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死の神ミルト - 3

「ここ、あんまり目立たないらしくて~」


頑張って二人並んで歩くのがやっとという狭さの路地を女性について行った先。

まっすぐ進み、右に曲がり、左に曲がり、また進んで、辿り着いたのは袋小路。

その建物を見上げて、シエルの口があんぐりと開いた。

あんまり目立たない、どころではない。ここに宿屋があるという痕跡すら、通りからは発見できない。

路地に入ってすぐならまだしも、そこそこ奥。途中の建物も町の人間が暮らす住宅ばかり。場末の飲み屋が固まっている狭くて汚い路地の方が、まだ集客の見込みがありそうだった。これでは、通り掛かるのが付近住民と来客くらいしかいないではないか。

シエルも最初は客引きの女性の罠で、途中で屈強な男に腕を掴まれて怪しげな店に連れ込まれる危険を疑ったが、すぐにその疑いは晴れた。どう見てもただの家しかない。逆に言えば、何故ここに宿屋があるのかが分からない。

宿の前の道は途中に比べて幾らか幅が広くなっており、風通しが良い。日中は陽も当たるらしく湿気は感じない。建物も経年によるものか若干くすんでいるが清潔感はある。よく掃除がされているのだろう。

宿泊所として見たら、普通に客が入りそうな外観だった。問題は立地である。立地しかない。


「なかなかお客さんが来てくれないんで~、時々ああやって呼び込みしてるんですよ~」

「あれは呼び込みというか……」

「どうしてなんでしょうね~?

表通りに看板を出さないかってお誘いをお断りしたせいなんでしょうか~?」

「……でしょうか、じゃなくて、だいたいそのせいだと思います……」


頬に手を当てて小首を傾げる女性を、シエルはそろそろ本気で心配し始めた。

一見すれば立地が最大の問題だが、実はこの女性の性格の方が問題なのかもしれない。よくこの場所で、そしてこの性格で商売などという冒険に出ようと思ったものだとある意味感心させられる。

宿屋探しという目的から外れて、シエルにはほんの少し、この女性への興味が出てきた。

ふと気付けば不思議そうに顔を覗き込まれていて、慌てる。


「どうしました~?」

「ああ、いえ、思ってたよりしっかりした店構えなんだなと」

「ありがとうございます~、それじゃあ中へどうぞ~。

お客様一名ごあんな~い」

「あの、まだお客様になるかどうかは決めてないので」

「な~んて呼びかけてみても、働いてるの、わたし以外にいないんですけどね~。

あ、この宿を経営してるリリー……リリー・オルトブライトと申します~、よろしく~」


聞いていなかった。そしてこのタイミングで自己紹介された。

本当にここに入って大丈夫なのか改めて不安になりながら、軽やかな足取りで入口を潜るリリーにシエルも続く。扉の上に迫り出した盾型の看板が、僅かに揺れる。木製の表面には「茜色に輝く夜」と彫り込まれていた。


「わたしが買う前は~、お店じゃなくて家だったそうなんです~」

「周りも家ばっかりですからね」

「でも、住んでた人はお仕事場としても使ってたみたいですよ~。

えっと、芸術家? じゃなくて設計家? そういう仕事をしてた人だって聞きました~」


シエルの希望した一番安い部屋へ案内しながら、リリーが宿の説明をする。

芸術家と設計家では全く職種が異なるのだが、とにかくそういった、在宅で出来る仕事をしていたという事らしい。

となると、玄関を入ってすぐにあった食堂と思われるスペースは、工房の類だったのかもしれないなとシエルは思った。

つまり家としては、何ら問題ない立地だったという訳だ。客商売用の店としては、売る方も売る方なら買う方も買う方である。

ただし売り手もさすがに販売にあたって最低限の体裁は整えたようで、内装は今日シエルが見てきた安宿と比べて特別変わった所はなかった。受付があり、小さな食事スペースがある。また、表から見えていたより中に入ると奥行きがあった。

リリーの後について、シエルは手摺のない階段を登る。宿泊客の部屋は二階にあるようだ。


「ここがお一人様用の部屋になりますね~」

「あ、いい感じ」


中を見て、社交辞令ではなくシエルは呟いた。

安価な一人用の部屋であるから、当然ながら広くはない。しかしベッドもあり、窓もあり、ちょっとした作業ができそうな机と椅子も備え付けられている。隅の棚は荷物置き場にも使えそうだ。何箇所かで経験した妙な匂いが染み付いているような事もなく、寝転がって手足を伸ばしたらほぼ部屋一杯という事もない。

シェードの着いたランプと窓の位置のおかげか、夕方としては明るさも充分だ。

壁も床も掃除が行き届いており、靴の裏がべたつく事もなかった。あまり綺麗だと客がいない証明のようにも思えてくるが、そういった店の事情は泊まる客には関係ない。滞在中、快適に過ごせれば良いのだ。

シエルは目を閉じ、耳を澄ましてみた。ほとんど外からの音は聞こえてこない。

路地といっても繁華街ではないのだから、静かなのだろう。周囲の家で子供が大騒ぎでもしない限り、環境は良いといえる。


部屋はそこそこ。清掃状況は完璧。静かに過ごす事ができる。路地を出れば通りが広がっていて、商店もある。となると、残された問題は価格である。単に環境を求めるだけなら、この宿より上の所は幾つかあった。

ベッドを掌で押してみているシエルに、リリーが宿の代金や仕組みについて教えてくれる。

代金は前払いで、長期ほど割引きになる。価格は食事を含まない素泊まりのもの。ただし朝食は前日の夜までに、夕食は昼までに伝えれば用意してもらえる。その分は追加料金となるが、周囲の食堂と比べて安いのは宿泊客の特権だ。勿論、安い分量が少ないという事もない。

部屋は毎日掃除してくれるし、ベッドシーツも替えてくれる。風呂はついていないが、それは少し歩けば浴場があるという。

事前に時間帯を伝えておけば、洗い場も使わせてもらえるから洗濯もできる。

至れり尽くせりだった。宿泊費は格別安い訳ではなかったが、ぎりぎりで予算内に収まっている。


「説明はだいたい以上になりますが、いかがでしょう~?」

「……うーん……」

「……お気に召さないですか~? お掃除が足りなかったのかしら……」

「掃除は充分だと思いますよ、どう見ても」

「でも~……それならいいお返事が返ってくるはずですし~……」

「宿泊先を決める材料って清掃状況に限定されてませんからね?

……って、他を見ても別に悪い所はないんですけど……」


シエルは迷っていた。軽い様子見のつもりだったのが、リリーの話を聞き終えた今は九割がた契約に傾いている。

そうさせた最大の要因は、これ以上探し回って、ここを超える好条件の宿に果たして幾つ出会えるのかという現実だった。

ここも条件に対して完璧という訳ではないものの、限られた予算で満点を求めるのがそもそも間違っている事くらいは、シエルも理解している。加えて、いいかげん疲れていたからというのが心を後押ししたのも否定できない。

今から元の宿に戻って、少し気まずい思いをしながらもう一泊して、明日また改めて探して……という労力と比較するほど、これ以上の宿探索に時間を費やす価値は高くないように思えた。

シエルはもう一度、広くはない室内を見回す。


「ここに決めようかな……」

「そうですよ、泊まっちゃいましょう~、思い切って~」

「うん……はい、そう、ですね。決めました。暫くお世話になります」

「ありがとうございます~。よかったぁ~、ひさしぶりのお客さんだぁ~」

「………………」


僕が泊まっている間に潰れないでくださいね、とは現実感がありすぎて冗談でも言えなかった。

先程聞いた宿泊料金をおおまかに頭の中で計算して、シエルは告げる。


「とりあえず素泊まり10日間で、食事をどうするかはその日ごとに伝えます。更新するかは10日後になってから決めようかと。それで大丈夫ですか?」

「はい~、それじゃあこちらにお名前をお願いしますね~」


はじめは2泊くらいで様子を見ようかとも思ったが、ここまで来たらと長めの予定を入れてしまう。

もし酷すぎるようなら途中で出てしまえば良いと考えると、気楽になった。

渡された帳面に名前と宿泊日数を記入しているシエルに、リリーが尋ねる。


「長く滞在されるんですね~、旅行? それともお仕事ですか~?

あんまり船で働いてる感じはしませんけど……商人の方?」

「あ、僕は……」


シエルは、喉まで出かけていた言葉を飲み込んだ。

転生に直接関わっている龍園の関係者ならともかく、これから世話になろうという宿屋の人間に、自分は何日かおきに死ににいきますと告げるのはどうなのだろうという躊躇いがふとよぎった為である。

しかし考えてみれば、ある日いきなり消える可能性が高いのだから、むしろ知っておいてもらわなければならない事だ。残された荷物の処分も頼めるかもしれないし、代金は前払いだから取り逸れて迷惑をかける事もなくなる。


「龍園で転生する為にアールヴァランに来てます。最終的には貸家を見付けて引っ越してこられたらと思ってます」


正確には既に11回転生を済ませた後なのだが、そこの説明は省いた。

転生の存在自体は知っていたらしく、まあ、とリリーが口に手を当てた。間延びした声に細められたままの目と、ヴァイスとは違う意味で表情の変化に乏しいので今ひとつ驚きが伝わってこない。

面倒な客を泊めたと思われたかと、シエルは心配になった。思われるだけならともかく、宿泊を断られるのは困る。


「あの、なるべくご迷惑は掛けないようにしますから! 料金もちゃんと払いますし、荷物は……」

「えっと、おめでとうございます~」

「は? え? 何が?」

「転生目的のお客様、記念すべき一人目になります~」


待っていてくださいねと告げて、リリーはぱたぱたと階段を下りていった。さほど時間はかからずに戻ってくると、呆気に取られているシエルの前でカウベルのようなものをからんからんと鳴らす。

いわゆる、当館何人目の来客記念というやつらしい。ベルに続いて、ぱらぱらと祝福の紙吹雪が飛ぶ。


「幸運なお客様には~、これを記念しまして~」

「宿泊費がタダになるとか?」

「ならないです~」


リリーは同じ笑顔を崩さないまま否定した。

やんわりとしていながら揺るぎない芯を感じさせる。


「宿泊費はなりませんけど、朝食と夕食の、最初の注文がそれぞれ無料になっちゃうんですよ~。

メニューは秘密です~、楽しみにしててくださいね~」


わりと地味な特典だった。とはいえ、貰えるものは何でもありがたい。

とりあえず明日の朝食でさっそく利用させてもらう事と、これといって好き嫌いはない事を伝え、10日分の宿泊費を払った。

少し財布が軽くなり、気持ちもまた少し軽くなる。

定まった住居があるというのは人の精神に大きく影響する事を、シエルは実感していた。

ごゆっくりどうぞ。そう言ってリリーが部屋を出ていくと、シエルは急に力が抜けて、倒れ込むようにベッドに横になった。自然と、瞼が下がっていく。清潔なシーツの匂いが心地よく、このまま眠ってしまいそうだった。

働いている訳でもなし、寝て悪い事はないのだが、今眠ってしまうと確実に起きるのが真夜中になり夕食を食いっぱぐれる。アールヴァランの治安は良い方だが、深夜に盛り場のある地帯を食事を求めて歩き回る気にはなれない。

だから、寝ては駄目だ。体を起こして、荷物を整理して、夕食がてら宿近くにある店を確認して回って……。

そう思いながらも、魂ごと溶けていくような心地良さには抗い難い。

とうとうシエルは抵抗を諦めて、潔く全身から力を抜いた。本格的な眠気が、待ち構えていたようにどっと襲ってくる。

明日になったら、宿が決まった事を龍園に報告に行こう。その前にサービスの朝食を食べて。秘密のメニューは何だろうか。

途切れ途切れの思考は、とろとろと優しい眠気に包み込まれていった。


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