第6話 ミレイユの計算
二人の婚約が解消となってから四日後。ミレイユは、バークライト侯爵邸を訪れた。
玄関には、間が悪いのか良いのか、オスカーの姿があった。居合わせると、彼はあからさまに眉を顰めた。
「何をしに来た、ミレイユ」
怪訝な顔は、すぐに得心したものへとすり替わる。
「……あぁ、侯爵夫人の座が惜しくなって、俺に縋りに来たか。残念だったな。キャスリーンとの婚約は成立済みだ」
ミレイユはにっこりと微笑んだ。
「私は婚約者に会いに来ただけですわ」
「婚約者……? 何を言っている。お前との婚約はもう……」
「ミレイユ様!」
弾んだ少年の声が降ってきた。
顔を上げると、吹き抜けになった二階の手すりからアルヴィンが身を乗り出していた。
すぐにこちらまでやって来た彼は、丁重な所作でミレイユの手を取った。そうして、柔らかく微笑む。
「お会いできて、嬉しいです」
「私もです、アルヴィン様」
二人はのほほんと笑顔を交わす。やり取りについていけてない様子のオスカーに、ミレイユは首を傾けた。
「あら? ご存じではありませんでしたか? 私の現在の婚約者は、アルヴィン様なのです」
は? と、オスカーが間抜けな声を上げた。
「……いつから」
「婚約解消のサインをするために侯爵邸を訪れた際に、新たにアルヴィン様と婚約を交わす書類にもサインをしました」
ミレイユの説明に、オスカーは腑に落ちたという顔になる。
「父母はお前を気に入っていた……だからアルヴィンと婚約させたというわけか」
独りごちた彼の口許に、すぐに嘲りが浮かんだ。はっ、とオスカーが鼻で笑う。
「残念だったな、ミレイユ。どうせ侯爵家の資産目当てだろうが、次男のアルヴィンじゃあ大した資産は望めないし、成人後に金銭的援助を得られるかどうかは当主次第。俺は弟を甘やかすつもりなどないぞ」
この国では、家督を継がない名家の男児は成人後に実家を出たら働くか、資産家の娘に婿入りするのが一般的だ。
ミレイユはそっとアルヴィンの顔を覗き込んだ。
「アルヴィン様。あれを持ってきていただけますか?」
「もちろんです」
聡明なアルヴィンは皆まで言わずとも心得た様子で、階段を上っていく。
「……いずれお話ししなくてはと思っていましたから、ちょうどいい機会です。オスカー様に真実を教えて差し上げます」
オスカーに向けて、ミレイユは悠然と微笑んだ。
気弱で大人しく、従順な令嬢。そんな風に思っていたであろうミレイユが初めて見せた表情だったからか、オスカーはほんの少したじろいだ。
「オスカー様は、なぜマグノリア家とバークライト家で婚約が成立したか……経緯をご存知ですか?」
「父上が領地の冷害対策で、マグノリア子爵に助言を仰いだことがきっかけだろう」
ミレイユの父は領地経営の手腕が飛び抜けていると、国内でも評判だった。
一方で、バークライト侯爵は領地のやりくりが苦手で、肩代わりしてくれる人材にも恵まれていなかった。そこで、ミレイユの父を頼ったのである。
「そうです。そして領地経営の手腕に関して、敏腕なのは父だけではありません。幼い頃から父の補佐をしている私もまた、それなりの心得があります」
バークライト侯爵は侯爵領の経営をミレイユに任せるつもりで、婚約を申し出たのである。
「私を妻に迎えれば、侯爵領の安定は概ね保証されるというわけです。さて、ここからが肝心です。オスカー様」
大事なことなので、ミレイユはしっかりと抑揚をつけて告げる。
「侯爵領の安寧のために私を迎え入れるのですから、その夫となる方は当然、家督を継ぐべきだと思いませんか?」
オスカーが眉を顰める。
「何を言っている。家督を継ぐのは長男の俺だ」
「いいえ、兄様。将来バークライト侯爵を名乗るのは、僕です」
戻ってきていたアルヴィンが、一枚の羊皮紙を兄へと突きつけた。
記されている内容は簡潔だ。
『ミレイユ・マグノリアを妻と迎えた者を、バークライトの次期後継とする』
つまりは、バークライト侯爵直筆の誓約書。
ご丁寧にサインまで記入された羊皮紙を前に、オスカーの唇がわななき、瞳が愕然と瞠られた。
すべての始まりは、一年前。
オスカーに約束をすっぽかされ、代役でアルヴィンと出掛けた日。彼にこう告げられた。
『初めてご挨拶した時から、あなたをお慕いしています。兄様はあの通りの方なので、家督に関して付け入る隙があります。もし僕がバークライトの次期当主の座を勝ち取ったら――兄との婚約を解消し、僕を選んでもらえませんか』と。
それまでもアルヴィンは勤勉な令息だったけれど。以降、彼は一層勉学に励むようになった。
ひたむきなアルヴィンの姿に、ミレイユは決心した。彼の努力が実を結ぶのを待つのではなく。婚約者は自らの意志で選ぼう、と。
そして、侯爵にこう打診した。
もしオスカーから婚約破棄の申し出があったなら、ミレイユは受け入れて新たにアルヴィンと婚約を交わす。そして、その時はアルヴィンを後継者に選んではくれないか、と。
長男という立場に胡座をかいているオスカーの姿に思うところがあったのか、侯爵はミレイユの提案に乗ってくれた。
無計画にミレイユを捨てるほどオスカーが愚かなら。その時はアルヴィンを後継者に指名しても構わない、と。
勝算はあった。
己が一番でないと気が済まない性分のキャスリーン。彼女が入学当初からミレイユに強い対抗心を抱いていたのは有名で、キャスリーンから敵視されているという話は、ミレイユ本人も聞き及んでいた。
キャスリーンが侍らせている令息たちは、最初はミレイユに好意を抱いていた者たちだ。とにかく人のものを欲しがる性。彼女のそんな性格を、利用しない手はない。
ミレイユは待ち望んでいた。キャスリーンがオスカーを奪ってくれる日が訪れることを。
オスカーを独占することで優越感を得ようとしていたキャスリーン。婚約者より幼馴染を優先するオスカーの姿勢にミレイユが無関心を貫き続ければ、手応えのなさからムキになり、いつか婚約者という立場そのものを奪おうと画策するはず。
そう確信していた。
ミレイユから婚約者を奪ったという優越感と、侯爵家嫡男の婚約者という肩書きは、キャスリーンにとってひどく魅力的だから。
結果は案の定、である。
言葉もなく、愕然と立ち尽くすオスカーに、ミレイユはにっこりと微笑み掛ける。
「残念でしたわね、オスカー様。家督を継げず、突出した能力もない――そんなオスカー様が卒業後、屋敷を出てどう生きて行くおつもりなのか、楽しみです」
「……っ、家督の件、なぜ黙っていた!?」
「お話ししたら、婚約解消に同意していただくことが困難になりますから」
侯爵夫妻がオスカーに再三注意してきたのは、愛情の表れだ。手遅れになってからでは遅いから、自身の将来のために態度を改めなさい、と。
「あんまりだ、ミレイユ。俺と君は婚約者だったんだぞ。互いの至らない部分も、話し合いで改善していく努力をすべきだろう! キャスリーンのことで不満があったのなら、なぜ一言も口にしてくれなかった……っ」
縋るようなオスカーの言葉に、ミレイユは失笑した。
「申し訳ありませんが、私の中でそのような労力を割く価値が、オスカー様には見つけられなかったのです」
話し合って、良好な関係を築くための努力をして――ミレイユだって、大切なことだと思う。
だが、その労力を割く価値が、オスカーにあるとは思えなかった。
婚約が決まり、知り合ってから現在に至るまで。オスカーの器を、ミレイユはそのように評価していた。
オスカーも彼の友人たちも、ミレイユが何も言わないのは大人しくて身分差に怖気付いているからだと捉えていたようだが。笑わせないでほしい。自分は端から割り切っていただけ。
侯爵家と手を取り合うことで、子爵領が潤うのは事実。貴族の結婚に愛を求めるのは夢を見すぎているし、領民のためなら婚約者の不出来さくらい我慢できる。そう思って、ミレイユは軽んじてくるオスカーを窘めることすらしなかった。
だが、アルヴィンからの告白で事態は変わった。ミレイユに選択の余地が生まれたのだ。
長男だから無条件で家督を継げる、なんて傲慢だ。
ミレイユは相応の努力をして能力を得た者が継ぐべきだと思う。
「……あ、アルヴィン! こんな血も涙もない冷たい女が婚約者で、お前はそれでいいのか……っ」
アルヴィンの瞳に一瞬だけ嫌悪が滲んだけれど。彼はすぐに微笑んだ。自慢げに言う。
「ミレイユ様はいつ何時も理知的で冷静。流石は僕の太陽です」
「まぁ」
己が冷徹な自覚があるミレイユは、そんな風に表現されて純粋に嬉しかった。ふふっと笑みをこぼしてから、表情を引き締めてオスカーを見据える。
「他人の心配よりも、ご自分の心配をなさった方がよろしいと思いますよ?」
「どういう意味だ」
まだまだ現実が見えていないオスカーに、ミレイユは教えてやる。
「キャスリーン様がオスカー様を愛していらっしゃる。まさか本気でそう思っておられると? 十中八九、侯爵夫人の肩書きがお目当てですから、家督を継げなくなったオスカー様は捨てられてしまうかと」
「な……っ」
鼻白むオスカーに、にこにこと続ける。
「あぁ、でも、お二人はすでに婚約が成立しているのですから、キャスリーン様から一方的に破棄することはできませんね」
当たりの婚約者が一転して、ハズレになった。キャスリーンの反応を想像するのは容易い。
「お二人の関係がどのように拗れていくのか、眺める様が楽しみです」
開いた口が塞がらないと言わんばかりに、オスカーは口をはくはくとさせている。
意趣返しはこのくらいでいいかと、ミレイユはアルヴィンを振り返った。
「それではアルヴィン様、お出掛けに向かいましょうか……っ!」
オスカーには一度たりとも向けたことがない、屈託のない笑顔を浮かべて、ミレイユは差し出された婚約者の手を取るのだった。




