エピソード93 試される聖女
疲労の残る身体で、やっとの思いで辺境伯邸に辿り着いた時には、すっかり日が落ちていた。
馬房に馬を返して、足を引き摺るように屋敷へ向かう。
玄関ポーチを見上げると、ドアのファンライトから溢れる灯りを背に、まるで光を纏うかのようにイリーナが佇んでいた。
帰りを待ちかねていたというように、イリーナが白い手巾を口元に押し当て殿下のところに駆け寄ってくる。
いじらしい婚約者ぶりに、帝国精鋭騎士団の面々からは歓声が上がる。
「おお、麗しの聖女候補様がお越しなのか」
「殿下や我らの身を案じてこんなところにまでご足労下さるとは……」
「相変わらず天使のようにお美しい」
彼らにとって、イリーナは可憐で優しい聖女候補という認識らしい……。
だけどそれとは対象的に、トルエンデ騎士団員達は、不快げな感想を漏らした。
「出たか! 鼻持ちならない嫌味令嬢め」
「こんな所まで何しに来たんだ?」
「どうせ愛しの皇子殿下に纏わりつきに来たんだろうさ」
いつも帝都の流行を追うドレスを身につけていたイリーナは、最近は聖女を意識しているのか白基調の装いが多い。
今日もこの時期の辺境には肌寒そうなオフショルダーのアンクル丈のドレスに、クリーム色のペリーズローブを羽織っていた。
十二芒星を模った銀糸の刺繍が胸元や裾に散りばめられている、いかにも聖女然とした儚げな印象の装いだ。
「ギル様、私……とっても寂しくて。それに野蛮で危険な地に赴かれたと聞いて……お怪我でもされていないかと心配で……こちらに参りましたの」
煌めく瞳は濡れてはいないようだけど、手巾を押し当てるので感極まって泣いているように見える。
骨の髄までイリーナの本性を知っているわたしは、ちらとも心動かされないけれど、普通の男性なら感動するだろう……。
これで殿下も気の迷いから醒めて、本来の婚約者への想いを自覚してくれると助かる。
そう期待を込めて殿下の態度を見守った。
だけどその表情は固く、嬉しげには見えない。
「遠路ご苦労なことだったな。聖女候補の務めを果たすためとはいえ」
「いいえ……、私が来たのは、ギル様のためです。ひとえにあなたにお会いしたい、この気持ちをお伝えしたい……そう思ったのです」
神々しいほど可憐な乙女の様子に、精鋭騎士団員達は一様に胸打たれたような顔をしている。
「……その気持ちには感謝する。だが、聖女候補たるもの、もっと職責を重んじるべきではないか?
他の多くの騎士達への配慮に欠ける発言は慎むべきだろう」
あまりにすげなく、冷たい口ぶりに、イリーナは顔色を変え、喉を詰まらせた。
「そんな……つもりでは……なかったのです。もちろん聖女候補としても皆様のお役に立てれば——という気持ちで……」
副官がたまりかねたように口を挟んだ。
「皇子殿下、そのような仰りようは、酷ではないかと……愚考いたします。イリーナ聖女候補様は決して我らを軽んじておられるわけではなく……」
その進言を殿下は手を上げて黙らせた。
「まあいい……。考えてみると、今日イリーナ嬢が来たのは、ちょうどよかったかもしれない。戦闘で負傷者が出ている。君の聖力で治癒してもらいたい」
殿下は……もしかして、イリーナの聖力を試すつもりなのだろうか?
「治癒ですか? 勿論ですわ。では怪我人の方々をサロンに集めて下さいます?」
今日は『汚れているから触りたくない』だの、『先に湯浴みをさせてから連れてきて』などとは言わないようだ。
以前よりも、殿下の機嫌を損なわないよう気を遣っているように見える。
聖力を取り戻した、今のわたしでも彼らを治癒することはできる。
団員達にはまだ聖力を取り戻したことを説明していないし、どう説明しようかと考え中でもあるけど。
ただ、せっかくの機会だ。イリーナがまだ聖力を使えるのか、この目で確かめてみたい。
治癒を求める騎士達がイリーナの言葉に応じてサロンに集まり長い列を作った。
クラウス卿や殿下の怪我、わたしの背中の火傷も既に治癒してしまったし、見渡してみても急ぎの治癒が必要な重傷者はいないようだ。
大勢が見守る中、イリーナが騎士の負傷した膝に手を翳し、祈りの言葉を囁いた。
「慈愛の光よ、痛みを取り去り、安らぎを与え給え!」
けれど、イリーナの手元に癒しの光は見られず、騎士の怪我は塞がる様子がない。
「……聖女候補様、傷が癒えません」
騎士がそう訴え、空気が張り詰める。
イリーナは怪訝そうな顔になり、再度祈りの言葉を呟いた。
しかし、やはり騎士の傷口に変化は見られなかった。
「……おかしいわね。あなた……なにかエリタス神のお怒りをかうような、悪事に手を染めたのではなくて?」
「……ええっ? そ、そんな……、私は命懸けで魔獣を討伐してきたのに。……あんまりな仰りようです」
「そう? おかしいわね……。それじゃあ、次の人来て」
「はい、よろしくお願いします……」
次の騎士は首元に引っ掻き傷があった。
イリーナはまた同じように祈りを捧げたけれど、やはり治癒の効果が見られなかった。
騒めきが広がる。
「おかしいわね……。次の人、前に出て」
だが——やはり何も起こらない。
周りには動揺や不信の声が広がっていき、イリーナの顔に翳りが差し、苛立ちと焦りの色が濃くなった。
皆の不信そうな視線を一斉に浴びて、イリーナは言い放った。
「なによ? 今まで何度も私が救ってきてあげたでしょう? 今日は……たまたま聖力を使い過ぎてしまっていたのよ。そう、そうに違いないわ」
その声音は上擦っていた。
彼女は拳を握り、唇を噛み締めている。
「だけど……今日は他に治癒もされていなかったし、聖力を消耗されたりしていないよな……?」
「ああ、馬車の中でもずっと寝ていらしたぞ」
ラヴォイエール侯爵家付きの護衛兵達からも、イリーナの言いぶんを疑うような証言が囁かれる。
「……だっ、黙りなさい。そ、そういえば……ここに来る途中、結界の綻びを見つけて、休憩の時に……結界を重ねがけしていたのよ」
「なんだ、そうだったのか……」
「……だけど、そんな時間あったか?」
イリーナの説明にも、騎士達の半数ほどは納得していない様子だった。
けれど、イリーナは強張った表情で一方的に言い渡した。
「とにかく、今日は治癒は中止します」
そして、背を向けると早々に部屋に引き取っていく。
やっぱり、イリーナはわたしの聖力を奪っておいて、あたかも自分の力のように見せかけていた……。
だからわたしが聖力を取り戻した今、聖力を使うことができなくなったのね……。
怒りが静かに胸の底から込み上げてくる。
自分にとって聖力はただの力ではない。
母が残してくれたその力は、わたしに初めて自信を与えてくれた。
人を癒せる大きな力であり、自分自身を根底から見直すことができるようになったのも聖力のお陰だ。
——その聖力を失って味わった失意の日々。助けられたはずの騎士達……。
その力をイリーナは自分を装飾する力として利用してきたのだ。
——許せない……。
奥歯に力が籠る。
イリーナを、その後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送っていると、同じように彼女の後ろ姿を見つめる視線に気付いた。
殿下の、侮蔑の色の籠る視線だ。
そして彼は、口元にうっすら酷薄な笑みを浮かべていた。
——まるで自分の思い通りに事が進むことを確信している者のそれだった。




