生体認証
古代認証技術に関する史料は、ここ二十年だけでもずいぶん増えた。
北部沿岸の都市遺跡からまとまった技術文書が出たのが七年前。西部の旧市街で大量の生活資料が見つかったのが四年前。昨年には、南方の保存施設から、それまで断片でしか知られていなかった規格文書の一部が回収された。
王立古代文明研究院でも、それぞれに翻訳と研究が進められている。
問題は、増えたことだった。
古い目録は増補を重ね、同じ語を扱う史料が別々の分類に収まり、半世紀前の論文が引用する資料の方が、その論文より後に分類を変更されている。
そろそろ一度、整理した方がいい。
始まりは、その程度だった。
古代認証技術史料の再編纂。
申請した研究課題にも、そう書いた。
*
王城第三門には、朝から十人ほどが並んでいた。
列の前で勤務表を見る。
第一列は三人待ち。第二列は二人。第三列は受付停止中。
第四列には、リゼットの名があった。
五人待ち。
「リゼットさん、今日いるんだ」
「第四列。五人待ち」
「やっぱり並んでるな」
「かわいいし、感じもいいし。スタイルもいいからな」
少し考えて、時計を見る。
今日は急ぐ。
第二列に並んだ。
前の利用者が呼ばれ、認証室の扉が閉じる。
次の予定までは十分だった。
鞄から手帳を取り出し、今日確認する史料番号をもう一度見る。
研究院の書庫に複製があるものも多い。ただ、復興初期の認証研究に関する原資料の一部は、今も王城にしかない。
今回の再編纂では避けて通れなかった。
認証室の扉が開いた。
前の利用者が出てくる。
入れ替わりに次の者が呼ばれた。
手帳を閉じた。
*
認証を終え、城内へ入る。
東棟二階の資料区画までは何度か来たことがある。
受付で所属証と閲覧許可証を渡すと、書記官は目録を確認した。
「王立古代文明研究院。古代技術史部」
「はい」
「閲覧申請、十二点」
「はい」
「第二種指定史料が三点含まれています」
書記官が許可証を返した。
「第三認証をお願いします。本日は東二号室、ハンナです。ハンナは本日、第三認証のみで対応します」
「分かりました」
鞄を預ける。
東二号室の前には一人待っていた。
扉脇の札にも、ハンナの氏名と第三認証資格の登録番号が記されている。
予定より少し遅れるかもしれない。
受付でもらった目録を開き、待っている間に閲覧順を組み替えた。
*
資料室の机には、十二点すべてが並ぶはずもない。
最初に出されたのは四点だった。
復興初期の研究記録が二冊。
保存箱に収められた古代の技術文書が一点。
もう一点は、同じ発掘区画から出土した成人向けの娯楽出版物だった。
最後の一冊を先に確認する。
保存状態は悪くない。
現在の分類では、古代都市生活史、娯楽文化、成人向け出版物。認証技術史料には含まれていない。
表紙と奥付を確認し、目録の年代と照合する。
問題なし。
脇へ置き、復興初期の研究記録を開いた。
復興暦百二十三年。
古代語の体系的な復元が進み始めた時期にあたる。
見慣れた語が並んでいた。
Authentication.
認証。
Authenticator.
認証器。
User Verification.
利用者本人の確認。
Biometric.
生体的特徴に関するもの。
現在とは訳語が多少違う。それでも、ここまでの意味の取り方に大きな問題はない。
手元の対照表に印を付ける。
初期研究者による注釈も確認した。
――古代人は身体的特徴を個体の識別に利用した。
別の史料番号が付いている。
照合する。
指紋。顔貌。眼部。
いずれも、後年発見された資料から裏付けられている。
次。
――認証器は、利用者本人であることを確認する機構である。
表現は粗いが、この時点の資料なら無理はない。
次。
――生体的特徴は、利用者本人の確認に使用され得る。
問題はない。
頁を進める。
やがて、参照史料番号が一つ現れた。
先ほど脇へ置いた出版物の番号だった。
そちらを引き寄せ、指定された頁を開く。
読む。
研究記録へ戻る。
もう一度、出版物を見る。
初期研究者が拾った箇所には、こうあった。
「姿は変わっても、俺に馴染んだおまえのここは変わらないな」
その前後も読む。
作中で、一人の人物が相手の本人性を疑っている。
疑いは、身体を介した行為の後に解消されていた。
「なるほど」
これだけなら、認証技術の記録ではない。
現在の分類が妥当だろう。
だが、研究記録が書かれた時代には事情が違う。
続きを読んだ。
*
「これは違うでしょう」
復興暦百二十三年。
研究員は、机に置かれた冊子を閉じた。
「少なくとも技術文書ではありません」
「ええ」
向かいの男も、それは否定しなかった。
発掘地点は同じだった。
年代も、おおむね一致している。
ただし内容は、それまで扱ってきた機械部品の説明書や技術文書とは明らかに違った。
「同じ場所から出たというだけで、認証資料に含めるのは危険です」
「私もそう思っていました」
「いました?」
「ここをご覧ください」
男が冊子を開き直した。
示された箇所を読み、研究員は少し黙った。
「……本人であることを確かめていますね」
「そう読めます」
「この行為で?」
「ええ」
研究員はもう一度読んだ。
「比喩では?」
「可能性はあります」
「そもそも物語です」
「それも承知しています」
男は脇に置かれていた技術文書の転写を引き寄せた。
Biometric Authentication.
「こちらについては?」
「身体的特徴を利用した本人確認」
「異論は?」
「ありません」
「こちらの冊子では、外見が変化した人物について、既知の身体的特徴との照合で本人性を確認している」
「だから同じものだ、と?」
「いいえ」
男は首を振った。
「同じものかもしれない、と」
研究員は黙った。
「出土地点が同じ。推定年代も近い。技術文書から、生体的特徴が本人確認に使われたことは分かっている。ですが、その確認を認証器がどのように行ったのかは、まだ分かっていません」
「認証器と推定された機器は出ています」
「何をしていた機器なのか確定していません」
それも事実だった。
認証器と推定された機器はいくつか発見されていた。
通電したものさえある。
表示された古代語は、すでに読めた。
接続できない。
何に接続するはずだったのかは、分からなかった。
「無関係な娯楽作品である可能性の方が高いと思います」
「私もそう思います」
研究員が顔を上げた。
「なら」
「可能性が低いことと、候補から除外できることは別です」
男は冊子を閉じた。
「身体を用いた本人確認の実施形態を示す資料である可能性については、保留しておくべきでしょう」
しばらくして、研究員は頷いた。
「仮説として、ですよ」
「もちろん」
記録には、そう残された。
結論ではなかった。
いくつも並んだ仮説の、一つだった。
*
頁の端に指を置いたまま、しばらく考えた。
おかしなところはない。
むしろ慎重だった。
技術文書ではないと認識している。
無関係な可能性の方が高いとも明記している。
それでも、当時確認できた資料だけを考えれば、完全に除外するのは難しい。
対照表の該当欄に印を付けた。
当時資料上、判断妥当。
次の研究記録へ移る。
復興暦百三十一年。
仮説はまだ仮説だった。
さらに十五年後。
別の発掘資料を根拠として、身体接触を伴う本人確認に関する記述が増える。
その参照番号も控えた。
ここも後で確認する。
昼を過ぎた頃、最初の四点を返却した。
次に運ばれてきた保存箱には、もっと新しい史料が入っていた。
古代のものとしては新しい、という意味である。
発見されたのは十一年前。
復興暦百二十三年の研究者たちは、当然これを知らない。
南方保存施設から回収された認証技術文書。
研究院で翻訳を担当したのは別部門だった。
存在は知っている。
今回の再編纂では、初めて原資料と初期研究記録を並べて見ることになる。
保存箱を開ける。
翻訳済みの箇所から確認した。
認証。
認証器。
利用者。
本人確認。
公開鍵。
秘密鍵。
見覚えのある語が続く。
頁を送る。
指が止まった。
もう一度読む。
前の頁へ戻る。
秘密鍵は、認証器の外へ開示されない。
認証器は、利用者の操作を受け、必要に応じて利用者本人の確認を行う。
その上で、保持する秘密鍵を用いて署名する。
相手方は、あらかじめ登録された公開鍵を用いて、その署名を検証する。
生体的特徴は、本人確認の方法の一つとして挙げられている。
だが、その情報自体を相手方へ渡すとは書かれていない。
午前中に取った対照表を引き寄せた。
初期研究者が知っていた記述。
後年に発見された記述。
二つを並べる。
本人確認の位置が、合わない。
「……ん?」
翻訳の問題かと思い、原文を見る。
既存の対訳も確認する。
変わらない。
生体的特徴による確認は、認証器の内側で行われる。
そして、それだけでは終わらない。
その後に署名がある。
公開鍵による検証がある。
午前中の研究記録では、その先がなかった。
当時は資料がなかったのだから当然だ。
別の資料番号を引いた。
研究院の目録では、情報機器。
さらに別の番号。
暗号技術。
さらに一つ。
古代通信。
いずれも認証制度史の分類には入っていない。
だが、同じ語がある。
Authenticator.
User Verification.
Public Key.
Private Key.
椅子に座り直した。
初期研究者は、認証器が何を指すのか分からなかった。
だから複数の可能性を残した。
それはいい。
生体的特徴が本人確認に使われた。
それもいい。
問題は、その後だった。
目録をめくる。
十一年前。
十八年前。
二十六年前。
初期研究者には存在しなかった資料が、今ではある。
しかも一つではない。
それぞれ別の研究分野で、別々に翻訳され、別々に分類されている。
手帳を開いた。
今日の予定にはなかった資料番号を、余白に書き始める。
情報機器。
暗号技術。
古代通信。
携帯型機器。
都市生活。
書き終えてから、午前中の対照表を見る。
そこには、自分で付けた印がある。
当時資料上、判断妥当。
その文字は消さなかった。
下へ一行加えた。
現在も妥当か。
閉室を告げる鐘が鳴った。
時計を見る。
続きは明日でもできる。
今日はこれで帰るか。
史料を返却し、手帳と筆記具をまとめる。
立ち上がったところで、腰に少し重さが残っているのに気づいた。
軽く腰を伸ばしてから、鞄を受け取りに受付へ向かった。




