第32話 夢路
伝説の始まり……(??)
どうしてこんなに静かなんだろう、と思った。
九月二十七日に発生したベヒーモスとの戦闘が終わってから既に四日が経過した。リリスは魂が抜けたようにソファでくつろぎ、無意識にカレンダーを破く。九月は例年よりも長く感じた。エレンとの出会いから戦いまで、あらゆる出来事が畳み掛けるようにしてやってきたからだ。
耳障りな咆哮と銃声が、今では嘘のように息を潜めていた。耳の奥にこびりついていたはずの轟音も、今はもう遠く、夢の奥に沈んでしまったようだ。
何も予定が書かれていない十月のカレンダーを見て、リリスは小さくため息をつく。窓の外からは穏やかな秋の光が差し込み、小鳥の囀りが聞こえる。
「……ふぁ、よく寝た」
リリスはソファの上で大きく伸びをした。戦場の緊張感で常に張り詰めていた体は、最初こそこの静けさに違和感を覚えていた。しかし流石に四日も何もせずにいると全身の力が抜けていくのが感じられる。
戦わず、訓練もせず、ただひたすらに平穏を貪る。昼下がり特有の空気感に体はもう慣れてしまったようだ。
キッチンへ向かい、冷蔵庫から飲みかけの牛乳パックを取り出した。コップの七分目まで注ぐと、一口飲んで味わう。
ふとリリスはキッチンを見る。普段であればエレンが立って何かを作っている頃だ。しかし今はいない。彼女が付けていたヘアピンがテーブルの上に置かれているだけだった。
あの日、気を失ったエレンを病院に送り届けてからリリスは顔を合わせていない。軍は「未知の環境因子による一時的な共鳴」と結論を出し、リリスには十分な休暇が与えられた。
あの不思議な力がどう片付けられるかわからない。最初は不安だったが、今となってくるとなぜか大丈夫だろうという気持ちに落ち着いていた。
「ま、いいか。平和なのはいいことだし」
そう呟いて牛乳をもう一口飲む。喉を通る冷たさが心地いい。
部屋には一人、時計の音がやけに大きく聞こえる。
『どうしてこんなに静かなんだろう』
さっきと同じ言葉がまた浮かんだ。何かが足りないような感覚、答えはわかっていた。しかし理解したくはなかった。欠けていた感情を、リリスは取り戻したかった。
その時、玄関から物音がした。きっとベティとサラが帰ってきたんだ。リリスはそう思い寝起きの髪のまま玄関へ向かう。
「エレン」
ドアの向こうから感じる控えめな気配。リリスは一瞬違和感を覚えていたが、その答えはすぐにわかった。
ゆっくりとドアが開き、二人の目が合う。
リリスの指先から力が抜け、ガラスのコップがタイル張りの床に落ちて粉々に割れた。破片の隙間を縫うように牛乳が床に広がるが、リリスは目もくれなかった。
「退院は……明日、だって聞いてたのに」
「ふふっ、実はリリスさんを驚かせたくて、無理を言って早めてもらったんです」
エレンが可笑しそうに笑う。
その瞬間、リリスの中でせき止められていた物が込み上げてくる。裸足のまま駆け出すと、そのままエレンに勢いよく飛びついた。
「本当に、本当に……心配したんだ」
「……わっ!そんなに強く抱きしめないでください……」
エレンは困惑しながらも肩に手を回した。リリスの肩はいつもよりも小さく、小刻みに震えているのが伝わってくる。リリスはエレンの胸の中で温もりを確かめるように、何度も、何度も、その名前を呼んだ。
2人はしばらくの間、玄関先で再会の喜びを噛み締めていた。
ようやくリリスが顔をあげると、エレンの服は涙と鼻水で濡れていた。
「う、うわ……」
エレンが汚いものを見る目でリリスを見つめると、リリスはいたたまれなくなったのかそっぽを向く。そしてポケットからヘアピンを取り出した。
「これ、さ……エレンが付けてたものだよね。いない間、これをエレンの代わりだと思ってたの」
「本当ですか?嬉しいです!」
「パンツとか……持ち歩くわけにはいかないからね」
エレンの顔が赤くなり、羞恥心で視線が泳ぐ。
「……冗談。それだけ寂しいって言いたかっただけ」
リリスはそっぽを向いたままヘアピンをエレンの手に握らせた。耳の先まで赤く染まったのは、涙のせいではないだろう。
エレンは鏡も見ずに慣れた手つきでピンを留めると、満面の笑みで胸を張る。
「リリスさん、お腹すきませんか?私、病院食だと全然足りなくて……」
「確かに私も結構空いてきたかも。エレンがいない間、適当なものしか食べてなかったからね」
エレンは靴を脱ぐと、割れたコップを避けて歩き出した。
「じゃあ今日はさ、私が何か作るよ。いつもエレンに任せてたし」
「何言ってるんですか、私が作りますよ」
「いやいや、私が作るよ。エレンは病み上がりだからね」
「ダメですよ、リリスさんはそういうの向いてませんって」
「エレン」
「リリスさん」
「エレン〜?」
「はい──じゃあ、一緒に作りましょう」
「一緒に」
リリスはエレンの目を見る。
「いいや私が作るよ」
エレンは小さく笑った。呆れたように肩をすくめるが、その表情には隠しきれない愛おしさが滲んでいた。リリスは腕をまくると、手始めに落ちたガラスの破片を集める。
彼女の背中は、戦場で見せたタフさとは対照的に幼く見えた。エレンはそんなリリスを見て目を細める。
「いい?エレンはそこに座っててね。アリアドネ最強の料理人の実力を見せてあげるから」
エレンは言われた通り椅子に座り、慣れない手つきで冷蔵庫を漁るリリスを眺めていた。卵を粉々に割り、震える手で包丁を握る。具材を切り終えた頃には卵はすっかり固まっていた。
失敗し慌てふためくリリスの反応は面白く、エレンはずっと笑っていた。
結局、リリスは形の悪いオムレツと厚さがバラバラのグラッセのようなものを作った。トーストは片方が黒く焦げている。
「見た目は悪いけど、食べてみると美味しいはずだから」
「……いただきます」
エレンが一口食べると、表情が曇る。
「ふっ……ふふふっ、なんだかとても……面白いです」
「えーそう?そんなに個性的な味だった?」
「そういう訳じゃなく、ふふっ、普段見れないような一面が見れて」
リリスは照れくさそうに自分のトーストをかじる。
窓の外は深い青に染まり、外が騒がしくなってきた。
この平和の後に、どんな困難が待ち受ているのか、リリスは想像もしたことがない。しかし例え今以上に大変だったとしても、仲間がいて暖かい食事を共にしている限りはリリスが挫けることはない。
今はただ、目の前の幸せを楽しむことが、彼女にとってのさいぜんたくだ。
第1章、完結!第1章、完結!!
ここまで読んでくれた皆さんありがとうございます!!!!
本当に感謝しかない!
第2章は5月24日からなろう、カクヨム、アルファポリスで連載開始します!




