エピソード95 聖女の仮面が剥がれる夜
申し訳ありません。誤ってこのエピソードの前にエピソード96を投稿してしまっていました。
辺境伯邸での晩餐はいつもネームプレートがテーブルに並べられていて、それに従って着席する決まりだ。
従僕が引いてくれた椅子に座って、しばらくするとクラウス卿が歩いてくるのが見えた。
髪がほつれたりしていないかと、わたしがこめかみを触っていると、彼は目の前で足を止めた。
「ドレスアップしたんだな。一段と綺麗だ……」
「——ありがとうございます……」
うっ……嬉しい。
おめかしした甲斐があったと、髪を結ってくれたニノに心の中で感謝した。
だけど、この胸のむず痒さを持て余してしまう……。
クラウス卿は隣の席に座った。
彼もシャワーを浴びたらしく、微かに石鹸の香りがした。濃紺のジュストコールに白いクラバット姿が目に眩しい。
「クラウス卿、あれから何か後遺症のようなものはありませんか?」
「特になんともない。今日は本当にありがとう」
「こちらこそ、危ないところを何度も助けて頂きました。ありがとうございました」
「……バジリスク、あれはソルカリスと酷似していた。怖い思いを——しただろう?」
「……はい、思い出す度に背筋が凍る気がします」
「それなのに——身を挺して私を護ろうとしてくれた。熱く——痛かっただろう?」
背にバジリスクの炎の熱を受けた時の痛みを思い出した。
ただこの人を護りたい——その一心で、あの時身体は自然に動いていた。
今、彼から向けられている眼差しは、あの時の痛みを忘れさせるものだ。
背中を視線で撫でおろされるような甘やかな気分をもたらしてくる。
胸の奥がこそばゆいような、落ち着かない気分になり——、もじもじと膝の上で指を組み替えた。
「凄く怖く、熱かったはずなのに、私を護ろうと……。そんな君を守ってやれないのが歯痒く、腹立たしく——どうにかなりそうだった」
「いつも誰かを護ることばかり考えているからですよ。たまには護られて下さい」
「いや、私は——無力感に苛まれるのはこりごりだな。護られるより、護る方が性に合っている。
だけど、嬉しかった……。君が護ってくれて——」
その時、険のある言葉が投げかけられた。
「お二人は——仲睦まじいご様子ね。
でもクラウス卿も、お気をつけになったほうがよろしくてよ」
——イリーナだった。
つい先ほど、殿下の部屋から取り乱した姿で飛び出したことを忘れさせるかのような、隙のない姿だ。
短時間で髪は整えられ、化粧も完璧に直されている。
「——どういうことでしょうか?」
クラウス卿が眉を上げてイリーナに問いかけた。
イリーナは胸の前で腕を組み、悪意の籠った視線をわたしに当ててから、クラウス卿に笑みを向けた。
「人の婚約者に色目を使うような、令嬢とは名ばかりのそんな女性。何人の男性の気を引いて手玉にとっているか——わかりませんわよ?」
クラウス卿の目に一瞬険が宿った。
酷い言い草だ……。
わたしが殿下の気を引いたと?
二人の間で、わたしの名が出たのだろうか?
わたしは色目なんて使ってないし、言いがかりの逆恨みだと思う。
だけど、そうわたしが言い返すより先に、クラウス卿が低い声音でイリーナに返した。
「ジェマ嬢と一緒に過ごしてみて、あなたの言い分を真に受ける人はいないでしょうね。
彼女の人品に欠ける点はありませんし、異性とも適切な距離を保っている。
おかしな印象を持つのは、ご自身の品性に問題がおありなのでは?」
クラウス卿が放ったのは痛烈な一言だった。
イリーナの顔色が変わった——。
「……な、なんですって? 人が親切に忠告してあげているのに……言うに事欠いて——」
よほど癪に触ったのか、イリーナの握りしめた拳がぶるぶる震え、眉間には皺がよっていた。
それなのに火に油を注ぐように、クラウス卿は更に言葉を続けた。
「婚約を解消——でもされたんですか?
だったら罪もない人を貶めるより、自分の行いを振り返った方がよいのでは?」
彼の言葉を聞いて、イリーナは言葉を失ったように青褪めて黙り込んだ。
周囲に囁き声が波紋のように広がっていく。
晩餐前、ほぼ全員が席に着き、あとは殿下の到着を待つばかりという時だった。
気が付くと話し声がやみ、皆がイリーナとクラウス卿の会話に聴き耳を立てていた。
イリーナはドレスの布地を強く握りしめ、キッ——とクラウス卿を睨んで叫んだ。
「婚約は——解消されてなんていないわ!
いい加減なことを口にしないでちょうだい。
私は聖女なの。ギルベアト殿下には私こそが必要だし、相応しいの。皇后陛下だってそうお考えよ」
興奮気味に捲し立てる、その姿は、今まで皆に見せていた奥ゆかしい令嬢とは真逆の姿だった。
「婚約解消……されたのか? されてないのか?」
「あんなにギル様って呼んで慕っていたのに——ショックだろうな」
「俺でよければ次の婚約者に立候補してもいいがなぁ」
口々に自分の婚約のことを囁かれて、何かがプツリ——と切れたかのように、イリーナが引き攣った表情を浮かべた。
「うるさいっ! うるさい、うるさい……うるさいわ! こんな女に、この私が負けるとでも言うの? ギルベアト様はそんなに悪趣味じゃないわ」
イリーナを見守っていた聴衆も、彼女がひと睨みすると、気まずげに視線を逸らした。
そして、イリーナの狂気じみた執着心に恐れをなしたように黙り込む。
けれどそこで、激情に駆られているイリーナに冷や水をかけるように、殿下の声が聞こえた。
「随分——僕のことを買い被ってくれてるんだな。
だが、あいにく僕は——イリーナ、君の言う悪趣味なようだ」
「——ギル様? 酷い……ですわ。私達、婚約しているのに。どうして婚約者の私を庇っては下さらないの?」
「君との婚約は解消すると、何度もそう言った筈だ」
殿下は呆れたように肩を竦めた。
「ギル様は分かってない。この女の本性を。騙されては駄目よ!」
「僕の目が曇っていたとしたら、それは——イリーナ、君を見誤って婚約した時だ」
凍りつきそうな冷たい視線でイリーナを見つめたまま、殿下はそう言った。
「——嘘よ! そんな……ギル様、酷いわ……。
なんてことをおっしゃるの?
私はあなたのために、あんなに尽くしてきたのに……」
とうとうイリーナは、髪を振り乱し、泣きじゃくり始めた。
そして、殿下はそんな彼女を無視するように自分の席に座った。
泣き崩れた自分を殿下が慰める様子もないのを見てとったのか、しばらくするとイリーナは立ち上がり、血走った憎悪の籠った目でわたしを睨みつけた。
その目は——このまま終わるつもりはない、とでも語っているようだった。
そして、すっと背を向けると、そのままサロンを出ていく。
その時のイリーナは心底から怖ろしく感じられ、何かとんでもないことをしでかすんじゃないかという危うさを纏って見えた。




