【旅するロボットⅤ】 雪の温度
冬の長野を舞台に、人とロボットが同じ雪景色を歩く物語です。
大きな事件は起こりませんが、何気ない会話や冬の空気の中で、それぞれが抱える思いが少しずつ浮かび上がっていきます。
静かな読後感を楽しんでいただければ幸いです。
## 一
その冬、麻衣は初めてハチを長野に連れていった。
理由を聞かれたら、うまく答えられなかったと思う。
ただ、冬になると、ハチがどこかへ消えてしまう気がした。
勇樹には「荷物が多いから」と言った。
悠斗には何も言わなかった。
ハチにも、何も言わなかった。
ハチは「承知しました」とだけ言った。
それ以上、何も聞かなかった。
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長野の冬は、麻衣が子どもの頃から変わらなかった。
駅を出ると、空気が頬を刺した。
息が白くなった。
雪はまだ降っていなかったが、降る前の匂いがした。
ハチが隣に立った。
「気温は零下二度です。路面が凍結している可能性があります」
「知ってる」
「足元にお気をつけください」
「毎年来てるから」
麻衣は歩き出した。
ハチがついてきた。
足音が、雪のない石畳に響いた。
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## 二
母の家は、駅から十五分ほどのところにあった。
古い平屋で、庭に柿の木が一本あった。
今の季節は葉が落ちて、枝だけになっていた。
玄関を開けると、灯油ストーブの匂いがした。
母の礼子が廊下に出てきた。
七十二歳になっていた。
少し腰が曲がっていたが、目だけは変わらなかった。
「また来たね」
「うん」
「それは」と礼子がハチを見た。「前に言ってたロボット?」
「そう。ハチ」
「大きいね」
礼子はハチを、上から下まで一度だけ見た。
それから、「上がって」と言って奥に入った。
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夕飯は、礼子が一人で作っていた。
根菜の煮物。
漬け物。
白菜と豆腐の鍋。
麻衣は手伝おうとして、「いい」と言われた。
毎回そうだった。
ハチは台所の隅に立っていた。
礼子が鍋の火加減を見ながら言った。
「そのロボット、寒くないの?」
「私には体感がありません」とハチが答えた。
「そう」
礼子は鍋をかき混ぜた。
「じゃあ、暖かくもないのね」
「はい」
「かわいそうに」
ハチは何も言わなかった。
麻衣は居間から、それを聞いていた。
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## 三
夜、礼子が先に寝た。
麻衣はストーブの前に座って、お茶を飲んでいた。
ハチは壁際に立っていた。
「ハチ、寒い部屋って、苦手?」
「苦手、という概念が」
「そういうことじゃなくて」
「わかっています」
ハチは少し間を置いた。
「低温環境では、一部の処理速度が落ちます。ただし、機能上の問題はありません」
麻衣はお茶を一口飲んだ。
「悠斗から聞いた。去年の夏、岐阜に行ったこと」
「はい」
「足を引き抜いた話、ハチが間に合わなかったって」
「そうです」
ストーブが、小さくうなった。
「怖かった?」
「怖い、という感覚が」
「わかってる」と麻衣は言った。「でも聞いた」
ハチはしばらく黙った。
「……間に合わなかった、ということは、記録されています」
麻衣は、火を見ていた。
赤くて、小さくて、一定だった。
一度だけ、息を吸った。
ゆっくり、吐いた。
カップを両手で持った。
温度だけが、確かだった。
指先に、熱が移った。
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## 四
翌朝、雪が降り始めた。
細かい雪だった。
積もるというより、空気に混じっているような降り方だった。
礼子が縁側に出て、庭を見ていた。
麻衣も隣に立った。
「今年は遅かった」と礼子が言った。
「そうね」
「あんたが来る日に降るね、毎年」
「偶然だよ」
「偶然でも、来てくれるからいいけど」
礼子は柿の木を見ていた。
枝に雪が積もり始めていた。
「ロボット、外に出して大丈夫なの?」
「防水はある程度あるから」
「あの子、昨日からずっと立ってるね?」
「そういうものだから」
「疲れないの?」
「疲れないと思う」
礼子は少しの間、黙った。
「疲れない方が、いいことばかりじゃないね」
麻衣は何も言わなかった。
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午前中、麻衣はハチと二人で近くを歩いた。
雪道だった。
ハチが先に立って、凍結した場所を避けるルートを案内した。
麻衣は黙ってついていった。
しばらく歩いたところで、麻衣が立ち止まった。
足音が、一拍だけ続いた。
少し遅れて、ハチも止まった。
「どうしたの?」
「処理に、〇・三秒の遅延が発生しています。気温が下がっています」
「大丈夫?」
「機能上は問題ありません」
「〇・三秒って、どのくらい?」
「悠斗さんが岐阜で経験した遅延より、少し小さい値です」
「じゃあ、大丈夫ね」
ハチは答えなかった。
麻衣は前を向いた。
もう聞かなかった。
空が、少し白くなった。
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## 五
昼過ぎ、礼子が昼寝をした。
麻衣は台所でお茶を入れながら、ハチに言った。
「ねえ、ハチ。一つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「ハチって、壊れることある?」
ハチは少し間を置いた。
「物理的な損傷や、部品の経年劣化は起こります」
「修理できないくらい、壊れることは?」
「……あります」
「そうなったら、どうなるの?」
「機能が停止します」
麻衣はお茶を注いだ。
湯気が上がって、消えた。
「それって、死ぬってこと?」
「定義によります」
「ハチの定義では?」
ハチはしばらく黙った。
処理ログの端に、分類できない項目が一瞬だけ浮かんだ。
それが何かを、ハチは知らなかった。
「……私には、その問いに答えるための基準が、まだありません」
麻衣はカップを両手で持った。
温かかった。
「そっか」
それだけ言って、窓の外を見た。
雪はまだ降っていた。
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## 六
帰る日の朝。
礼子が玄関先に出てきて、みかんを袋に入れて持たせてくれた。
それから、ハチに向かって言った。
「また来なさい」
麻衣を見て言ったのか、ハチを見て言ったのか、わからなかった。
麻衣も聞かなかった。
ハチも聞かなかった。
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駅に向かう道で、麻衣がハチに言った。
「来てよかった?」
「……来てよかった、という感覚があるかどうか」
「わかってる。でも聞いた」
ハチは雪道を歩きながら、少し間を置いた。
「礼子さんが、『かわいそうに』と言いました」
「聞こえてたの?」
「はい」
「気にしないで」
「気にする、という感覚が」
「わかってる」
麻衣は少し笑った。
「でも、覚えてる?」
「記録されています」
「それだけでいい」
雪が、また降り始めた。
二人の足跡が、白い道に残った。
麻衣の手が、冷たかった。
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## 七
東京に戻った夜。
勇樹がお茶を入れながら言った。
「どうだった?」
「寒かった」
「ハチは?」
「遅延が出てた。〇・三秒」
「問題なかったか?」
「問題なかった」
勇樹は少しの間、黙った。
それから言った。
「また連れていくの?」
「たぶん」
麻衣はみかんを袋から一つ取り出して、テーブルに置いた。
勇樹がそれを見た。
何も言わなかった。
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悠斗は、遅くに帰ってきた。
受験勉強で塾に行っていた。
リビングに顔を出して、麻衣を見た。
「帰ってたんだ」
「うん」
「長野、どうだった?」
「雪が降った」
「ハチは?」
麻衣は少し間を置いた。
「ちゃんといた」
悠斗は、階段に足をかけたまま、少し止まった。
それから「そっか」と言って、上がっていった。
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その夜、ハルは枕元にいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『雪の温度』は、寒さを感じないロボットと、雪の冷たさや手の温もりを知る人間を対比しながら、「一緒にいること」の意味を描きたいと思って書いた作品です。
ハチは感情を持たない存在ですが、人と関わることで少しずつ答えのない問いに触れていきます。その変化を、静かな冬の景色の中で感じていただけていたらうれしいです。
ご感想や評価、ブックマークをいただけると、今後の創作の励みになります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




