「自由と代償」
異変に気がついたのは、今年で四年目になる一兵卒だ。なんてことはない日常の断片、切れ端にそれは起こる。城内の見回りや武具の手入れ、一通りの業務を終えて見張り交代をした直後のことだった。
昨今の魔物の活性化から城壁の見回りは重要視され、異常の早期発見が最優先事項として義務付けられている。入隊した頃は酒や煙草を満喫する都合のいい時間だったが、徐々に防備体制が厳格なものへと変わりつつあり、今では粗暴な上官と三人一組で組まされる新米兵士としては最も過酷な業務に分類されていた。城壁から見える真っ直ぐ伸びた街道と高い山脈の景色は、降雪で一面銀世界となっている。日がとうに落ちた外の景色は、松明と魔法結界でうっすらと見える程度だ。
国境付近の城の警備たちは、夜目を擦りながら夜警に従事する。顔を動かさず目線だけを逸らす。城壁の上にはこんもりと雪が積もっていた。……子どもの頃はよくこれで遊んだっけか。肌着の上に帷子や愛用の装備を身にまとい、獣の毛皮で何重にも覆ってなお、ここの寒さは厳しい。
凍えながら城外への見張りを行い、上官の愚痴や叱咤を心を無にしながら躱す。交代の兵士が階下からやってくる足音が聞こえた。やっと休眠を取れる、そう思った矢先のことだ。
夜の間、吹雪く程の風は吹かなかった。しんしんと、大粒の雪が真上から降りしきる。闇に紛れた何かに俺は一瞬気を取られた。音はなく、何かが光ったように見えた。厚い雲に覆われた真っ暗な空に一瞬だけ、一筋の線、雷のような何か。外壁に身を寄せ目を凝らす。耳を傾けて白銀の山脈へ意識を向ける。
……何も聞こえない。何も見えない。
気のせいだったのかもしれない。長時間こんな雪景色を見ていたんだ。感覚がおかしくなっていても不思議じゃない。積もった雪を払いのけて皮肉に笑った。どっかで俺も、ビビってんのかな。
階下から先に降りた上官の呼ぶ声。急いでいるようだ。疲れた彼らを待たせるような自殺行為はしたくない。こんな些細なことでぶたれるのはごめんだ。身を寄せた外壁から体を剥がし、休息に向かう。
そう目を離そうとした瞬間だった。
再度、光が瞬いた。
……いや、いる。
なにか……いる―――。
城の直上、眩い明かりが空に弾けた。闇夜を照らす大粒の光。それは非常用訓練でしか使用したことのない装置だった。外壁の至る所に設置され、蓋を外し紐を引けば簡単に矢が打ち上がる。空中で発光し、まばゆくあたりを照らす、照明弾だ。外壁はおろか夜という闇も手伝って、城中がその光を認識せざるを得ない。兵士たちは突然の明るさに思わず手をかざす。
一兵卒の男は、無我夢中で走り叫んだ。もし何かの見間違いであったならば、帯同した上官の責任となっただろう。臆病な一兵卒が引き起こした、愉快な珍騒動としてお笑い種になったかもしれない。―――しかし、この一兵卒が放った照明弾は、後に多くの人間の命を救うことになる。
城内は突然の眩い光が上がったことで騒然としていた。情報の収集に動くもの。城壁に向かうもの。城内を守りで固めるもの。照明を皮切りに城全体が警戒態勢へと動き出す。城の防護結界を任されている魔術師たちは、教本通り幾重にも魔法を巡らせ始める。結界の濃度や性質が変わり、空の色が転々と移ろう。
その様子を耳や肌で感じながら、伏せた上級指揮官は高を括っていた。もとは本国の貴族で三男。家督は長男か次男が引き継ぐことになるだろう。家柄の面目を保つ為だけに、指揮官として士官学校に入れられ過酷な青年期を過ごした。幾らかの従軍を経験し上級指揮官となり、今や最前線に立たされている。帰ってこられれば勲章もの、死に体でも三男なら仕方がない。それが嫡男以外の人生なのだ。半ば諦めた腹いせもあったのだろうか。城を任された本国からの重責と、最前線に勤める下士官共の世話。少しくらい息を抜く時があってもいい、そう思っていたところだったのに。突然の照明魔法の音と光が、煩わしく感じた。どうせ何かの不具合か間違いだ。明日の報告にはそう上がるだろう。
ベッドに伏せたまま頭を休ませた。しかし、願った安寧は突如として裏切られる。伝令が駆け込んで騒動の真相を告げられた。異変の正体は、魔物の軍勢だった。切羽詰まった伝令の顔が脳に焼き付いた瞬間、魔法結界の破られる音と、恐ろしい雄叫びが聞こえた。
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ダルク歴209年
人類史に残る最大規模の戦争が起こった。
ジョルム北方連合国の通達が南の国に届いた頃、北より出てきた魔族の軍勢に連合国は壊滅していた。最も魔王国と隣接ししのぎを削りあった北方連合国。その名は数日で地図から消え去った。北方連合の崩壊に伴い、大陸中央部の国々は一致団結し魔族の国を滅ぼさんと協定をとり結ぶ。そして始まった中央都市国家を筆頭とした連合軍と魔王国との戦争は、熾烈を極めた。凡そ五十年にわたる戦争に停戦が下った頃、各国の犠牲者は数百万人規模にまでになっていた。
領地争いの戦争は終結したが、全ての恐怖が足を止めたわけではない。魔王軍は大陸全土に生息していた魔物を活発化させ、その支配領域を刻々と広げようとしていたのだ。