かれっぷりは――まあ、分からなくもない。
「よかったじゃんか。いつ行くんだ?」
「ちゃんと話聞いてたか? だから、日曜だって」
「日曜……結構すぐじゃん」
一仁は言葉をなぞるように繰り返し、ふとカレンダーへ視線を移す。
教室の後ろに貼られた日程表には、テスト期間や当番、細々とした予定がびっしり書き込まれている。
その中で、今日――金曜日の文字に目が止まった。
「わりぃな。俺らの童貞連盟、明後日で解散かもしれん」
「そうだな、心の底から応援してるよ」
一仁は、わざとらしく目を見開き、不敵な笑みを浮かべてやる。
だが当の佐原は、有頂天のままどこ吹く風。こちらの言葉など一切耳に入っていない様子だ。
その姿に、ふっと力が抜ける。
視線を落とすと、自分の足元に伸びる影がやけに濃く見えた。
――そのとき、不意に。
纐纈の言葉が、脳裏をかすめた気がした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「貴方って、変な人よね」
「…なんだよ急に」
「いえ、ふと――だって、ある日ゴミ山で見つけた超美少女の為にご飯を毎日持ってくる男よ…? どう考えても変人よ?」
「自分で言うか?」
日が傾いて、影が伸びきった夕方。
空の朱色が暗く沈み、カラスの鳴き声が周囲に響く。
2Lのペットボトルを抱えて、視線を落としたまま、ふと纐纈はつぶやく。
その声音はいつもと違い、少し寂しげに聞こえ、自身のない様子であった。
「なんで、こんなに優しくするの? 私が可愛いから?」
「それ先に言うと、俺が全部顔目当てみたいになって嫌なんだが…」
「照れなくていいわ。本心のまま言えばいいのよ」
「お前のその過剰な自信はどこから?」
「生まれたときから」
自信満々な様子で、鼻息を立てて胸を張る様子に、一仁は肩をすくめる。
先程の陰鬱な反応とは打って変わって、機嫌よく言葉を返す。
我儘お嬢様。その言葉がぴったりなご様子だ。
「――…深い意味はないな」
「つまらない回答はやめなさいよ。好きなタイプが優しくて、カッコいい人みたいな」
ご不満な様子で、頬を膨らませて腕を組み、静かに唸る。
それから、適当に「俺の正義心が燃え上がって――」と言いかけたところ、彼女の眼差しが一仁の瞳に映る。
言いかけた言葉はその眼光に気圧されて、喉の奥に消える。
目をそらし、視界に映る残骸の中で、一仁暫く言葉を選ぶように思考を張り巡らせる。
口が幾度か開きかけて、閉じる。
静かに、目を伏せて喉をうならせると、ゆっくりと開いた眼は先ほどの雰囲気とは何かが違うと、纐纈は背筋で感じ取っていた。
近くにある電子レンジに視線をやると、いい具合に傾いていて、腰を掛けても微動だにしないことを確認し、深く腰を下ろした。
「―――あれは小学生のときの話だった。クラスに少し知的の子がいて、まぁ当然のようにみんなから避けられてたんだよ。その子ってさ、エイリアンとかSFとか、幽霊とかオカルト系の話ばっかしてて、
だから女子からは嫌われるし、男子からはからかわれることも多かった。でもさ、本人は全然気にしてないっていうか…楽しそうに話してたんだよな。馬鹿にされてるとか、考えもしなかったんだろうな。藁人形作ったり、教室の机転がしてミステリーサークル作ったり、よく叱られてたけど、それでも夢中で話してたのは覚えてる」
口を開いた一仁の表情は落ち着いたまま、抑揚のない話が始まる。
零れるように紡がれる言葉の数々は、昔のことだというのに淀みなく流れ、次々と広がっていく。
「いつだったか、急に誰かが言いだしたんだ。『あいつ、うざくね?』って。それで、皆一斉に無視し始めて、大事そうに集めてた呪いの道具とかを隠したり、燃やしたりし始めたんだ。……初めはクラスの代弁者って感じの中心になる奴だけがやってたんだけど、いつの間にか皆もこぞって参加してて……なかったか? ソイツが触った奴は○○菌が移るから触っちゃダメとか、擦り付け合いみたいなやつ」
一仁は両手をすり合わせながら淡々と話す。
記憶を呼び覚ますたびに、当時の光景が脳裏に浮かんでいるのだろう。
同時に、巡る記憶の一つ一つに口元が緩み、言葉の端が少し跳ねるように聞こえた。
「―――ただ、そいつはどんなことしてもずっと笑ってた。避けられても、物を隠されても、燃やされても……ずっと笑ってた。だから、クラスのみんなも気にせず、ずるずると続けてた」
「なによそれ、最低じゃない」
「――っは、そうだな。ホントクソガキって思うよ、俺も」
言葉を詰まらせて、首の後ろを擦ると零れるように呆れた笑みが溢れる。
「しばらくはそのイジメは続いてたな。別に先生にも怒られることもなかったし、誰も止めなかったしな。だけどそんなある日、急に転校することになったんだ」
「――それが原因で?」
重い口を開き、纐纈が尋ねる。
先ほどまでの軽快な様子はなく、真剣に耳を傾ける姿勢だ。
一仁は静かに首を横に振る。
「親の都合だと。仕事の都合で引っ越さなきゃいけないらしくて、別れの挨拶もなく、急に朝のホームルームで知らされた」
「―――…」
「あまりに突然のことに。俺らは呆然としたけど、数日後ぐらいには忘れたかのようにみんな日常を送ってた。それから、その子に会うことは一度もなかったんだけど、次に見かけたのは、朝のニュース番組の中だった」
そこで、一仁は言葉を止めた。
続けようとしていた言葉の重さを飲み込み、口を閉じる。
しかし、その意図は言わずとも纐纈に伝わっていた。見開かれた瞳が、それを証明している。
一仁は短く息を吐き、瞳を閉じた。
「首つり自殺したんだ」




