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旅するロボット

【旅するロボットⅤ】 雪の温度

作者: macchao
掲載日:2026/06/14

冬の長野を舞台に、人とロボットが同じ雪景色を歩く物語です。


大きな事件は起こりませんが、何気ない会話や冬の空気の中で、それぞれが抱える思いが少しずつ浮かび上がっていきます。


静かな読後感を楽しんでいただければ幸いです。

## 一


 その冬、麻衣は初めてハチを長野に連れていった。


 理由を聞かれたら、うまく答えられなかったと思う。

 ただ、冬になると、ハチがどこかへ消えてしまう気がした。

 勇樹には「荷物が多いから」と言った。

 悠斗には何も言わなかった。

 ハチにも、何も言わなかった。


 ハチは「承知しました」とだけ言った。

 それ以上、何も聞かなかった。


---


 長野の冬は、麻衣が子どもの頃から変わらなかった。


 駅を出ると、空気が頬を刺した。

 息が白くなった。

 雪はまだ降っていなかったが、降る前の匂いがした。


 ハチが隣に立った。

「気温は零下二度です。路面が凍結している可能性があります」

「知ってる」

「足元にお気をつけください」

「毎年来てるから」


 麻衣は歩き出した。

 ハチがついてきた。

 足音が、雪のない石畳に響いた。


---


## 二


 母の家は、駅から十五分ほどのところにあった。


 古い平屋で、庭に柿の木が一本あった。

 今の季節は葉が落ちて、枝だけになっていた。


 玄関を開けると、灯油ストーブの匂いがした。

 母の礼子が廊下に出てきた。

 七十二歳になっていた。

 少し腰が曲がっていたが、目だけは変わらなかった。


「また来たね」

「うん」

「それは」と礼子がハチを見た。「前に言ってたロボット?」

「そう。ハチ」

「大きいね」


 礼子はハチを、上から下まで一度だけ見た。

 それから、「上がって」と言って奥に入った。


---


 夕飯は、礼子が一人で作っていた。


 根菜の煮物。

 漬け物。

 白菜と豆腐の鍋。


 麻衣は手伝おうとして、「いい」と言われた。

 毎回そうだった。


 ハチは台所の隅に立っていた。

 礼子が鍋の火加減を見ながら言った。

「そのロボット、寒くないの?」

「私には体感がありません」とハチが答えた。

「そう」

 礼子は鍋をかき混ぜた。

「じゃあ、暖かくもないのね」

「はい」

「かわいそうに」


 ハチは何も言わなかった。

 麻衣は居間から、それを聞いていた。


---


## 三


 夜、礼子が先に寝た。


 麻衣はストーブの前に座って、お茶を飲んでいた。

 ハチは壁際に立っていた。


「ハチ、寒い部屋って、苦手?」

「苦手、という概念が」

「そういうことじゃなくて」

「わかっています」


 ハチは少し間を置いた。

「低温環境では、一部の処理速度が落ちます。ただし、機能上の問題はありません」


 麻衣はお茶を一口飲んだ。


「悠斗から聞いた。去年の夏、岐阜に行ったこと」

「はい」

「足を引き抜いた話、ハチが間に合わなかったって」

「そうです」


 ストーブが、小さくうなった。


「怖かった?」

「怖い、という感覚が」

「わかってる」と麻衣は言った。「でも聞いた」


 ハチはしばらく黙った。


「……間に合わなかった、ということは、記録されています」


 麻衣は、火を見ていた。

 赤くて、小さくて、一定だった。

 一度だけ、息を吸った。

 ゆっくり、吐いた。

 カップを両手で持った。

 温度だけが、確かだった。

 指先に、熱が移った。


---


## 四


 翌朝、雪が降り始めた。


 細かい雪だった。

 積もるというより、空気に混じっているような降り方だった。


 礼子が縁側に出て、庭を見ていた。

 麻衣も隣に立った。


「今年は遅かった」と礼子が言った。

「そうね」

「あんたが来る日に降るね、毎年」

「偶然だよ」

「偶然でも、来てくれるからいいけど」


 礼子は柿の木を見ていた。

 枝に雪が積もり始めていた。


「ロボット、外に出して大丈夫なの?」

「防水はある程度あるから」

「あの子、昨日からずっと立ってるね?」

「そういうものだから」

「疲れないの?」

「疲れないと思う」


 礼子は少しの間、黙った。

「疲れない方が、いいことばかりじゃないね」


 麻衣は何も言わなかった。


---


 午前中、麻衣はハチと二人で近くを歩いた。


 雪道だった。

 ハチが先に立って、凍結した場所を避けるルートを案内した。

 麻衣は黙ってついていった。


 しばらく歩いたところで、麻衣が立ち止まった。

 足音が、一拍だけ続いた。

 少し遅れて、ハチも止まった。

「どうしたの?」

「処理に、〇・三秒の遅延が発生しています。気温が下がっています」

「大丈夫?」

「機能上は問題ありません」


「〇・三秒って、どのくらい?」

「悠斗さんが岐阜で経験した遅延より、少し小さい値です」

「じゃあ、大丈夫ね」


 ハチは答えなかった。

 麻衣は前を向いた。

 もう聞かなかった。


 空が、少し白くなった。


---


## 五


 昼過ぎ、礼子が昼寝をした。


 麻衣は台所でお茶を入れながら、ハチに言った。

「ねえ、ハチ。一つだけ聞いていい?」

「どうぞ」

「ハチって、壊れることある?」


 ハチは少し間を置いた。

「物理的な損傷や、部品の経年劣化は起こります」

「修理できないくらい、壊れることは?」

「……あります」

「そうなったら、どうなるの?」

「機能が停止します」


 麻衣はお茶を注いだ。

 湯気が上がって、消えた。


「それって、死ぬってこと?」

「定義によります」

「ハチの定義では?」


 ハチはしばらく黙った。

 処理ログの端に、分類できない項目が一瞬だけ浮かんだ。

 それが何かを、ハチは知らなかった。


「……私には、その問いに答えるための基準が、まだありません」


 麻衣はカップを両手で持った。

 温かかった。


「そっか」


 それだけ言って、窓の外を見た。

 雪はまだ降っていた。


---


## 六


 帰る日の朝。


 礼子が玄関先に出てきて、みかんを袋に入れて持たせてくれた。


 それから、ハチに向かって言った。

「また来なさい」

 麻衣を見て言ったのか、ハチを見て言ったのか、わからなかった。

 麻衣も聞かなかった。

 ハチも聞かなかった。


---


 駅に向かう道で、麻衣がハチに言った。

「来てよかった?」

「……来てよかった、という感覚があるかどうか」

「わかってる。でも聞いた」


 ハチは雪道を歩きながら、少し間を置いた。


「礼子さんが、『かわいそうに』と言いました」

「聞こえてたの?」

「はい」

「気にしないで」

「気にする、という感覚が」

「わかってる」


 麻衣は少し笑った。


「でも、覚えてる?」

「記録されています」

「それだけでいい」


 雪が、また降り始めた。

 二人の足跡が、白い道に残った。

 麻衣の手が、冷たかった。


---


## 七


 東京に戻った夜。


 勇樹がお茶を入れながら言った。

「どうだった?」

「寒かった」

「ハチは?」

「遅延が出てた。〇・三秒」

「問題なかったか?」

「問題なかった」


 勇樹は少しの間、黙った。

 それから言った。

「また連れていくの?」

「たぶん」


 麻衣はみかんを袋から一つ取り出して、テーブルに置いた。

 勇樹がそれを見た。

 何も言わなかった。


---


 悠斗は、遅くに帰ってきた。

 受験勉強で塾に行っていた。


 リビングに顔を出して、麻衣を見た。

「帰ってたんだ」

「うん」

「長野、どうだった?」

「雪が降った」

「ハチは?」


 麻衣は少し間を置いた。

「ちゃんといた」


 悠斗は、階段に足をかけたまま、少し止まった。

 それから「そっか」と言って、上がっていった。


---


 その夜、ハルは枕元にいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


『雪の温度』は、寒さを感じないロボットと、雪の冷たさや手の温もりを知る人間を対比しながら、「一緒にいること」の意味を描きたいと思って書いた作品です。


ハチは感情を持たない存在ですが、人と関わることで少しずつ答えのない問いに触れていきます。その変化を、静かな冬の景色の中で感じていただけていたらうれしいです。


ご感想や評価、ブックマークをいただけると、今後の創作の励みになります。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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