エピソード94 選べない想い
イリーナが聖力を使い果たしたと言って歩み去り、負傷者達はそのまま後に残された。
彼らの傷痕や、苦痛に眉を顰める様子が目に留まり、このまま放置するのは気の毒に思う。
それでイリーナの代わりに彼らを癒そうと、歌うことを申し出たけど、殿下は首を振った。
「君は魔力切れを起こしていただろう? 重症者はいないようだし、手当てをすれば事足りるから歌わなくていい」
「え、魔力ではなく聖力で癒——」
言いかけたわたしの言葉を遮った殿下は、声を潜めて耳元で囁いた。
「今はまだ聖女として認識されたくないんだろう? 聖力のことはまだ口にしない方がいいのではないか?」
確かにそうかもしれない、と思ったわたしは大人しく部屋に戻ることにした。
コカトリスの魔窟から帰る時に、強制水浴びで、見た目はすっきりしたものの、ゾンビダスの血の臭いが残っている気もしていたし、晩餐の前に丁寧に身体を洗わずにはいられない。
母直伝のラベンダーを使った洗髪剤で頭皮をマッサージしながらよく洗い、ラベンダー入りの石鹸でごしごしと身体を洗う。
魔力切れ時にも使えるように、とチェシアレン伯爵に頂いた魔道具の乾かし機を使って髪を手櫛でほぐしながら乾かした。
淡い水色のスクエアネックのドレスを身につけていると、隣室のニノとヘンリエッタが来た。
ニノは焦茶の髪を複雑に編み込んで、襟元や袖口にフリルがついた若草色のドレス姿で、ヘンリエッタは黒髪に銀の蝶の髪飾りをつけ、パンジー色のフェミニンなドレスを着ている。
彼女達は自分達の準備が終わったので、わたしの支度を手伝ってくれると言う。
「私達留守番組は魔獣の目撃情報もなくて、平和な一日だったけど、コカトリスの魔窟討伐組は大変だったみたいね」
ニノはそう言いながら、こめかみだけを残して頭頂部に近い髪から編み込んでくれる。
「そうなの。ソルカリスに似たバジリスクっていうネームドがいて……」
わたしの話を聞いた二人は恐ろしげに身を震わせたり、胸を撫で下ろしたりしていた。
「私は今日は非番だったから、第三部隊のルパート騎士とデートしてきたの」
ベッドに腰掛けてニノの器用な手先を見つめていたヘンリエッタが呟いた。
「ルパートさんと付き合うことにしたの?」
わたしが訊ねると、ヘンリエッタは唇に指先を押し当て、考える素振りをみせた。
「……まだ分からないわ。もっとデートをして、お互いのことをよく知り合ってみないとね」
「それはそうよね……」
頷き、ふと思い浮かんだ質問を口にした。
「ねえ……もし、ヘンリエッタがルパートさんを好きになって、付き合ったとして……。
その後でまた違う人と出会って、どちらも手放したくないって思ってしまったら……どうする?」
「そうねえ……、後から出会った人の方が好きになったら、ルパートさんに謝って、その人と付き合う。
でも同じくらい好きなら……たぶんルパートさんとの付き合いを続けるかな?」
ヘンリエッタは迷いながらも長く付き合いのある人を選ぶと答えた。
「私なら、後から知り合った人と付き合うわ! 深く知り合えば、もっと好きになれる人かもしれないじゃない?」
ニノはヘンリエッタとは違う意見のようだ。
「そういうジェマはどっちなの?」
「——分からない……。同じくらい好きで、同じくらい大事で。でも二人ともは選べないでしょう? そんな……世間でふしだらって言われるようなことは——できないし……」
結局わたしは答えを出せないままで、ヘンリエッタとニノが顔を見合わせた。そして何か小声で話している。
わたしは大きな溜め息をいた。
——遠く離れていても、ロイのことは変わらず好きだ。
だけど、今日改めて思った。
——わたしは思っていた以上にクラウス卿に惹かれている。
どうすればいいんだろう——?
「きっと、クラウス卿と殿下の間で板挟みなのね」
ニノがわたしの心を見透かしたように囁いた。
相手は違うけれど、言い当てられてドキリとした。
「二人とも美男子だし、迷うのも分かるわね」
ヘンリエッタが相槌を打つ。
「別にそういうわけじゃないんだけど……」
二人に誤解させてしまったようなので、否定しようとしたけれど、ヘンリエッタに肩を叩かれた。
「いいから、いいから……。わかってるって!」
「そうよ。今日はあのイリーナ様も晩餐会に出るんだもの。負けずに私達も着飾らないとね、ってヘンリエッタと話してたのよ」
ニノが髪を撫で付けながら言う。
「なるほど……。どうりで二人ともいつになくおめかししていると思ったわ」
「さあ……ジェマも、鏡を見て。あなたのことが気になっている男性達はきっと釘付けになるわよ」
鏡には、髪を複雑に結っているせいか、いつになく垢抜けた雰囲気の自分が映っている。
ジェマという仮の姿とはいえ、お洒落をしたら気分が少し明るくなった。
準備が整い、三人で晩餐会の会場であるサロンに向かって歩いていた時、殿下の部屋の扉が大きな音を立てて開き、中からイリーナが飛び出してきた。
彼女はかなり取り乱した様子で、わたしと目が合うと、殺気を込めた視線で睨みつけてきた。
護衛に立っていた二人の騎士は心配そうに声をかけたけど、イリーナは無視して足早に去っていった。
ニノとヘンリエッタは「振られたんじゃない?」「いい気味だわ」などと笑っていた。
その軽口に、わたしは曖昧に笑い返した——けれど、内心では殿下の矛先がこちらに向かないよう、心からイリーナを応援したいと思っていた。
殿下の気持ちを受け止めるつもりは、わたしにはないから……。




