#02 友達の友達
今日も今日とて、いつもの日常が始まる。
昼の購買で、いつもの焼きそばパンとメロンパンを手に取り、コーヒー牛乳を買おうと自販機の前に立つが、そこで指が止まった。
持っていたパンを小林に押し付け、ポケットから財布を取り出してひっくり返してみる。
だが、軽い音がいくつか鳴り、硬貨が地面へ転がるだけだった。
「ひぃ、ふぅ、みぃ…32円、だな」
「滝野瀬、いつもコーヒー牛乳買う金だけは、あったのに」
「まさか、カズお前ェ! 女か、女に使ったんだな!!」
寂しい財布を開いたまま、体を左右に強請られて思わず呆れた表情になる。
その呆れは、同じ問答を繰り返す佐原に向けたものでもあり、これまでの行いを省みた自分自身へのものでもあった。
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「纐纈葵…? ああ、知ってるけど、それがどうした?」
「まあ、ちょっとな…岡田は?」
「その顔になりたいランキング1位のJKインフルエンサーだろ? 最近、CMにも出てたよな。なんだっけ、あのエナジードリンクの――」
岡田の言葉を遮って、小林の手が垂直に上がる。
その行動に視線が釘付けになり、流れるような動作で拳を胸元まで引いて体を縮こませる。
「『憂鬱な月曜日をふっとばせ~! お疲れバイバイ! やる気を注入ぅぅ~! 今日も一日がんバインバイン! ガンバインサイダー!』…のやつンゴね」
丁寧な振り付けを交えながら熱唱する小林の姿に、周囲は思わず半歩後ずさる。
しかし、本人は満足げに胸を張っていた。
とりわけ、跳ねながら胸を寄せる場面では、贅肉が激しく揺れ、その迫力は本家を超えていたのは間違いない。
だが、その会心の踊りも虚しく流され、岡田が話し始める。
「――一仁がそういうの興味あるなんて意外だな。一切関心ないと思ってた」
「いや…ちょっとな。さっきその人、愛知出身って言ってたよな。今どこに住んでるか分かるか?」
「……」
「…ごめん、カズ。友達とはいえ――いや友達だからこそ、それは引き留めなきゃいけない」
口に運んでいた箸から具材が零れ落ち、滝野瀬は丁寧に弁当を地面に置いた。
すると、優しく肩に手を置かれ、哀れみを含んだ目でじっと見つめられる。
訳も分からず、滝野瀬は残る二人に視線を送るが、二人も似たような反応をして、何が何だか分からない様子で困惑していた。
だが、先ほどの発言が頭の中で反芻され、段々と二人の言わんとすることを理解し始めた時に一仁は顔の火照りを感じていた。
「なっ、ば、馬鹿! ちげぇよそういう意味じゃねえよ!」
「なんか、早口で否定するのもそれっぽくて、冗談に聞こえねえのが…な」
「ま、犯罪者インタビューの時、お前の未来は守るように言ってやるよ」
小林は何も言わず、佐原の黒い箸入れを平行に目元まで持ち上げると、まるで犯罪者の旧友インタビューに答えるかのように、裏声で言葉を発した。
「『えぇ……人一倍欲が強いとは思っていましたが、本当にやるとは――』」
岡田と佐原は、思わず声を上げて腹を抱え、地面にひっくり返った。
地面を叩きながら笑い転げる二人の様子を前に、小林はアナウンサー役まで始めようとしたが、箸入れを手に取って頭を軽くはたき、騒ぎの流れをピタリと断ち切った。
「だっかっら、違ェって! 愛知生まれでも東京に住んでるとか、撮影だけ愛知でしてるのかとそういうのが聞きたかったんだよ!」
「っはっはっは、ひー分かってるよ。安心しろ、愛知の高校通ってるってインタビューでも言ってたから、特定しようにも遠すぎ…っ、ひゃーっはっはっ! ダメだ、おもろすぎる」
悪びれる様子もなく、佐原の爆笑は止まらず、何分笑い転げていたのかも分からない。
ようやく落ち着いたかと思ったその瞬間、何も言わず箸入れを目元に持ち上げる小林に、佐原はまたもやツボに入り、笑いは止まらなかった。
結局、話すたびに佐原が笑い転げてしまうため、一度端にそっと置き、落ち着くまで様子を見守ることにした。
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選択科目の歴史の授業。
幸いなことに、いつものアイツらは別の選択科目を選んでいるため、教室は驚くほど穏やかだった。
こうして教室を見渡すと、クラスの大半の人物と話したことがなく、顔と名前が一致しないことに気づく。
むしろ、名前も顔も知らない女子生徒すらいるほどで、他校の生徒が混ざっていても、きっと気付かないだろう。
「そんな都合よくいるわけねえか」
視線を忍ばせてあちこちの顔を見ようとしているうちに、チャイムが鳴った。
席へ戻る道すがら、他人に気取られない程度に一人ひとりの顔を見ていくが、どうやら上手くいかなかったようだ。
軽くため息をつき、椅子を引いた。
ここ数日、移動教室のたびに人の顔を覗き見ては視線を逸らす行為を続けているが、一仁の顔は浮かばれない。
それは、頼まれごとを軽々しく受け持った自分自身への希薄さと今の行動の不審さに羞恥心を感じていたことにある。
長いため息をついて席に着き、引き出しから次の教材を取り出す。
ちょうど短針が一時を指す、ある正午の出来事だった。
教室の喧騒が徐々に大きくなり、意識せずとも周囲の小話が耳に入ってくる。
移動教室先には知り合いがいないため、必然的に席につき、机に伏せて過ごす時間が多くなる。
ぼんやりと他人の話に聞き耳を立ててしまうのも、あくまで偶然聞こえてしまうに過ぎない。
だが、学生の噂話など些末なものだ。
先輩の誰が可愛いだとか、流行のインフルエンサーである纐纈葵の話題。
一生不登校の女子生徒の話が出たかと思えば、陰キャと陽キャの違いについての議論。
あとは男子が、胸派か尻派かで盛り上がっているくらいだ。
ふと伏せていた顔をわずかにずらし、木々の揺れる木漏れ日の方へ視線を向ける。
風とともに揺れる影を眺めていると、視界の隅を横切る小さな物体に目が留まった。
何気なく左斜め後ろの席へと身をよじって覗く。
そこには、したり顔で消しゴムをちぎっては投げる三人組の姿があった。
楽しげに投げつけているわけでもない。
ただ嫌味な笑みを浮かべながら、一点に向けて、ちぎっては投げ、ちぎっては投げと繰り返している。
いったい何を狙っているのか。
弧を描く消しカスを目で追う。
その先にあったのは、長い癖毛に絡みついた大量の消しカスだった。
そして、それに気づいていない様子で、淡々と本を読み続ける女子生徒の姿。
頭には大きな黒いリボン。
腰まで伸びた癖毛のロングヘア。机の上には、手のひら二つ分ほどの兎の人形がちょこんと置かれている。
全体的に小動物のように小さく、まるで人形のように可愛らしい女の子だった。
「…ッあ!」
思いがけず声が飛び出た。
一晩中探し続けたシャーペンのキャップが見つかったときのように。
忘れていたスマホのパスワードが、偶然開いたときのように。
反射的に声が漏れてしまった。
即座に手で口を覆う。
集まる視線を背中に感じながら周囲に軽く会釈し、そのまま机に伏せた。
どうか時間よ、早く過ぎてくれと祈りながら。
腕の隙間から、そっと前を覗く。
説明どおりの少女だった。
「不思議の国のアリスから飛び出してきたみたいな子」――そうとしか言われず、最初はなんとふざけた説明だと思ったものだ。
だが今なら、彼女の言わんとしていたことがよく分かる。
目の前の少女は、まさにそんな風貌をしていた。




