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第二話 越境

FANTAだー!!

 朝の光が斜めに差し込んでいた。

 土の匂いと、乾ききらない夜の熱が地面に残る。シャーロットとの戦闘を終えた身体に、それは鈍く染み込んでいた。


 はりもは、まだぬかるんだ靴底を見下ろしていた。

 そのまま、タブレットに目を落とす。地図を開き、指先で東へ向けてなぞった。


 ブラジルを越えて、ギアナへ。

 そこには〈斎爵(ヘルトフ)〉のたなとすがいる。彼と話す必要があった。


 だがその前に、ブラジルを通らなければならない。

 それにはブラジルの〈犖帝(カイセル)〉である焼き鳥の許可が必要だ。


 車で国境まで下る途中、森が湿気を纏いはじめる。

 赤土が濃くなり、視界の両脇にジャングルの枝葉が迫ってくる。空気はもう、緩慢に動く粘度を持ち始めていた。


 国境近く、風雨で劣化した通信デバイスの前で、車を止める。

 無骨な筐体にコードを繋ぐと、数秒の接続音のあと、液晶が点いた。


 タブレットの画面に、焼き鳥の顔が映る。茶髪が乱れたまま、だるそうに頬杖をついている。


「あー、そっちか。ペルー側ね。はいはい、通行?はい出す出す」


 軽く指を弾くと、操作音が画面の奥から聞こえた。

 焼き鳥の目線は一度もこちらに向かない。


「どこ行くか知らんけど、気をつけてね〜」


 会話はそれだけだった。通行データが送られ、警告フラグが解除される。

 画面が暗転する頃には、彼はもう別のことに集中しているようだった。


 道はなかった。

 ただ、土と水の痕跡がうねる、自然の裂け目のようなルートを抜ける。風が抜けず、音がこもる。濃く湿った空気が頬にまとわりついた。


 と、不意に前方の林が揺れた。


 突風のような音とともに、巨大な塊が草をなぎ倒して走り抜ける。

 その姿は異様だった。


 ウツボカズラ。だが、脈動し、筋肉のように波打ち、地を蹴る。

 蔓が脚となり、分厚く膨らんだ本体が、どこか獣の骨格を模したような形に変形していた。内部の液体が跳ね、ぶよぶよと脈を打ち続ける様子は、植物とも動物ともつかない存在だった。


「きもっ」


 はりもが反射的に口に出す。


 それに乗っていたのは、緑髪の少年だった。

 柔らかな髪が風に靡き、フードを下ろした表情は、まるで下校の途中で寄り道をするような穏やかさを湛えている。


 ウツボカズラが緩やかに減速し、粘性の足音を残して停止した。


「やあ!君もしかしてはりも?」

「そうだけど」


 少年は笑った。その声に棘はなく、身体の力が自然に抜ける。だが、その眼差しには油断がない。


「僕はうるがり。今、スリナムに行くところ。ほもぺんに会いにね。今片っ端から仲間作ろうとしてて」


 呼吸を整えるように、はりもは一歩だけ前に出る。


「そうだ、ちょうど良かった、お互いの不可侵と、どっちかが攻められたら共闘っていう条約を結ばないか。条約なんてちょっと大袈裟な気がするけど」


 うるがりは視線を上げた。緑の瞳が、僅かに光を反射した。

 返事はなかった。ただ、ゆっくりと手を差し出した。


 その手は冷たくなかった。

 だが、どこか境界のない、湖の底を思わせる温度をしていた。


「……いいよ、ありがとう」


 握手が終わった瞬間、ウツボカズラがご機嫌そうに笑った。

 表面の粘膜がぶよぶよと蠢き、まるで口の中に別の生き物を飼っているかのようだった。


「やっぱきもっ」


 うるがりは小さく笑った。


「でも、速いし色々便利なんだよ」


 そのまま東へ。

 密林はさらに深く、太陽の位置さえ分からなくなる。

 進めば進むほど、空気は重くなるのに、音だけは吸い込まれるように静かだった。


 この先にあるのが、ギアナ。

 そこに足を踏み入れる前に、まず、この空気を、正しく吸っておきたかった。





 △△△





 濃密な樹海を抜けると、開けた空の下に出た。 

 ジャングルの緑を割るようにして伸びた一本の舗装路。その先に、人工物の匂いが混じる。


 フランス領ギアナとの境界だった。

 そこに建てられた通信デバイスは、見慣れたそれよりもはるかに整備されていた。腐食もなく、配線も正確。小さな金属音を立てながら、タブレットとの接続を開始する。


 数秒の待機の後、画面が静かに明転する。


 映ったのは、漆黒の衣装を纏った青年だった。

 皮膚は雪のように白く、髪は綺麗な青色。首元まで閉じたシャツの第一ボタンだけが外れている。淡いグレーの瞳が、こちらを見据えていた。


 たなとすだ。フランス領であるギアナとアンティル諸島を管理する斎爵。その空気は、冷静を通り越して停止しているような印象を残した。


「通行の申請ですね」


 声は淡く、そして流れるように滑らかだった。こちらの目的を問うこともなかった。ただ、確認し、認証を通す。その所作には一切の揺らぎがなかった。


「問題ありません。カイエンヌへ、直接お越しください」


 通信が切れると同時に、通行フラグが送信される。

 それを受け取ったタブレットの画面が青く変わった。国境は、通った。


 ギアナの空は、どこか薄暗く、鈍色に曇っていた。

 光を吸うような森林地帯を抜け、古びた舗装道路が海へと延びる。道端には倒れかけた標識と、誰も通らなくなったバス停。


 カイエンヌの市街地は静かだった。

 かつての行政機構の一部が再利用され、今ではギアナ全域を監視する中枢となっているらしい。


 たなとすはそこにいた。

 大理石のように白く冷たい部屋の中央、窓のない応接室で、はりもたちを待っていた。

 目を合わせた瞬間、その空間の温度が変わった。


「ようこそ、仏領(フレンチ)ギアナへ。うちの〈犖帝(カイセル)〉のりおん様もすぐ来るそうです。核シェルターの地下の格納庫に眠っていた小型飛行機を再起動したそうですよ。この大陸には、まだ意外と面白いものが眠っている。貴方たちも探してみるといいですよ。時に、戦争とは資源の運命でもありますから」


 たなとすは微笑みを浮かべたが、目は笑っていなかった。


 その言葉の意味を、はりもは少し遅れて飲み込む。

 掘り起こされていない戦争の遺物が、この地にはまだあるということだ。


 しろやとは静かにメモを取り、しぜんすいは壁の時計を一度だけ見た。


 やがて、話は交渉へ移る。

 直接的な軍事同盟ではない。ただ、フランスとの不可侵の取り決め。それで十分だった。


「承知しました。ですが先にりおん様が到着してから......」


 直後、タブレットが警告音を鳴らす。


 表示されたのは、スリナム。


「スリナムで、戦闘開始の反応!エクアドルの〈犖帝(カイセル)〉のシャーロット。そしてコロンビアの〈犖帝(カイセル)〉のれな、さらにその〈斎爵(ヘルトフ)〉の大鼠、そしてガイアナの〈犖帝(カイセル)〉のタートノレ、ヴェネズエラの〈犖帝(カイセル)〉の赤箱。彼らが同時にスリナムへ侵攻を開始したらしい!」


 しろやとが即座に読み上げた。


「……確か、うるがりもスリナムに向かってなかったっけ?条約結んだし、行った方が...?」


 しぜんすいの声がかすれる。


 はりもは一歩、たなとすの前に進み出た。

 その目には、決意ではなく、冷たい緊張が宿っていた。


「りおんが来たらすぐ行くぞ。次は、スリナムだ」





 △△△





 空が震えた。

 遠くから鈍いエンジン音が這ってくる。雲を押し分けるように、低空で旋回しながら滑り込んでくる白い機影。その輪郭は小さく、だが異様な存在感を帯びていた。


 滑走路に擦れる直前、機体が一度跳ねる。

 次の瞬間には煙を巻き上げ、確かな重さで着地した。


 たなとすはわずかに目を細めた。


「彼です、りおん様は」


 滑走路の端、機体のドアが横に開く。

 その奥から現れたのは、奇妙な静けさを纏った男だった。

 控えめの金色のメッシュの黒髪を低く結い、しなやかな体躯に灰銀の軍服。襟元だけ乱れているのが、意図的な余白を匂わせた。


 はりもは一歩、無意識に足を引いた。

 その空気が異質だった。地を歩いているのに、どこか宙に浮いているような、足音のない重さ。


 りおんは彼らのほうに視線を向けると、軽く片手を挙げた。


「やぁ」


 笑っている。けれど、その笑みのどこにも喜怒哀楽は見当たらなかった。

 風が一度だけ強く吹いた。海の塩気と土の匂いが交じる。

 りおんはその風に逆らわず、コートの裾をはためかせながら言った。


「はりもくんだよね。不可侵と支援の件だけど聞いたよ。全然了解。……で、スリナムが攻められたらしいじゃん」


 たなとすがうなずく。

 りおんは首をわずかに傾けて、目を細めた。


「じゃあ、飛んでくか。このまま」


 そう言って、自らの機体へ戻る。振り返らない。

 あまりにも自然に、あまりにも軽やかに、戦場へと踏み出していく。

 その古びた鋼鉄の外装には、削れたマーキングと、再塗装されたばかりのエンブレムが混在していた。


「乗って。安全運転は保証しないけど」


 それだけ言って機体に戻る。誘導でも命令でもない。ただ、選択肢を置くような声だった。


 はりもは振り返らずに歩き出す。

 しぜんすいも、しろやとも、短く息を整えてそれに続く。


 そして、最後にたなとす。

 ためらいもせず、淡々とした足取りで。髪の端が機内の風に揺れた。


 狭い客室には、もともと贅沢など存在しない。

 むき出しの骨組みと金属板の隙間から、風の音が微かに入り込んでくる。


 りおんは操縦席に座ったまま、片手でスロットルをゆっくり押し出した。


「目的地はスリナム。速度と傾きは適宜調整、って感じで」


 操縦桿を軽く撫でながら、機体が地を離れる。

 重力が足元を離れるとき、客室の誰もがわずかに体を沈めた。


 エンジンが唸り、カイエンヌの森と海がすぐ下に沈んでいく。

 空は一面、鉛のような曇り空。だが雲の隙間には、湿った光が筋のように走っていた。


「……これが、戦争の空かな」


 しぜんすいが小さく呟いた。


 誰も答えなかった。

 ただ、エンジンの振動と窓に叩きつける風の音が、その沈黙を満たしていく。


 やがて、スリナム領空。

 雲を割り、下界が現れる。


 りおんは一言も発さず、機体を右へ旋回させた。

 衝撃が機内の壁を鳴らし、風が急角度で窓にぶつかる。


「見せる時間だ」


 機体が急降下に入る。

 何も落とさない。ただ、存在を突きつける速度で空を走る。


「今のうちに……揺らす」


 旋回しながら、りおんは低く、静かに告げた。


「空は道じゃない。だが、地面より先に誰かを殺すのは、いつだってこの高みだったんだぜ」


 彼の声は淡く、それでいて鋭かった。

 誰もが何かを答えられないまま、ただ高度を失いながら加速していく機体に、呼吸だけが追いつけずに揺れた。


「降りるぞ」


 スリナム、郊外の湿地帯に設けられた仮設滑走路に、機体の車輪が慎重に触れた。

 着陸の衝撃はほとんどない。りおんの手綱を握る指先は、静寂そのものだった。


 機体はぬかるんだ地面を巻き上げながら停止する。翼に付着した泥が後方へ吹き飛び、機体全体が疲れたように息をついた。


 ドアが開くと同時に、湿った空気が流れ込んでくる。

 甘ったるい腐葉土と、薄く発酵した水の匂い。それは、確かに戦場の周縁だった。


「着いた」


 りおんはそれだけ言って立ち上がり、何かを名残惜しむように機体の壁を一度だけ軽く叩いた。


 乗り込んだ時と同じように、はりもは言葉なく歩き出す。

 しぜんすいとしろやとが後に続き、たなとすは最後に一度、風の音を聞くように振り返ってから、地へ足を下ろした。


 しぜんすいが先に異変に気づいた。


「何か……ぬるっと来てる」


 ぬめった音とともに、木々の影が膨らんだ。

 粘膜のような表皮を持ち、うねるように生えてきたのは、巨大なウツボカズラだった。


 脈を打ち、内側から薄く蒸気を放ち、ついでに何か微妙に臭う。

 数秒後、その口のような開口部がばくりと開いた。


 中からぬるっと登場したのは。うるがりと、その〈斎爵(ヘルトフ)〉のしろいかだった。


「やあ。まあブラジルで会った振りだね。その時しろいかはウツボカズラの中で爆睡決めてたから、彼女とは初めましてかな」


 うるがりはウツボカズラの中から身を起こし、ぴょんと地面に降りる。しろいかも続いて無言で立ち上がると、服を軽く払った。


「ほもぺんは?」


 はりもが問うと、うるがりが親指で後ろを指す。


「そこ、倒木のとこ」


 言われた方向に視線を向けると、少し高くなった丸太の上で、一人の男がじっと座っていた。

 刃を交差させ、細かく丹念に、研ぐ。


 双剣。鋼鉄の光沢に、ほのかな青のアクセント。

 そして研ぎ澄まされた手付きは、まるで水中を泳ぐ生き物のように柔らかく、流れる。


「派手に来たね、上から」


 それが、ほもぺんだった。

 声はくぐもっているが、妙に耳に残る低さを持っていた。言葉の奥に、刃と同じ緊張感が滲んでいた。


 全員が揃ったところで、うるがりが手を叩いた。


「敵、まだ来てないっぽいし、先に能力の確認しとこうか。せっかくだし」

「この状況でせっかくとか言えるのやばいと思う」


 しぜんすいが軽くツッコむが、空気は悪くない。


 まず、うるがりが足元に手を向けた。


「〈亂㯰蔕夢(らんちたいむ)〉」


 地面から、また別のウツボカズラが生えてくる。先ほどとは形が違い、開口部がやけに広く、内側がきらきらと青く輝いている。


「呼び出せるウツボカズラはランダム。さっきのは中に浸かると回復するタイプ。これは……たぶん、液体生成系だと思う。あとは攻撃型、運搬型、農耕型、採掘型……。どん兵衛のアレンジレシピに詳しいやつもいたよ」

「なんだそいつ」


 はりもが真顔で返す。


「でもまあ、便利っちゃ便利だから」


 次に、たなとすが静かに口を開く。


「〈爴爴裂裂(かくかくさくさく)〉。その場の植物や虫、小動物を死に変えます。その念を刃に変え、飛ばすことができます」


 言葉が終わるより先に、辺りの草が一斉にしおれた。

 空間がわずかに軋み、半透明の刃が揺れるように浮かび上がる。


「さらに、殺した命を弔う慰霊碑を建てることで、周囲に一時的な能力上昇のバフを与えます。……供養の形をとった結界術みたいなものです」


 死と支配。あるいは、恩寵の装いをした刈り取り。

 誰も言葉を挟めないまま、しぜんすいが肩を竦める。


「なんかの絶滅に一役買っちゃうかもね。今更気にすることじゃないけど」


 そして、りおんが前に出る。

 何の構えもなく、ただ首を少し回し、肩甲骨を軽く動かした。


「〈獵翼(ティラール・ヴォラン)〉」


 何もない空間から、しゅう、という音とともに翼が展開する。そしての先端から淡い光が粒状にほとばしり、それが矢に変わる。


「翼の先から矢を撃てるだけ撃つんだ。追尾はできないけど、速度と密度でフルボッコって感じかな。ついでに、軽い毒のおまけつき!」


 りおんはそう言って、笑った。

 だがその笑みには、戦いの興奮も、凶暴さもない。ただ、距離のない純粋さがあった。


「連射してると、心が整うんだよ。ビデオゲームと一緒」


 最後に、ほもぺんがゆっくり立ち上がった。

 双剣が腰のあたりで軽く弧を描き、彼の気配がわずかに変わる。


「〈潜遊企鵝(ファン・アレス)〉」


 剣がふっと空に投げられ、回転しながら地面に突き立つ。

 それをきっかけに、周囲の地面が波打ち、何かが潜っていく気配が広がる。


「この剣で地面や水に潜る。中にある硬いものを掴んで、それを飛ばして攻撃する。追尾できるから、よけるのは少し難しいと思うよ。たまにアホになって小魚とか拾ってくることもあるけど」

「かわいい……いやかわいくないか」


 森の風が鳴る。

 鳥も虫も声を潜め、湿った空気だけが、地面と空の境界を薄くにじませていた。





 △△△





 空はまだ青白く、雲が薄くちぎれて流れていた。

 だが、地面に染み込んだ湿気と植物の匂いには、明らかな“緊張”が混ざり始めていた。


 その静寂を破ったのは、地面の下から響く低い鳴動だった。


 ぬるっ、と何かが土を割って姿を現す。

 水音のように響き、同時にぬめりとした肉の匂いが鼻を掠める。

 大地を押しのけるように生えてきたのは、常識のスケールを裏切るほど巨大なウツボカズラだった。


 まるで神経に脈打つ何かを流し込まれたような不快感。

 表皮は光沢を持ち、内側には青白い発光粘液が溜まっている。微かに湯気が立ち、甘く澱んだ芳香が風に溶ける。


「乗る?」


 うるがりが軽く言った。

 その表情は至って普通だったが、声の裏にはどこか愉快そうな響きが混じっていた。


「……正気なの?」


 しぜんすいが若干引き気味に眉をしかめる。

 だが、ウツボカズラは既に呼吸していた。出発の合図を求めるように、内側の筋肉がぶるりと収縮する。


「たぶん今日イチでキモいけど、速いよ」

「キモさに誇り持つなよ」


 はりもは呆れつつ、しかし一歩踏み込んだ。


 乗り場は一応足場らしき形に膨らんでおり、中に滑り込むような構造になっている。

 ぬるぬるとした粘膜の上に靴底が沈み、背中に湿った内壁が貼りつく。温度はやけにぬくく、体重を預けると、まるで風呂に入ったときのように少し溺れそうになる。


「うっわ、やっぱ……気持ち悪いかも」


 しぜんすいも渋々後に続く。

 しろやとは何も言わず、さっと乗り込んだ。

 ほもぺんは双剣を背中に固定し、「匂いが剣に移りそう」とだけぼそっと呟いた。

 最後に、たなとすが無言で乗り込む。着席した瞬間、微かに植物の粘液が動物のように反応し、彼の周囲の温度だけが一段下がった。


「発車オーライ」


 うるがりが合図を出すと、ウツボカズラの蓋がぐぐぐと閉じる。


 暗闇。

 いや、正確には、粘膜が発する微光が内側をかろうじて照らしていた。

 液体に反射した仲間たちの顔が波打ち、ぬるぬると形を歪めている。


「じゃあ行きまーす」


 その声と同時に、ウツボカズラが地上を滑るように疾走を始めた。


 外からの振動が、腹の底から響く。

 土を削り、根を押し分け、石を砕く音が、壁越しに骨に伝わってくる。


 ぬるぬると前に進みながら、ときおり水路のようなトンネルを抜け、湿地帯の地下を一直線に駆けていく。

 視覚のない移動に、時間の感覚が曖昧になっていく。


「目的地、あと一分くらい」


 うるがりが淡々と呟く。だが、外の景色も音もないこの生き物の中では、その一言がやけに頼りがいを持って響いた。


「一分て、流石に……」


 しぜんすいが少し呻くように言いかけるが、それ以上は言わない。


 そのとき、壁の粘膜がわずかに収縮した。


「出口見つけた。行くよー」


 ぐっ、と強烈な上昇圧。

 次の瞬間、一気に地上へ吐き出された。


 粘液に包まれながら、仲間たちは地面へと転がり出る。

 柔らかな草と泥のクッションが、着地の衝撃を吸収する。


 空気が、変わっていた。


 乾いた熱。空の奥に、かすかな波動のような気配があった。


 そこが、敵陣の目前だった。


「はりも達はタートノレを頼む。僕としろいかでれなと大鼠の相手をする。りおんとたなとすは赤箱、ほもぺんはシャーロットでよろしく」

「シャーロット強いけど、一人で大丈夫かな?」

「大丈夫、ほもぺんはめっちゃ強いから」


 自分のことじゃないのにどこか誇らしげなうるがりを信じてみることにした。

 戦争が始まる。




 △△△





 剣が跳ねる。膜が歪む。


 世界の表面を切る者と、世界の内側から削る者。

 それはまるで、楽譜の異なる曲が一つの舞台で交錯するようだった。


 ほもぺんの双剣は、まさに潜る。

 水脈、泥、空気、土砂、剣圧。あらゆる環境を読み、拾い、形を変えて飛ぶ。

 地に吸われた刃が次の瞬間には天から落ちる。

 その予測不能な流れが、シャーロットの膜に幾度となく干渉を試みる。


 一方で、シャーロットの技は理屈そのものを否定する。


「存在が濃いと、壊すのは難しい。でも、君の剣は動いてる間に形を変えるから、ちょうどいい。その何かから何かに変わる瞬間ってさ、一瞬脆くなんのよ」


 ほもぺんは目を細める。


「先入観と脊髄だけで喋るなよ」


 言葉の裏で、剣が地面を這う。

 一振りは湿った土の中で角度を変え、泥に紛れたガラス片を巻き込みながら飛び出す。

 もう一振りは空中を旋回し、そこに浮いていた水分を蒸気に変えてから振り下ろす。


 その斬撃は直接的ではない。

 だが、湿気の向きを斬り、空気の流れを誘導し、シャーロットの膜の軌道にわずかなズレを生む。


 ズレた。


 ほもぺんの眼が鋭く光る。

 わずかに回避行動が遅れたシャーロットの左肩を、投擲された剣がかすった。


 刃の端に付着していたのは、湿地に沈んでいた鉄粉。

 剣そのものより、その成分が、膜の境界を乱した。


「……今のは、意図的だった?」


 シャーロットの声に、初めて薄く焦りの色が混ざる。


「いや、たまたま」


 ほもぺんは首を傾け、剣を手元に戻した。

 それは明らかに嘘だったが、声には嘘を冗談として処理させる温度があった。


「ただな、今ので確信した。お前の膜は均一じゃないみたいだな。まるで泳いでるみたいにゆらゆらしてる」


 シャーロットが、目を細める。


「ただの剣使いのクセに、読めるんだな」


「違ぇよ。読めるやつが、剣を使ってるだけだ」


 空が軋む。

 その一言を合図に、ほもぺんが再び踏み込んだ。


 剣が跳ぶのではなく、滑る。

 粘膜のように地を這い、角度を変え、突如背後から飛び出す。


 シャーロットはそれを読んでいた。

 足元の膜を瞬時に集中させ、斬撃を消し込む。


 だが、その防御の瞬間、反対側の剣が、大地の奥深くから真上へと跳ねた。


 乾いた音。

 刃が、今度は正面から、シャーロットの胸元の布を裂いた。


「……二重追尾か。君、やっぱり凄まじい」


「今際に何をペラペラと」


 剣が跳ね返り、ほもぺんのもとへ戻る。

 そこに一拍置いて、次の構えが立ち上がる。


 周囲の空気が、剣の動きに合わせて整ってきていた。

 剣を飛ばすのではない。剣のための環境を築いているのだ。


 戦場そのものを、自分用にチューニングしていく。


 それを見て、シャーロットは目を伏せた。

 そのまま、静かに呟いた。


「君にとって、『斬る』ってなんだ?」

「ここまでが俺で、ここから先がお前だって決めることかな」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が音を閉じ込めた。空気が切り替わった。

 それは音ではない。匂いでもない。ましてや視覚でも。

 感覚の地図が書き換わるような感触だった。

 剣はもう、道具ではなかった。戦闘を超えて、環境の再構築に踏み出していた。


 地面に潜った剣が、同時に二方向から跳ねる。

 土を割り、水を切り、空気の圧を伝播させて、敵が踏むかもしれない場所を一瞬で無効化する。

 その軌道には、読みも運もない。全部、設計済みだった。


 シャーロットの膜が反応する。

 が、わずかに遅れる。というより、処理速度が限界に来ている。


「お前の技、やっぱり処理が多すぎるよな。初期のChatGPT?」


 ほもぺんはそう言いながら、一歩を踏み出した。

 跳んだ剣が背中に吸い込まれるように戻り、再び両手に構え直す。


「俺は最新版Claudeよ」





 △△△





 草むらの奥、わずかに低くなった地形の向こう。

 風の流れが二つ、逆巻いた。


 れなと、大鼠。


 先に姿を現したのは、れなだった。

 全身にラバーめいたスーツをまとい、どこか両性のような、均質な印象を持つ顔立ち。

 その目は、最初から観察だけを目的に開かれていた。


 その後ろを、大鼠が静かに歩く。

 動きには一切の無駄がない。

 袖口から覗く手は常に何かを剥がす準備をしているかのように、微細に揺れていた。


「やぁ」


 れなが軽く手を上げた。声は明るくも、明確な“無関心”を含んでいた。


「早速やろうか。私たちは領土を奪えればそれでいいから」


 目の焦点がずれる。

 まるで空間そのものをスキャンするように、瞳がしろいかの銃と、うるがりの後ろのウツボカズラを交互に撫でていく。


「観たら使える。私の目は、そういう造り」

「コピーか。面倒だね」


 しろいかが、無表情のまま呟く。

 れなは余裕の表情で、指先をくるりと回しながら笑っていた。


「でしょ」


 れなが軽く笑った瞬間、彼の背後に炎の気配が立ち上がった。

 だがそれは、シャーロットが放っていたものと微妙に違う。


 重い。範囲が広い。連続して動いている。


「私の〈皛追(コピア・フラ)拡祘(グメンターラ)〉は、視覚によって技の構造と流れを全部読み取る。で、それを私の身体に合わせて最適化して、再構築する。オリジナルより機能的ってのは、なかなかに皮肉だと思わない?」


 しろいかが、ライフルを構えた。


「それ、面白い話だけど、それを撃ってくるなら、こっちも最初の一発で静かに済ませるよ」


 そのまま、冷却を終えた弾丸が装填される。

 ホタルイカの発光成分で仕上げられた特殊弾。

 構えは崩れない。迷いはない。呼吸もない。


 引き金が引かれる。

 発射音は微かに、だが空気を貫いた。


 弾丸が空を裂き、れなに到達する。直前、消えた。


 いや、消された。


 れなの瞳が微かに光った。

「はい、再現」


 同時に、まったく同じ弾丸が、反転してしろいかに向かって放たれた。


 しろいかがわずかに動き、ギリギリでそれを避ける。

 爆裂。ホタルイカの光が一瞬だけ世界を塗り替える。


「うーん、まだ精度が足りないなぁ。だから、何発か見せてくれると嬉しいな?」


 そのセリフに応じるように、今度は大鼠が前に出る。


「そして俺の出番」


 彼の声は、くぐもっていて、どこか壊れたオルゴールのような響きを持っていた。


「〈零乃匹(セロ・ゼロ)〉。“似る”という概念をこの場から除去する。二つあるなら、どっちかが要らないだろ?」


 彼が片手をかざすと、しろいかの銃口が微かにひび割れた。


「あっ……」

「似ている武器が二つあるなら、強い方だけが残ればいい。お前の銃と、さっき模倣されたやつ、どっちが強い?」


 その問いに、しろいかは即答しない。

 代わりに、弾丸を一つ、そっと地面に落とした。


「さあ、どうだろうね」


 そして、うるがりが動いた。


「なんか知らんが、話がいちいち小賢しいなー。こっちは感覚でやらせてもらうよ」


 その叫びとともに、地面が鳴る。

 数体のウツボカズラが咆哮するように口を開いた。

 回復型、投擲型、ガス噴出型。ランダムのはずなのに、今必要な布陣が揃っていた。


 うるがりの目が、研ぎ澄まされていた。

 彼は引きを信じていた。そして、今、引いたのは勝ち筋だった。


「ならこっちもいくぜ……〈亂㯰蔕夢(らんちたいむ)〉。俺の夢、叩き込むぞ」


 ウツボカズラが咆哮する。


 音ではない。

 風でもない。

 生き物としての意思が、世界に存在していることを叫んでいた。


 足元の土が波を打ち、七体のウツボカズラが地面を割って出現する。

 丸い顎ががばりと開き、中からは酸性の霧、粘液の槍、光を歪ませる粉塵。すべて異なる性質の攻撃が、重なるように拡散された。


「これがランダムの力だ、頭で処理してる間に押し流されちまうぞ!」


 うるがりの叫びに合わせ、最前列のウツボカズラが突進する。

 ずるりと音を立てて滑るように進み、そのままれなに向かって跳躍。


 だが、れなの目は冷静だった。


「その構造、さっきの個体と同じ。なら、効かない」


 瞳が瞬き一つで走査を完了し、れなの背後からまったく同じウツボカズラが出現する。

 模倣された個体が、うるがりのウツボカズラと正面衝突。だが、なぜかれなのウツボカズラの方が勝つ。


 より硬く、より早く、より精密に。


「最適化って便利だよ。君の技、悪くないけど、完成度が足りないんだろうね」


 うるがりが苦笑しながら後退する。


「まぁ、そっちが完成品って言うのなら、俺のは試作品ってことか?だけどさ、未完成の方が面白いって時もあるんだよなぁ」


 後方のウツボカズラが突然動く。

 本体から分離した粘液弾が、れなの足元へと予測不能な軌道で放たれる。

 れなの模倣には無かった挙動。


「個性ってやつの話だ。あとついでに僕の愛」


 その隙を狙い、しろいかが動く、しかし。


 銃が、ひび割れたまま起動しない。


「使えない……」

「さーて、どうするかなっと……」





 △△△





 最初に空気が変わったのは、風が止んだ時だった。


 風が吹いていないことには、なかなか気づけない。

 でもその時、はりもは肌が急に内向きに締まるのを感じた。皮膚が一層、世界と断絶されたような感覚。


「いる……」


 しぜんすいが、小さく息を呑む。


 木々の間、そこに、いた。


 岩を彫り込んで人型にしたような、重量感を孕んだ存在。

 亀甲のような斧が、背に折り重なっている。構造ではなく積もった質量のように。


 タートノレ。

 武器でも兵士でもない、重力を歩かせたような男だった。


「来るぞ、構えるぞ」


 はりもが指をかざす。


「〈抹弖(オール・アイズ)嫚蠱(・オン・ミー)〉」


 空に眼球が浮かぶ。周囲を旋回する視界。

 だがその中で、タートノレだけが不自然に沈んでいた。


「視点が落ちてくる……なんだこれ」


 しやろとが足を止める。彼の目が、一点に絞られていく。


「空間が引っ張られてる。奴自身が場を持ってるな……」


「場?」


 しぜんすいが問う。だが応えは、言葉より早く届いた。


 タートノレが、一歩踏み出す。


 その瞬間、重さの中心がずれる音がした。


 音ではない。地面そのものが、ほんのわずかに軋む感触。


 斧が動いた。

 投げたというより、前に倒れただけだった。だがその斧は、空間を裂いていた。


「速い……いや、重いのか」


 視認はできる。だが体が動かない。

 あまりに自然な運動だった。避ける理由が生まれる前に、重さが勝手に迫ってくる。


「散開!」


 はりもが命じた瞬間、三人が左右に跳んだ。


 斧は空気を圧して進み、地面に跳ねた。

 一度跳ね返ったと思った次の瞬間、再加速して軌道を変える。


「こっちに来るぞ!」


 しぜんすいが空へ手を翳す。


「〈極漿墮々(リキード・ソワレ)〉」


 空から降った液体は、窒化チタンナノ粒子を含んだ粘性混合液。

 表面に付着することで、構造の回転バランスを乱し、予定された運動を台無しにする。


 命中。だが、軌道は、逸れていない。


「重さ自体が、ずれることも想定してる……?」


 しやろとが呻いた。

 彼の〈虚誕(ハンド・セント)掌握(・イマジナリー)〉が空間の座標を歪めようとするが、斧はあくまで慣性に忠実に進んでくる。


「仕方ねぇ、ぶっ壊すしかねぇ!」


 はりもが、眼球のひとつを操作する。


「〈抹弖(オール・アイズ)嫚蠱(・オン・ミー)〉!」


 眼球が炸裂。火と風が斧の前方に広がる。

 だが、斧は火を弾くように軌道を変える。爆風を利用して跳ねたのだ。


「最悪だ、学習してる……!」


 タートノレは口を開いた。ようやく、初めての言葉。


「構造に頼った戦い方をするなら、構造を先に見せたやつから死ぬんだよ。僕はそれが嫌だったから、構造そのものを武器にしたってワケ」


 その目は、静かに語っていた。


 重さとは、止まっている者だけのものじゃない。

 歩きながら、その場に居続けるための選択肢だ。


 斧が跳ねた。


 空間そのものが、質量の楔でこじ開けられるような感触が走った。

 それはまるで、正しい場所に置かれていた空気のレイアウトが、一瞬で乱雑に崩されるようだった。


「くそ……やっぱこの空間、動かないと危険っていうより“動いたら負ける感じがする……」


 はりもが歯を食いしばる。

 あまりに無駄のない加速。あまりに合理的な破壊のプロセス。


 それがタートノレの技〈等々力介ノトーリアス・アックス〉の本質だった。

 投斧は重力の模倣であり、回転そのものが質量の武器だった。


「軌道の法則性がないのが問題じゃない……運動方程式そのものを書き換えてるんだよ、多分」


 しやろとの額に汗が浮く。


「でも、書き換えって言っても、不可視のエネルギーじゃないのが問題だよな。実際に構造的な不均衡を、フィンと質量制御で現実的にやってやがる」


「ってことは、まだ法則があるってことか」


 はりもが応じる。


「いや……確率の隙間があるだけだ。だから、そこを割る」


 しやろとが、静かに右手を前に出す。


「〈虚誕(ハンド・セント)掌握(・イマジナリー)〉」


 詠唱と共に、空間の一点に歪みが走った。

 それによって、接触点にわずかな不連続性が発生する。


「投擲軌道の内側。ここに、通り抜けられない一点を作った」


 次の瞬間、タートノレの斧が跳ねて飛ぶ。

 だが、いつもの滑らかさがない。空間が硬く鳴った。


「止まった……!」


 しぜんすいが空を指差す。


「〈極漿墮々(リキード・ソワレ)〉!!」


 詠唱と同時に、空から勢いよく液体が降下する。


 今回降ってきたのは、ジクロロエタンをベースに、酸化スズ粒子を含ませた超重液。

 落下速度をあえて抑えることで、着弾と同時に表面粘着性の高い帯電被膜を生成する仕様。


 その液体が、停止しかけていた斧に絡みついた。


「よっしゃ、ラッキー!止まれ……止まってくれ!」


 粘性が重心の回転を奪い、刃の慣性軸が微妙に狂う。


 その瞬間、はりもが動いた。


「今だ!〈抹弖(オール・アイズ)嫚蠱(・オン・ミー)〉」


 眼球が斧の横に突っ込み、瞬間的に爆ぜた。


 斧が外向きに跳ね飛ぶ。

 回転運動が完全に崩れた。その衝撃で、タートノレの肩が少し後ろに引かれた。


「崩れた……バランスが、壊れた!」


 彼らは気づく。


 タートノレの恐ろしさは、投斧の質量だけではなかった。

 あの斧は、彼自身の骨格と直結していた。

 つまり――


「質量を操るあの構造は、外すことができない」


「なら、その重さごと壊すまでだよ!」


 しぜんすいが、第二波。


 降下する液体は、過酸化水素+フェリシアン化合物の揮発連鎖型ミスト。

 タートノレの斧の隙間に残った酸化膜と反応し、小規模な腐食バーストを起こす。


 その斧が、一瞬だけ鳴った。


「崩れた!」


 はりもが、すかさずまた眼球を正面に出す。


「〈抹弖(オール・アイズ)嫚蠱(・オン・ミー)〉」


 眼球がタートノレの肩軸を正確に爆破。

 斧の土台ごと、肩からずれた。


 鈍い音。

 地面に斧が落ちた。跳ねなかった。もう、命令されていなかった。


 タートノレの姿がぐらつく。


「やった……!」


 しぜんすいが息を呑んだ。


 だが、タートノレは倒れなかった。

 肩を下ろし、息を吸い、微かに笑った。


「構造で来たな。……なら、構造で負けるのも、納得できる」





 △△△





 地面が、呼吸をしていなかった。


 湿気が濃く、風が重く、音が遠い。

 だが今この空間には、自然という概念そのものが欠落しているようだ。


「空気が縫われてる」


 りおんが言った。

 控えめな金色のメッシュが揺れる。視線は森の奥、そのただ一点に注がれていた。


「断熱構造体の匂いがするな。気圧が引きずられてるっつーか」


 たなとすも静かに応じる。

 肩越しに揺れるのは、白と焦げ茶に染まった植物の破片。彼の周囲だけ、草が枯れていた。


 二人の前方、低木が裂ける音もなく折れた。

 赤箱が現れた。


 全身を覆うのは、装甲というより設計図に近い幾何学的な布陣。

 胴体から腰、背中に至るまで、六面体を変形させたような断熱構造と赤黒の合金フレームが張り巡らされている。

 その背からは、折りたたまれた冷却展開ユニットが無音で発光していた。


「よお」


 その声は無機的だった。

 だが内容には、一分の曇りもなかった。閉じる哲学。それだけが彼の主軸だった。


「さあ、お前ら二人、手始めに止めてやるぜ。そのあとは世界征服だな」


 たなとすが、草を一枚、足元で摘み潰す。


「あっそ」

「興味持てよ」


 刹那、赤箱が動く。音はなかった。


 しかし、その瞬間に展開されたのは、空間そのものの折りたたみ。

 六面体の構造体が、空中でくるりと回転したかと思うと、地面と空と森と熱を切り取り、そこに閉じた空間を生成する。


 展開完了まで、0.6秒。

 たなとすの足元に、白い線が走る。


「たなとす、下!」


 りおんが叫んだ時にはもう遅かった。


 閉鎖。


 空気が断たれ、音が止まり、世界がひとつ閉じられる。

 たなとすは、封じられた。


「まったく、こういう奴と相性悪いんだよ、俺」


 たなとすが、ほとんど独り言のように言った。

 その視界にあるのは、白く光る内壁。


 壁、天井、床。すべてが断熱構造で覆われている。

 さらに内壁には高反応の冷却触媒が仕込まれ、たなとすの体温を追って構造内を濃縮冷却していた。


「……動けば凍るって寸法かな」


 足元の土に霜が浮く。

 その霜は、どこから来たでもない。ただ、体温が奪われた結果として自然に出た現象。


 赤箱の声が箱の外から響く。


「これで少しは俺に興味持ってもらえた?」


 たなとすは、凍え始めた手で首を回す。


「……お前、冗談の一つも言わねぇのか」


 その時、壁際の草がひとつ、乾いた音を立てて凍結し、崩れた。


 たなとすは、微かに笑う。


「よし。先に死んだやつ、いたな」


 彼の足元に、小さな亀裂が走る。

 そこから浮き上がったのは、無数の粒子のような、透明な祈りの塊。


 〈爴爴裂裂(かくかくさくさく)〉。

 死んだ植物や虫の死念を、空間内部から内側にしか届かない刃として呼び起こす。


 赤箱が初めて、静かに黙った。


 密室の空気が、微かに震えていた。

 それは風でも冷気でもない、死者たちの存在圧だ。


 たなとすの周囲に集まったのは、凍えて崩れた草花、虫、空気の流れの死骸。

 〈爴爴裂裂(かくかくさくさく)〉によって呼び起こされた念が、閉ざされた空間の中で、一点だけ赤箱の冷却構造をかすかに“震わせた”。


「揺れたか……」


 たなとすは、凍えた手を開く。


 その瞬間、断熱膜の内側で生じていた結晶構造に、微細な熱流の偏りが走った。


 赤箱は外からそれを察知する。

 だが、その声には焦りがなかった。


「……この空間は、六面すべてが同時に君を無視している。干渉はできても、突破はできないぞ」

「わかってるよ。だから、俺は動かない」


 そう言った瞬間、天井に、小さな音が響いた。


 違う。音ではない。衝突の気配。


 空中から、りおんの矢が撃ち込まれたのだ。


 だがその矢は、明確な一点を狙ってなどいない。

 赤箱の断熱構造のうち、最も凍結速度が遅れていた箇所を、条件付き確率と揺らぎで突き抜けた。


 ピシ、と髪の毛一本が切れるような破裂音。


 そのヒビは拡がる。

 断熱層の一枚が、ごくわずかに内圧で膨らんだ。


 赤箱の口調が、一瞬だけ遅れた。


「……割れた?」


「そう。お前の空間は完璧じゃないってことだよ。閉じるってことは、外との断絶を選ぶってこと。……なら、圧力は常に、内側にしか貯まらないんじゃないか、と思ってね」


 りおんが上空から見下(みくだ)すように言った。

 内壁のひとつが、その瞬間に感情を持ったように脈打つ。亀裂が、音もなく広がった。


 たなとすの足元に溜まっていた霜が、内側から吹き上がる。

 閉じられた空間が、ほんのわずかに呼吸した。


 外気が流れ込み、断熱層がわずかに歪む。

 たなとすの周囲に漂っていた死念の粒子が、一斉にその隙へと流れ込んだ。


「……今だ」


 たなとすが、ほとんど息の音だけでつぶやいた。

次回予告 ほもぺん vs シャーロット クライマックス!!!

(多分)一話分まるまる使ってやるぞ!!


(……シャーロット出番多くね?)

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