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第14話 死人は王宮へ戻りたくない

王宮からの緊急招集を読み終え、エルサは言った。


「嫌よ」


紙を持ってきた急使は、返答の意味が分からなかったらしい。


濃紺の上着。


王宮急使の銀縁札。


泥一つついていない長靴。


彼は錫の塔の丸机の前へ立ったまま、しばらく瞬きをした。


「……至急、派遣されたし、とございます」


「読めるわ」


「王太子殿下御婚約者、クロエ・フォン・リンデン様からの正式な要請です」


「それも読んだ」


「でしたら」


「嫌だと言ったの」


急使の顔へ、困惑が広がる。


王宮から呼ばれた人間が断る。


彼の知る世界では、あまり起きないことなのだろう。


錫の塔では、呼ばれても手が離せなければ返事をしない者がいる。


返事をしても行かない者がいる。


行った後で、頼まれた内容と別の修理を始める者もいる。


王宮の常識は、入口を越えた時点で少し弱くなる。


煙突の免責とは、王の兵が勝手に入れないというだけではない。


王の都合が、そのまま命令にならないという意味でもあった。


「エルサ」


マルコが言った。


机の反対側へ座り、クロエの手紙をもう一度読んでいる。


> 二重輪、確認。

> 折れた麦穂、現物は王宮厨房にて使用中。

> 使用停止要求は権限不足により拒否。

> 過去記録との一致点、現在の症状、危険条件、代替案を持つ者を至急派遣されたし。

> 泡は嘘をつかない。


署名は、クロエ・フォン・リンデン。


王太子婚約者。


エルサが最も顔を見たくない女の一人だった。


一番かどうかは、養父アルベルトと国王ギルベルトを同じ表へ入れるかで変わる。


「嫌なのは聞いた」


マルコは言った。


「理由は?」


「王宮だから」


「もっと詳しく」


「詳しく説明する必要が?」


「断るならな」


エルサは急使を見た。


「この人の前で?」


急使が姿勢を正す。


自分は何も聞いていないという顔だった。


王宮で身につけるべき大切な技能の一つである。


マルコが親指で扉を示した。


「外で待ってろ。飯は出す」


「勤務中ですので」


「食わないと帰りに倒れるぞ」


「規定では、外部機関からの飲食物は――」


「なら湯だけ飲め」


「湯も飲食物に含まれます」


「面倒だな、王宮」


エルサは少しだけ同意した。


急使は廊下へ出た。


扉が閉まる。


食堂の奥では、鍋が鳴っている。


夕食の準備。


銀の塔へカルトッフェルを回したせいで、今夜の職員食はカブとタマネギが主役になるらしい。


グレタが包丁を振るう音。


リーネが桶を運ぶ足音。


ハンスが炉の蓋を閉める金属音。


いつもの仕事場だった。


エルサはその音を聞きながら、王宮へ行かない理由を数え始めた。


「第一に、顔を知られている」


マルコは黙って聞く。


「王族、侍従、厨房上役、王宮衛兵、貴族の使用人。全員ではないけれど、私を直接見た者が多すぎる」


「髪は短い」


「顔は残っているわ」


「痩せた」


「喜ぶところ?」


「変装には便利だ」


「処刑前後の減量を、美容上の成果として扱わないで」


マルコは紙の端へ何かを書いた。


顔を知られている。


「第二に、歩き方と話し方」


「歩き方?」


「王宮の床は場所によって石の継ぎ目が違う。裾を踏まない歩幅、儀礼廊下での速度、警備区画で止まる位置。身体が覚えている」


「ゆっくり歩け」


「意識すれば不自然になる」


「話すな」


「それは賛成」


王宮で声を出せば、気づく者がいる。


侍女。


侍従。


かつて付き添った書記。


レオンハルト。


最後の名前を頭の中へ出しただけで、喉の奥に冷たい鉄が触れた気がした。


地下牢。


白い手袋。


もう二度と会うこともないだろう。


彼の予測を覆したいとは思わない。


一度死んだ女が王宮の厨房へ戻るなど、趣味が悪すぎる。


「第三に、指名手配人ではなくても、死者として扱われている」


「死者は逮捕されない」


「死体の身元詐称、王家記録の偽装、処刑逃れ、国家反逆罪の再執行。罪名はいくらでも増やせるわ」


「元の罪は冤罪だろ」


「処刑から逃げたことは事実よ」


「処刑前に獄死したことになってる」


「だから、その獄死が偽装だと分かれば問題になるの」


「面倒だな、死人」


「生きている人間より手続きが多いのよ」


マルコはさらに書いた。


拘束危険。


「第四に、王宮は今夜、六盟家の名代と七塔の代表が集まる」


「顔見知りが多い?」


「ゼーヴェル家の人間が来ている可能性がある」


「本家当主は?」


「アルベルト本人は不明。名代でも危険よ。西の人間は顔より癖を見る」


「お前みたいに?」


「そう。視線の動き、数字の読み方、値段を聞いた時の間。港で育った者同士は、標準語を話していても分かることがある」


「なら西訛りを出すな」


「緊張した時ほど戻るわ」


「緊張するのか?」


エルサはマルコを見た。


「王宮で一度殺されかけたのよ」


笑うところではない。


マルコも笑わなかった。


「ほかは?」


「王宮の地下牢へつながる通路を知っている」


「利点じゃないか」


「近づきたくない理由よ」


「逃走路になる」


「牢獄を逃走路に数える人間とは、契約したくないわね」


「もう契約してる」


「更新時に考慮する」


マルコは炭筆を置いた。


「以上か?」


「まだある」


「多いな」


「命は一つしかないもの。危険は細かく数えるべきよ」


「続けろ」


「クロエと会う可能性がある」


その名前を口にした途端、台所の奥から皿が鳴った。


偶然だった。


最近、偶然の質が悪い。


「会わなきゃいい」


マルコが言った。


「呼んだ本人よ」


「壁越しに話せ」


「王宮で壁越しに婚約者と会話する下働きの方が目立つでしょう」


「紙でやれ」


「字を見られる」


「お前の字を知ってる奴は?」


「王宮書記局。調停院。ゼーヴェル家。レオンハルト」


また名前が出た。


今度は、声にはしなかった。


シシーリアの筆跡は、裁判資料に残っている。


偽造帳簿にも。


本物の署名と偽物を比較するため、何枚も保管されているはずだ。


エルサの名で書いても、字の骨格までは変わらない。


「では、お前は行かない」


マルコが言った。


あまりに簡単で、エルサは一瞬返事を失った。


説得されると思っていた。


国王が危険。


宴席客が危険。


クロエが助けを求めている。


錫の塔の責任。


そういう言葉を並べられると思っていた。


「いいの?」


「嫌なんだろ」


「ええ」


「危険も多い」


「ええ」


「なら、ほかを送る」


マルコは立ち上がり、扉へ向かう。


「フランツとクルト。記録は写しを持たせる。お前は塔に残れ」


胸の奥が、僅かに緩んだ。


正しい。


最も安全。


エルサは王宮へ行かない。


錫の塔で待つ。


職人が調べ、結果だけを聞く。


それでよい。


マルコが扉へ手をかける。


「ただし」


止まる。


「何」


「王宮で問題が起きたら、錫の塔はしばらく閉じることになる」


緩んだものが、元へ戻った。


「なぜ?」


「問題麦を最初に異常報告したのはうちだ。警告も出した。王宮へ人も送った。それでも事故が起きれば、調査対象になる」


「煙突の免責は?」


「感染症、火災、盟約違反、王族への攻撃疑い。理由は作れる」


王宮が毒殺未遂と判断すれば、錫の塔の自治は弱くなる。


衛兵が入れなくても、取引を止められる。


食材の搬入。


燃料。


水路。


外部雇用。


酒場営業。


塔は壁だけで生きているわけではない。


「職員は?」


「外へ出たところを調べられる」


「身元確認も?」


「されるだろうな」


エルサは黙った。


王宮へ行かない。


その結果、王宮で事故。


錫の塔が調査対象。


下働きの身元確認。


エルサという名前の裏に何もないと分かる。


逃げる。


また名前と寝床と仕事を失う。


安全な選択ではない。


危険の場所が変わるだけだった。


「先に言って」


「聞かれなかった」


リーネと同じ言い方だった。


この塔の人間は、必要な情報をこちらが質問するまで隠す習慣でもあるのか。


「わざとね」


「行けとは言ってない」


「行かなかった場合の費用を出しただけ」


「交渉はそうするもんだろ」


「誰に教わったの?」


「痩せた猫」


腹立たしい。


エルサは丸机の紙を見る。


王宮へ行く危険。


行かない危険。


一方は即時。


一方は少し遅い。


自分だけの危険なら、逃げればよい。


だが錫の塔が閉じれば、食事と寝床と一か月雇用が消える。


内部記録閲覧権も。


旧共同穀物庫の調査も止まる。


黒い根の記録へ触れられなくなる。


エルサは国を救いたいわけではない。


王族を助けたいわけでもない。


クロエの頼みを聞く義理など、なおさらない。


ただ、自分の職場を失いたくない。


動機としては十分だった。


「条件がある」


マルコが振り返る。


「行くのか?」


「条件が合えば」


「急使を待たせてる」


「王宮の一刻と、私の命を同じ秤へ載せないで」


「聞こう」


エルサは炭筆を取った。


「危険手当」


「いくら」


「通常日当の十倍」


「高い」


「王宮で顔を見られれば、一生分の給金が不要になる可能性があるわ」


「死ぬから?」


「処刑囚に給金を払う雇用主はいないでしょう」


「五倍」


「十倍」


「六」


「十二」


「増えたぞ」


「値切られたから」


「七」


「十。それ以下なら行かない」


マルコは少し考えた。


「十」


即答した。


もっと取れた。


エルサは不快になった。


「簡単に払うのね」


「王宮へ請求する」


「支払わなかったら?」


「クロエの婚礼祝いから引く」


「それは少し見たい」


「次」


「前払い半分」


「帰ってこなかった時は?」


「残りをグレタへ。私の私物処分費用にする」


マルコの表情が一瞬だけ変わった。


すぐ消える。


「分かった」


「次。身元を尋ねられても、錫の塔の臨時記録補助とだけ答える。過去、出身、家族については答えない」


「答えないことで怪しまれたら?」


「塔の内部雇用記録は自治情報だと押し通す」


「煙突の免責を使うわけか」


「使える壁は使うわ」


「次」


「顔を隠す。深いフード。髪は全部入れる。煤を少し。化粧はしない」


「煤はいつもついてる」


「今日は意図的につけるの」


「違いが分からん」


「私には分かる」


「王宮の奴には?」


「たぶん分からない」


「頼りないな」


「変装は、相手が見たいものを見せれば成立する。王宮の人間は、煤まみれの下働きの顔を覚えようとしない」


シシーリアだった頃、自分もそうだった。


料理を運ぶ女。


床を拭く少年。


薪を積む男。


視界には入る。


記憶には残らない。


今度は、その無関心を利用する。


「搬入口は?」


エルサが聞く。


マルコは紙へ図を描いた。


「西の外宴用食材搬入口」


「だめ」


「なぜ」


「ゼーヴェル家の納入商人が使う。顔見知りが多い」


「南側」


「宴席の日は検査官が増える」


「東」


「白金と金の塔の搬入と重なる」


「北は?」


「肉と乳製品」


「フォルクナー系ね」


「ああ」


王都北西から入る畜産物。


軍の食材供給と同じ経路。


ゼーヴェルの商人は少ない。


「北の食材搬入口」


エルサは決めた。


「荷車へ隠れる」


「歩いて入った方が自然だ」


「門番に顔を上げろと言われる」


「荷物検査は?」


「食材の下へ入る。空樽か、蓋つき箱」


「また樽か」


「嫌よ」


反射的に答えた。


暗い樽。


膝を抱えた姿勢。


酸っぱい酒。


地下水路。


蓋が閉まる音。


身体が先に拒否した。


「箱」


エルサは言った。


「通気穴を開ける。上へ軽い野菜。重い袋は載せない」


「注文が多い」


「生きたまま運ぶ荷物には配慮が必要でしょう」


「前にも聞いた気がするな」


「私は二度と樽へ入らない」


「分かった。箱」


炭筆が走る。


「拘束された場合」


エルサは続けた。


「錫の塔は?」


「抗議する」


「具体的に」


「塔の人間を、塔長への通知なしに拘束したとして返還を求める」


「王宮が拒否したら?」


「六塔へ通知」


「それでは遅い」


「王宮内で奪い返せと言うのか?」


「拘束された時点で、私を知らないと切る可能性を確認しているの」


マルコは炭筆を置いた。


「切らない」


言葉は短かった。


「理由は?」


「契約中だからだ」


温かい言葉ではない。


だが、エルサにはその方がよかった。


仲間だから。


信じているから。


守るから。


そう言われても、状況が変われば破られる。


契約中。


期限と義務がある。


「契約終了後なら?」


「その質問は帰ってからにしろ」


「逃げたわね」


「時間がない」


マルコは紙へ書く。


拘束時、錫の塔が身柄返還要求。


「王宮側が私の正体へ気づいた場合は?」


沈黙。


最も重要な条件だった。


マルコはすぐ答えない。


「知らないふりをする?」


エルサが聞く。


「そうしてほしいなら」


「助けると言ったでしょう」


「エルサとしては助ける」


「シシーリアだと分かった後は?」


「お前がどっちで助けてほしいかによる」


予想していなかった答えだった。


エルサは炭筆を持ったまま止まる。


シシーリア。


死刑囚。


ゼーヴェル家の元養女。


王太子の元婚約者。


その名で保護すれば、錫の塔は国家反逆者を匿ったことになる。


エルサ。


身元不明の記録補助。


その名なら、王宮の誤認だと争える。


「エルサとして」


彼女は答えた。


「シシーリアは死んでいる」


「分かった」


マルコは紙へ書かなかった。


記録へ残せない条件だった。


それでも、返事は残る。


「次。現場で私が撤退を決めたら、従うこと」


「誰が同行すると思ってる?」


「マルコは来ないの?」


「塔長が王宮へ行けば、正式案件になる」


「クロエの招集は正式でしょう」


「招集されたのは技術者だ。塔長じゃない」


「誰をつけるの」


「フランツ」


道具主任。


旅職人。


魔導具と設備を見られる。


口数が少なく、余計なことを聞かない。


悪くない。


「クルトは?」


「小麦と発酵は必要だが、顔が知られている。クロエの元上司だからな」


「リーネ」


「連れていかない」


「なぜ?」


「王宮に慣れてない」


「私も現在は慣れていないことにしたいのだけど」


「リーネは顔へ全部出る」


それは否定できない。


王宮を見れば驚く。


貴族を見れば嫌な顔をする。


エルサが不自然な動きをすれば、さらに顔へ出る。


「フランツだけ?」


「お前とフランツ。外でハンスが荷車を待つ。問題があれば戻せる」


「武器は?」


「包丁」


「王宮へ包丁を持ち込むの?」


「料理人だろ」


「私は記録補助よ」


「炭筆で戦え」


「逃げる方が早いわ」


「そのための搬入口だ」


条件は揃い始めた。


危険手当。


変装。


食材箱。


北搬入口。


フランツ同行。


拘束時の返還要求。


エルサとして扱う。


撤退判断。


まだ足りない。


「王宮内では、クロエと直接会わない」


マルコが眉を上げる。


「向こうが会いたがったら?」


「壁か紙」


「前と同じだな」


「何?」


「何でもない」


エルサは彼を睨んだ。


マルコは咳払いする。


「ほかは?」


「レオンハルトにも会わない」


名前が、今度は声になった。


扉の外で何かが擦れた。


急使が動いたのかもしれない。


聞こえた可能性。


エルサの背中へ冷たい汗が滲む。


「王太子殿下、と呼べ」


マルコが低く言った。


「分かってる」


「今のは危なかった」


「分かってると言ったでしょう」


動揺すると戻る。


呼び方。


口調。


昔の距離。


王宮へ行くべきではない。


その結論は変わらない。


ただ、行かない費用の方が高くなっただけだ。


「会いそうになったら?」


マルコが聞く。


「隠れる」


「婚約者様より王太子の方が嫌か?」


「比較しないで」


「両方嫌?」


「一人は嫌い。もう一人は、会う理由がない」


それ以上は言わない。


会えば、彼は気づくだろうか。


痩せた顔。


短い髪。


煤。


粗末な作業着。


死者の姿ではない。


けれど、声を聞けば。


視線が合えば。


手の動き。


立ち方。


彼は自分を信じなかった。


だから、今度も気づかない可能性はある。


その方がよい。


その方が、ずっとよい。


「条件は以上」


エルサは炭筆を置いた。


マルコが紙を読む。


「細かい」


「命の契約は、皿洗い三日より細かくするものよ」


「署名は?」


「板へ書いて」


「またか」


「紙は持ち出される」


マルコは壁際から薄い木板を取った。


条件を転記する。


王宮臨時派遣。


危険手当十倍。


半額前払い。


北搬入口。


食材箱。


顔を隠す。


フランツ同行。


撤退判断は現場。


拘束時は錫の塔が返還要求。


雇用上の身分は記録補助エルサ。


最後に、マルコと書く。


エルサも署名した。


初めてこの名を書いた時より、手は止まらなかった。


ただの偽名ではなくなっている。


少なくとも、給金を請求できる名前ではある。


「成立」


マルコが言った。


「前金」


エルサは手を出した。


「今?」


「今」


「準備が先だろ」


「王宮へ入った後では遅い」


マルコは腰袋から硬貨を数えた。


ミント貨。


錫の塔の日当五日分。


危険手当の半分としては、軽い音だった。


エルサは一枚ずつ確認する。


「偽物じゃない」


「雇用主を疑うのか?」


「商人は疑われることを前提に商売するものよ」


「俺は商人じゃない」


「それなら、簡単に信用できる理由もないわ」


硬貨を内側の袋へ入れる。


逃げる時の資金になる。


逃げずに戻れれば、冬服を買える。


あるいは食費。


最近の錫の塔なら、肉へ寄付してもよいかもしれない。


そこまで考えて、自分で驚いた。


給金を塔の食卓へ戻す発想。


以前なら、最も効率の悪い支出と判断しただろう。


「準備する」


マルコが扉を開ける。


急使が廊下の壁際へ立っていた。


手には湯の入った木杯。


規定上、飲めないのではなかったか。


半分ほど減っている。


「派遣を受諾する」


マルコが告げた。


急使の顔に安堵が浮かぶ。


「至急、王宮へ――」


「準備に半刻」


「宴席開始まで時間が」


「だから半刻だ」


「派遣される方は?」


急使の視線がエルサへ向く。


頭巾。


煤けた前掛け。


短い髪。


薄い体。


どう見ても、王宮が緊急招集する専門家ではない。


エルサは彼が失望するのを見た。


よい兆候だった。


この顔を覚えようとはしない。


「記録補助のエルサ」


マルコが言う。


「それと旅職人フランツ」


「この方が?」


「嫌なら別を探せ」


急使は口を閉じた。


王宮は人を呼べる。


ただし、必要な人間を選べるとは限らない。



グレタは話を聞くと、最初にエルサの前掛けを剥いだ。


「これじゃ厨房へ入れてもらえないよ」


「汚れている方が目立たない」


「汚れと不潔は違う」


錫の塔の理屈だった。


作業の煤はよい。


食材へ触れる汚れはだめ。


貸与用の上着。


濃い茶色。


袖口へ錫の塔の小印。


深いフードの外套。


髪を布で包み、耳まで隠す。


グレタは頬へ薄く煤を塗った。


「多すぎない?」


エルサが言う。


「顔が白い」


「死人だから?」


「王宮育ちみたいだから」


心臓が跳ねる。


グレタは気づかず、反対の頬も擦った。


「これで下働きだ」


「普段も下働きでしょう」


「普段は口だけ貴族だよ」


否定しにくい。


フランツはすでに道具箱を用意していた。


細い検査針。


錫板。


温度札。


小瓶。


布。


簡易刻印紙。


「あれも持つ」


彼は棚の上を指した。


「どれ?」


「細管」


「自分で取って」


「手が塞がってる」


いつも通りだった。


王宮へ行く緊張が少しだけ薄れる。


エルサは細管を取った。


「王宮では私を見ないで」


「なぜ」


「知り合いに見える」


「同行者だ」


「必要な時以外、話さないで」


「いつも話してない」


「確かに」


フランツは荷物を確認する。


「歩けるか」


「歩けるわ」


「王宮の中」


エルサの手が止まる。


彼は何か知っているのか。


ただ、長い調査になると考えただけか。


「歩ける」


「靴」


下を見る。


貸与の木靴では音が大きい。


グレタが柔らかい革靴を出した。


誰かの古靴。


踵が少し緩い。


中へ布を詰める。


死者の靴よりは合っていた。


「食べていきな」


グレタが言った。


「時間がない」


「食べずに王宮へ行って、出された物を食う気かい?」


その言葉で、エルサは黙った。


王宮の料理。


美しく、温かく、正しい印がついた食材。


今は何一つ信用できない。


グレタが布包みを渡す。


黒パン。


冷えたヴルスト。


薄い。


肉の少ない安物。


それでも、噛めば脂と塩が出る。


「道中で食べな」


「代金は?」


「今夜のあんたの分」


「危険手当から引かないで」


「生きて帰ったら考えるよ」


即物的な優しさだった。


エルサは包みを外套の内側へ入れた。


温かくはない。


だが、持っているだけで少し落ち着く。


食べ物は帰る場所の一部だ。


今なら、そう理解できる。



北搬入口へ向かう荷車には、乳桶、玉子箱、香草、カブ、タマネギが積まれていた。


その中央に、細長い木箱。


本来は空瓶を運ぶもの。


底へ毛布。


側面へ小さな通気穴。


上には軽い香草籠だけを載せる。


「狭い」


エルサは言った。


「樽より広い」


マルコが答える。


「比較対象が悪い」


「歩いて入るか?」


エルサは箱を見た。


暗い。


蓋が閉まる。


逃げ場がない。


一瞬、地下牢の石壁が近づいた。


革紐が首へ触れる。


死者の冷たい服。


樽の酸っぱい臭い。


息を吸う。


今は違う。


自分で条件を決めた。


蓋には内側から押せる留め具。


フランツが隣にいる。


外にはハンス。


契約板もある。


何より、箱の中には生きて入る。


死体の代わりではない。


「入るわ」


荷台へ上がる。


外套の裾をまとめ、箱へ脚を入れる。


膝を曲げる。


横になるほどではない。


座った姿勢で背を丸める。


それでも狭い。


フランツが通気穴を確認する。


「苦しくなったら二回叩け」


「一回は?」


「荷崩れ」


「三回」


「検査」


「四回」


「知らん」


「決めておきなさい」


「四回は出る」


「最初からそう言って」


蓋が下りる。


光が細くなる。


完全に閉じる直前、マルコの顔が見えた。


煤けた前掛け。


丸い顔。


いつもと同じ。


「エルサ」


呼ばれる。


すぐ顔を上げた。


箱の中なので、上げても蓋へ額をぶつけただけだった。


鈍い音。


マルコが笑う。


「死ぬなよ」


「危険手当を払いたくないから?」


「帰ってこないと、残りをグレタに払う契約だろ」


「では、雇用主に損はないわね」


「皿洗いが一人減る」


「記録補助よ」


「皿も洗え」


蓋が閉まる。


暗くなる。


外から留め具の音。


荷車が揺れた。


車輪が石畳へ乗る。


ごとり。


箱の中で、エルサは黒パンと冷えたヴルストの包みを抱えた。


かつて、王宮へ入る時は正門を使った。


磨かれた馬車。


ゼーヴェル家の紋章。


絹のドレス。


護衛。


侍女。


王太子の婚約者として、門番が頭を下げた。


今は食材の下。


煤まみれの外套。


偽名。


危険手当十倍。


見つかれば処刑される可能性。


随分と待遇が下がった。


ただし、前より一つだけましな点がある。


今回は、自分で行くと決めた。


荷車が錫の塔の門を出る。


音が変わる。


外の街路。


王宮へ向かう車輪の響き。


エルサは通気穴から入る冷たい空気を吸った。


死人は王宮へ戻りたくない。


だが、仕事を失いたくない死人には、選択肢が少なかった。

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